第十八章『戦争を招くもの』4

 楓は進退窮まって人形の前で身構えている。

「あぅぅぅ」

 と、重傷者があげるような呻きの〈喜色〉が楓に殴りかかる。

 楓の身なりなら難なくかわせそうな素早い動きではなかったが、


 ――あ、足……!

 左の足首を痛めている楓は、寸でのところで横飛びして攻撃をかわす。

 拳が衣服をかすめていく。


〈喜色〉は腕を振りぬいた勢いでよろめき、そのまま拳を床に命中させた。

 ぼぐん、と鈍い音を立てて岩敷きの床が打ち砕かれる。

 のみならず、破砕された路盤を中心に無数のひびが広がっていくではないか。


 ――一撃がとんでもない

 まともに当たればひとたまりもないだろう。

 断続的な呻きとともに振り返り、〈喜色〉が楓をにらみ、また停止する。

 薄く開けられた仮面ののぞき穴から垣間見える瞳からは、相変わらず仮面の表情と矛盾する怒りと悔しさを明確に読み取れた。


 ――やっぱり感情がある……


 帝都で初めて相対した時からおぼろげに感じ取っていた仮面男の感情。

 それがいま楓にははっきりとわかるのだった。

 人形に感情があるということは、少なくとも死体を操作する〈六骸むくろ〉ではないのだろう。

 ――ならば、人形と呼ばれる彼らはやはり生きていることになる


 変わらぬ表情の仮面の下にはいかなる表情を潜ませているのか。


 ――でも市谷さんは『人形は人ではない』と

 感情を持ちながらも、『人ではない』等身大の人型をした生物――少なくとも実存する体を持って存在している――がいるのだろうか?

 それを楓の知識に当てはめると「人体に憑依している動物的」存在となる。

 だが、そんなものが現代の帝都に存在しているだろうか?

 それも人形という形で複数体も。

 それこそ〈巫機構かんなぎ〉が大々的に動く案件ではないか。


〈喜色〉が再び拳を振りかぶって楓に襲いかかってくる。

 二度目は余裕をもって、左足を気遣いながら避ける。

 それでも衣服をちりっとかすめるぐらい身近な距離だった。

 また床が打ち砕かれる。


「あなたは、いったい何を思ってこんなことをしているのですか?」

 もしも感情があるのならば、たとえ言葉は通じないのだとしても、何らかの呼びかけには応じられるのではないか。そう思っての呼びかけだった。

 しかし返ってくるのは変わらぬ呻きと攻撃だ。

 三度目も余裕を見て早めに避ける。

 が、またまた拳はぎりぎり二重廻にじゅうまわしをかすめた。

 そして床が砕ける。


 呼びかけは通じない。

 四度目、相手の動きに余裕を見て前より早めにかわしているのに、相手の重い一撃は変わらず二重廻しの袖をかすめる。


 ――相手も早くなっている?


