第十七章『炉前にて邂逅』1
角を曲がった楓と市谷は、目の前のものにあっと息を呑む。
帝都の地下にこんなものが存在するなんて、と市谷が驚き呆ける。
一方の楓は感も想もいだかずただ無心に、目を細めて威勢の良い焔を見上げた。
単純な光ではない。
赤く
床面と天井には広い穴が開いており、巨大な柱が隙間なく貫いている。
天から地へ降っているのか、はたまた地から天へ駆け昇っているのか、それとも柱として天地をつないで鎮座しているのか、炎には実体がないだけにどのような形態としてもそこに在り、すべてを燃やし尽くす意志のごとく顕現していた。
この日の夕方まで、口のごとく開けられた
いまや何物にも臆すことのない威容を誇り、火の粉と熱風をまき散らすそいつは、周囲の空気をも
地下空間に穿たれた巨大な
「あっっつい……、なんだよこれ! こんな馬鹿でかい火でなにしようってんだ」
すぐ我に返った市谷が顔を手で覆って熱を遮った。手の甲がちりちりと炎熱にさらされる。
楓は顔を覆いはしない。
といってまじまじと炎を見つめ続けられない。
瞳が乾いて、しきりに瞬きをしなければとても
火山でさえもっと柔らかな火を噴くであろうと思われた。
地下牢に聞こえていた地鳴りと光もここが発生源だった。
――これは……規模だけをみれば、巨大な炎といえるかもしれません
しかし目の前の炎は神殿に捧げられた聖火ではない。
〈結社〉が生み出した邪悪なる炎だ。
楓はこの巨人の内に、言い知れない妄執が伏在しているのを感じていた。
妄執は炎の周囲を滑るように渦巻いて、勢いよく飛び散って部屋中を包みこみ、また炎に取りこまれて、と空間を絶えず循環している。
――でも、その中にときどき混じっているこの
ときおり妄執の火芯から弾け出て、熱に混じって
とても弱々しく、細々としたさざ波のような感覚が細切れに混じっているのだ。
楓は全神経を総動員してその正体を探ろうと努めた。
炎の大半は何かに囚われた邪念しか発していないが、その中から飛び出る寂しさにはどこか温かな、聖なる炎にも似た穏やかさが隠見される。
ともすれば穏やかなるものが表面に漏れ出ないように覆っているのが妄執の炎であるようにも感じられる。
――だけどそれを知って、私は何をしたい?
隠されているものを暴くだけなら盗掘者と違いがない。
「楓姉ちゃん……? 楓姉ちゃん! ぼうっとしてる場合じゃないよ!」
「……す、すいません、そのう、すごい炎だったものですから」
市谷の呼びかけで我に返った楓は、
「あの、市谷さんはなんだか膚にぴりぴりといやな感じを受けたり、あるいはいやでない感じを受けたりしませんか?」
「さっきからずっとひりひりするような熱さは感じてるよ。楓姉ちゃんはそれとは別の何か違うものを感じるってぇのかい?」
市谷のように語尾を上げ調子で尋ねると、随分ときつい物言いに聞こえるが、当の本人には相手を委縮させる意図などない。生まれと育ちのために意識して抑えないとそういう口調になってしまうだけだ。
短いながら市谷と過ごした楓は、彼のそういうところに多少は慣れつつはあったが、それでも突然そういう威勢のいい喋りを聞くと驚いてしまうのであった。
もっとも少し前の彼女ならば、「なんでもないです」と意見そのものを取り下げていただろうことを考えると、
「そ、そうです。説明はしづらいのですが――」
と、こういうふうに受け答えが出来るようになったのは小さな成長といえた。
「――説明はしづらいのですが、なんだかよくない感じが炎から漂っています。偏執的なしつこさの中に寂しさを伴うような……」
「まぁ〈結社〉のものだから〝薪〟を使ってるところと言い、ろくでもないのはもちろんだろうけど、まさか楓姉ちゃんは火が感情を持ってるって言いたいの?」
「炎そのものというよりは――」
――ああそうだ、私が言いたいのはきっと
「炉に携わったものの感情、〝思い〟や〝思念〟が炎に
「巫女ってのはそういうのを感じたりできるの?」
「普段の私はこれほどではないのですが……、どうしてでしょうか、不思議と強く感じられるんです。でも、私にはそんなことはできないはずなのに――」
「自分で不思議だなんて言えりゃ世話ないぜ」
「でも、本当なんです……、私はここまで感じられなかった」
一般的に霊感と呼ばれる感覚は全ての人間に備わっているとされる。
むろんその強弱は人によりけりで、幅もかなり広い。〈巫機構〉の上を見れば、あらゆる〝思い〟を感じ取っているとしか呼べないような感覚を備えた人物もいる。
だが、楓はもともとそういう感情や気配、意思を察知するのが得意ではない。
強い〝思念〟ならば感じ取れもするが、通常微弱なものにはそうそうと気付けない。
歩きながら、そよ風が産毛をそっと撫でる感触を強く、しかも常に感じ取っていられる者などそう多くはいないのと同じだ。
「なのに、帝都を訪れてから妙に感覚が鋭くなっているような気がするのです」
人形が発する意思の動きらしきものはおぼろげながら感じ取られたし、地縛霊らしき気配も明敏につかめた。また、市谷の怒りっぽく見えて、その実本当はそこまで怒っていないのだという感情の発露もつかみかけている。
もしもこれが成長と呼べるものならば、こんなにもわかりやすく自覚できるのだろうか。
――私は帝都に来てから何もしていないのに
肥やしとなるような感得があっただろうか。
糧となるような経験があっただろうか。
これを成長と決めつけるのはあまりにも尚早だ。
楓は強くそう感じていた。
――たまたま勘が冴えているか、長旅で神経が高ぶっているか、どちらかでしょう
どうして人が霊感を備えているのか。
傑出した感覚はほぼ全てが天性のものだ。
霊感の強い人物であっても、自身が持つ
そのためなぜ人間がそんな感覚を備えているのかの答えはいまだ示されていない。
この感覚を学習や訓練で大きく伸ばすには数十年単位での取り組みが必要で、方法論を体系的に組み立てるのにはさらに数十年を要するといわれている。
霊性解析学、精神分析学、明晰学、
そもそも欧州ではこうした分野そのものが学問として認められておらず、その道の碩学は一人もいないのが現実だ。
「いくら感覚が鋭いっつっても、ないものまで感じ取っちまうのは疲れのせいだぜ」
「いえ、私が申しているのは霊性存在のことでして――」
「はぁ?」
「そういえば市谷さんは、あの路地では私と坂下さんとは別行動をとっていましたね」
「別行動って、人形に襲われた場所を調べる時のこと?」
あのとき霊性存在について話した相手は坂下だ。
だから市谷が疑問に思うのも無理はない。
「ぇえ、私が坂下さんに地縛霊を説明している――」
言いかけた楓は、はっとあることに気づいて言葉を呑んだ。
「地縛霊だって! そんなのまで出てきたら俺はもうさっぱりだよ楓姉ちゃん」
「そう、地縛霊です、あの時の感じなんです」
珍しく興奮した口調で楓が続ける。
「炎の中から飛び出る、寂しげに何かを訴える感じとすごくよく似ているんです!」
影すら炎の巨人に食われそうな〈地下炉〉の前で、楓は自分のもやもやを解消できた嬉しさから市谷の手をとって立ち騒ぐ。あまりに唐突すぎて市谷が反応に困ってしまうほどだった。
「か、楓姉ちゃん、それってつまり、どういうことなのさ」
楓は「あ」と一瞬で我に返り、市谷の温かな手をぱっと離す。
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