第十九章『猟奇式人形』1

 ――たすけてくれぇ


 ――いたいぃ


 ――お前のせいでぇ


 人形と化した日進の、呻きにも似たくぐもり声の数々が楓にふりかかる。

 ただの呻き声ではなく、むき出しの感情を伴う叫びであった。

 それが楓の鋭敏な感覚を荒く撫でまわして蹂躙する。

 呻きには耳を塞げばいいが、心の叫びにはそれができない。

 仮面が外れた瞬間、彼が受けている痛苦の感が疫病のごとく楓に伝いまとわりついたのだ。


「いや、そんな……、やめてください!」


 人間は多かれ少なかれ感情や本音を薄い膜に包んで人と接している。これは心と心、本音と本音が直接ぶつかり合うのを避け、互いの関係や社会を良好かつ円滑なものとするために備わっている社会的な機能だ。

 しかしいまの日進にはそうした膜がなかった。

 感情や本音を包み隠さず勢いよくぶつけられれば人は驚き戸惑い、社会は軋みをあげる。

 日進は我が身の痛みと苦しみから生まれる呪詛めいた感情を楓にぶつけていた。

 帝都に来てからというもの妙に霊感が過敏になった楓にしてみれば、鋭いむき出しのの感情はあたかも牙を突きたてられているかのようであった。


 彼女が受けている心の声や本音、生の感情は霊性解析学でいうところの〝思念〟である。

 それが通常ここまで強い訴えを発するには肉体が消滅していないと――つまるところ死んでいるか、それに近しい状態に置かれていないと――難しい。

 肉体を伴う本音と、それを伴わない思念は根本的には同じものとされている。


「たすけぇぇいたぃぃぉぉおまえぇぇぇぇ――」


 人形なのか日進なのか、彼は痛々しくおらびながら、楓に背を向けてのしのしと《猟奇博士》へ向かっていく。

 相手が目を逸らしたことで楓は、自らに叩きつけられる生々しい感情への怯えと苦しみからようやく解放された。


「ええい! 何をしているのだ! まだ誰も殺せていないではないか! わたしがいいというまで行動を変えるんじゃない!」

《猟奇博士》が人形の膝を思いきり蹴りあげる。

「ほら、早くしろ! あの女を殺せ。殺せ!」


 博士が急かすと人形は振り返り、よろよろと立ち上がる楓をじっと見つめた。

 目を合わせずとも心の叫びが漏れ聞こえてくる。


 ――助けて


 ――痛い


 ――お前のせいでこうなった


 しかし今度はあらかじめ心構えができていたので、怖気はだいぶ軽減されていた。相手の感情に呑まれる恐れも和らいだ。

 それでもむき出しの感情をぶつけられる気持ちの悪さはどうにもならない。

 常に身体を強く揺すられているような心地がする。

 そんな中でも楓は人形や日進について考えずにはいられなかった。

 日進は肉体を持ちながら感情をむき出しにして訴えてくる。

〝思念〟を軸に考える楓としては、それを『生きながら死んでいる状態』としか想定できない。


 むろんそんなものはありえない。

 何かが見せかけなのだ。


 ――そういえば市谷さんは確か


 ふと、もっと根本的な部分への恐れを抱く。


『こいつらは人なんてもんじゃない。〝もう〟人形なんだ』


 彼は確かにそう言っていた。

 その〝もう〟について問い返すと『ただの人形ってことさ』と。

 楓は言葉の綾だと受け取った。

 しかし目の前の人形が日進の顔を持っている事実を考え合わせれば、それはとんでもない思い違いであったのかもしれない。


 ――あれが『いまはもうただの人形になってしまった』という意味だとしたら……

 今度の怖気は自分の内側から湧き上がってきた。

 ――日進さんだけではなく、おそらく人形すべてが……、元は人間?

 市谷はそれを知っていてはぐらかしたのだろうか。


 知っているのならば、なぜ教えてくれなかったのか。


 ――おそらくは今こうなっているように、驚かないよう慮ってくれたのでしょう

 また彼を責めるのならば、自分こそ、なぜもっと深く問い質しておかなかったのか、とも思う。道具や人形にも精神が宿るという事例をなまじ聞き知っているばかりに、楓は別のとらえ方を見落としていた。

 悔いてももう遅いが。


 ――私は日進さんになんてことを……

 止むに止まれぬ自衛と決心して銃を手にした楓であるが、ただの人形――人間を模してはいるが、人間ではない存在――かもしれないと意識して撃つのと、元が人だとわかった上で撃つのとでは、覚悟の度合いに天地の開きが生じてくる。