 その疑問に五度目の攻撃が明確に答える。

 ぎりぎりでかわした楓の頬の上を、振りかぶった拳が起こした風がひゅっと駆けていった。

 床を破砕する音も大きく、ひび割れる面も広まっていた。

 ぎりぎりでやり取りするからこうなるのだと、楓は思いきって距離をとる。

〈喜色〉も床を蹴って跳躍してくる。

 拳を突き出してはいるものの、ほとんど体当たりの姿勢だった。

 早い。

 そう思う間さえなく距離を詰められた楓は、思わず左足を軸に飛んでしまう。


 激烈な痛みが全身を駆けめぐった。


 目の前がちらちらと白く発光して、何が起こったのかすぐには理解できない。

 四肢を床にめり込ませた〈喜色〉が逆様さかさまにこちらを見ている。

 や、と楓。

 自分が尻餅をついて仰向けに倒れているのだと気付くのに時間はかからなかった。

 左足の痛みに耐えきれず、床に背面から崩れ落ちたのだ。

 倒れこんでしまい偶然に攻撃をかわせたようだった。

 すぐに痛みを感じる左足に遅れること数秒、背と尻で痛みが踊る。

 目をつむって深呼吸をしたいが、相手を視界から弾くような真似はできない。


 ――このままでは追い詰められる一方

 ぐるりと回ってから膝を使って立ち上がり、に手を差し入れる。

 ――やはり武器を使うしかないのでしょうか


 武器なくしてこの相手に立ち向かえるだろうか。

 圧倒的な破壊力を持ち、しかも速度でもこちらを捉えそうになっている相手だ。

 生身で勝てる可能性など見いだせない。

 知恵を絞ればあるのかもしれないが、別の手を思いつけるほどの余裕を欠いていた。


 おとしの中で手にしたものを握る。

 ひやりとした武器の感触。

 むき出しの刀身のような鉄器。


 床にめりこむ四肢を抜こうと力んだ〈喜色〉が、引き抜いた反動で勢いよく尻餅をつく。

 顔面いっぱいの喜びをたたえた表情と、その滑稽な動作は曲馬団の道化師を思い起こさせるが、楓はその動作の向こうに自分の命の終焉を垣間見て大量の冷や汗を垂らす。脇の下は不快で、全身の脈拍が異様に早まっていた。

 もし〈喜色〉の拳にでも打たれれば、亀裂の走った石の床のように全身の骨が砕ける未来が目の前にある。

 気を引き締めなければ命の保障はない。

 南海みなみ楓はもう、そういう世界に足を踏み入れてしまっていた。


 やるか、やられるか。


 銃を引き抜けば、楓と〈喜色〉はその一直線上に立つしかなくなる。

 他の方法を模索すべき手の自由がたった一つの銃器に奪われるのだ。


 ――だけど、それしか方法がないのならば……

 話しかけても芳しい反応を得られず、問答無用とばかりに襲いかかってくる相手だ。

 撃退するより他に目覚ましい策などない。


 楓は意を決し、おとしから武器を取り出す。

 引き抜いた銃は予想外に重く、大きく、固かった。

 人を殺す武器だが、今は楓の身を護る護身具でもある。

 そっと、市谷を真似て両手で構える。

 人に向かって撃つのには大きな抵抗がある。

 が、自分が殺される寸前までそんなことを言ってはいられない現実に直面していた。

「う、撃ちま、撃ちます……、よ」

 彼女は自分の声が戦慄わなないているのに気付いているだろうか。地下の炎あふれる蒸し暑い室内で、唇を震わせて冷たい銃器を構える。

 とらえた先には喜びに満ちた仮面。

 人形は構わず楓に飛び掛かってきた。


「ひ」と短く悲鳴を漏らし、楓は引き金を引いていた。

 しかし想像よりもずっと重く引ききれない。

 ぺたんと尻餅をついて、その勢いでようやく指を完全に折り曲げられた。


 ぱん、という乾いた音。


 それをまさか自分が出す側になろうとは。

 彼女はその瞬間にもしっかりと目を見開いていた。

 対峙する相手を視界から外すな、という教えは楓の身に沁みており、得物が変わろうともきっちりと実践されていた。だからといって、初めて銃を撃つ彼女が動く相手にまともに命中させられるわけもなく。

 弾丸は詰襟の首元をかすめてどこかに飛んでいった。

 楓のすぐ横に拳が落ちてきて、床が鈍い音をたてる。

 互いに息のかかる距離で〈喜色〉と見つめあう。

 弾丸がかすめて裂けた詰襟の首から、たわんだ安物のネクタイがのぞいている。

 下になにかを着こんでいるのだろうか。

 その時であった、人形が何かを口にしたのは。


「ぅぅ……たふぅけぅ」


 間近で聞こえてきたのは人形の呻きではなかった。

「え? え? なにを?」

 身近に迫って初めて、実は呻きがくぐもり声であったのに気付く。

 ――何を伝えようとして?

 戸惑う楓に〈喜色〉は変わらず拳を振り上げる。

 会話ができるわけではないのか。

 床を砕くあの一撃が振り下ろされたら……。

 楓は尻餅をついたまま身を引いて後ずさる。

 床と拳に挟まれれば骨が粉々になる。身も押し潰されるだろう。

 楓はへっぴり腰のまま銃を正眼に構え、必死で指に力をこめる。


  ぱん、と至近で発射された弾丸だったが、〈喜色〉の仮面の縁をかするという結果に終わってしまった。発射時の反動で銃の先が大きくぶれていた。

 威嚇射撃であれば効果的だったかもしれないが、そもそも楓には狙って撃つという余裕さえなかった。射撃を誰かに教わった経験はなく、反動を抑えこむような姿勢や照準の調整などもとより考慮の外である。ましてや窮境に陥ったなか死に物狂いでの抵抗だ、弾丸が相手をかすめただけでも十分だろう。


 あわあわと、楓は続けて引き金を引く。


 自動装填されていた弾丸が、再び、ぱん、ぱん、と乾いた音とともに飛び出し、〈喜色〉をかすめる。一見やみくもに放たれた二発の銃弾だったが、それらはまぐざいわいとばかりたてつづけに仮面の縫い目を打ち払っていた。

 切れた縫い目がはらりと垂れて、仮面が徐々に人形の顔からずり落ちていき……、


「たすけてくれぇ……」


 と、くぐもり声の内容が明らかとなる。

 仮面が外れた〈喜色〉は追撃をぴたりと止めて、怒りのこもった瞳で楓をまじまじと見つめていた。


「いたいんだぁ……、あたまがいたぁぁぃぃ……」


 地の底で助けを求めるような、体の全身から絞り出される声だった。


 目の前に現れた人間の顔を前にして、楓は歯を食いしばり、肺腑から湧き上がるものを必死にこらえる。身体は多量の清涼剤を欲しているが、その身体が硬直して動かない。


 仮面の下の顔――限界まで開かれた眼球は真っ青に血走り、瞬き一つ許されていなかった。

 口も裂けそうなほどに左右に広げられて、上下の幅がほとんどなくなっている。

 その唇から出てくる声が先ほどの助けと痛みを訴えるのだ。

 目を見開かせ、唇を限界まで開かせているのは、親指大の四つのびょうだった。

 他にも、こめかみ、眉の下、まかぶら、鼻翼、頬、唇の端、顎に沿って……、顔面のところどころにも鈍色の鋼が直に打ちこまれ、その周囲の皮膚がどす黒く変色している。

 どうにか嘔吐えずきはこらえきれた楓であるが、怖気まではこらえきれず、彼女は帝都に来て初めて悲鳴を響かせた。年頃の女らしい甲高く黄色い耳障りな声だ。

 そうまで楓を狼狽うろたえさせたのは、仮面が外れた人形の痛々しい顔面はもとより、

「に、にに――」

 震驚しんきょうし、喉に音が乗らない。


 暴かれた顔は、ほんの数時間前に上階で別れた威丈高な特高、日進のものだった。

 その男の、人を訝しげににらんでいた瞳は、いまや乾きそうなほどに開ききり、人を口撃していた口も裂けそうなまでに開いて、弱々しい懇願の声を漏らすばかりであった。


 ――これは思っていたより面白いことになりそうだわ

 楓の様子から猟奇博士は惨劇を予感して、にやにやと現場を見つめていた。

 ぁああ、という尻餅をついた楓の悲痛な叫びに、「たすけぇ……」という楓を見下ろす〈喜色〉、いや、日進の求めが入り混じる。地下の邪悪な炎が二つの影を色濃く映し出した。

 床に転がった〈喜色〉の仮面が、からからと無気味な笑い声をたてる。


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