 先の楓は、正体のわからぬ存在である人形を排しようとの意思をいだいて銃を向けた。

 だが、その相手が人間、それも顔を知っている日進であったとは……。

 たとえ相手がこちらに害意を向けていたとしても、そのことと自分が致命傷を与えかねない一撃を加えようと云為うんいするのは関係がない。少なくとも彼女はそう考えている。


 ――もしこの手の銃が顔面を撃ち抜いていたら、私は日進さんを、人を撃っていたのだろうか。それは知らなかったですむことでは……

 人と知らずに撃ったとしても、人を撃った事実は変わりない。

 南海みなみ楓は何事にも自分の意識がどう作用し、どのような事象を引き起こすのか、あるいは自分がどういう意識で事態に臨んだのか、そうしたことを気にかけすぎる。

 自分がどう思い、どんな行動を起こすのか。

 彼女はそれを重視する人間であった。


 ――市谷さんは人形の正体を知っていて、なお人形を撃っている

 おそらくは彼のほうが年下だろう。

 が、この場において年齢は関係がない。

 きっと彼の方が多くの覚悟を経た人生経験を積んでいるのであろう。

 彼我の絶対的な差を見つけてしまった楓は、体中から力が抜けていくのを感じた。

 握っていた銃をかちゃりと床に取り落とす。

 そんな彼女の耳に、《猟奇博士》のあらん限りの悪罵が耳に入ってくる。


愚図ぐず! 木偶の坊! 貴様はそれでもわたしの発明品か! 傑作か!」

「は、つめい、ひん?」

 発明品というのならば、

 ――人形が人でない可能性はまだある?

 青ざめて当惑する彼女は、我知らず博士の言葉にすがるよう繰り返す。

 巨大な耳を持つ蝙蝠コウモリの仮面をまとう博士は、楓のつぶやきを耳ざとく聞きつけて口元を歪ませた。三度みたびその披露癖が首をもたげたのである。

「……ん? その通り、これは我が発明品だ」

 長話をしても大丈夫か、博士はさっと場内を見回す。


 探偵助手はいまだ〈怯え〉に苦戦している。

 道化師の置き土産、〈怯え〉の動きにきれがなくなりはじめていたが、相手も息せききっており、強い疲労の色が見て取れる。

 ――たとえ〈怯え〉がやられても我が猟奇式がある

 短く切ったジビル集音管に問題があるのか、命令の受諾から行動に移るまで時間がかかるものの、忠実な駒であるのは変わりない。疲れた子供と女ならいつでも殺せる。

 ――《軍団卿》が来たとても、やはり我が猟奇式によって抹殺してくれるわ

 己と自らの発明品への絶対的な自信があったればこその余裕であった。

 無理もない。

〈地下炉〉の実証計測をほぼ済ませた彼にもはや後顧の憂いはないのだから。

 計画は達成寸前だ。

 その上で碩学級探偵の《軍団卿》を葬ったとあればその手柄と褒賞は……、博士は皮算用をはじめる。


 ――二つの大輪の前では道化師の死など霞むだろう。そしてわたしは出世する。《恐怖公》閣下も《機関卿》閣下も、いや、〝空白の第四位〟さえ追い落としてみせよう!

 壮年から老年にさしかかりつつある男の夢が際限なく膨らむ。いまや彼は、ご馳走が運ばれてくるのを心待ちにする子供のような心境で《軍団卿》の到着を待っていた。

 来るのならば来い、どこからでも猟奇式が相手になってやろう、と。

 その束の間の座興に己の些細な欲望も満たすべく口を開く。

「発明品とはいったいどういう意味なのか気になる。そんな顔をしていますね」

「お、おそらく、ろくでもないことなのでしょう」

 楓の声は震えている。博士をにらみつける瞳は潤んでいる。

 だがこんな時でも彼女は視線を逸らせない。

 敵対する相手から目を逸らしてはならないという教えの賜物だろうか。

 それもあるが、現在はどちらかというと身が竦んでしまっているのであった。

「き、興味、など、ない……、です」

「いいや、あるね! 顔がそう言っている!」

《猟奇博士》は語気鋭く楓の否定を跳ね除けた。彼は相手の言動から、見たくないものを見てしまって、それを認めたくないがために、なんでも否定してしまっている態度を嗅ぎ取っていた。

 だから彼は続ける。

 もっとも相手の態度のいかんにかかわらず、すでにこの男自身も喋りたくてうずうずしはじめていた。

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