第十六章『並走する者たち』6

 老人は仮面男たちを振り払って逃げようとした。

 が、衰弱しているのと慌てているのとで、逃げようという意識ばかりが先走ってしまい、上半身だけが前に突き出るような姿勢となり、杖をついて歩くような恰好でひょこひょこ動くしかできなかったという。

 しかし蜂の巣を突いたような混乱で蜘蛛の子を散らすように逃げたのが幸いした。

 老人を含む何人かは地下通路に逃げこめた。

 しかし追いかけてきた人形が、一人、また一人と捕まえていく。

 老人は渦状の通路を死に物狂いで駆ける。

 後ろを見る暇などない。


 そして……、


「気付けば東部市をさまよっておりました……。いつ地上に出たのか、何人が地上に辿りついたのか、地上に出たあとどこへ向かったのか」

 言いながらしきりに首を横に振って、

「何もわからないまま、地上を歩いておった。幻影に怯えながら――」

 老人は両手で顔を覆って肩を落とした。

「あの仮面の連中からどれくらいの期間を逃げていたのですか?」

「ひと月ほどか、二十日ほどか、どこを歩いておったのか、どれだけ歩いておったのかもわからん。わしはもう……、疲れた」

「でも、諦めないで逃げていました。もう大丈夫ですよ」

「たったひと月、たった数十日、わからぬが、地上に出てからはあの影から逃げるのが生きる方法になっておった。それがなくなって、今後も大丈夫でいられるのか……」

 老人はとても憔悴していた。目じりにはしわが創傷そうしょうのように刻まれ、瞳も視線が定まっていない。ほんの先ほどまでと比べてひどく老けこんでしまっている。


 坂下には老人がそのまま白骨化するのではあるまいかと思われた。

 まさか坂下が逃げるという老人の拠り所を奪ってしまったというのだろうか。

 ――この人は地上に出てからというもの絶えず人形に怯えていた。その状態からようやく解放されて、疲れが一気に噴き出たのだろう

 坂下は自分にそう言い聞かせる。


「こんな時につらいことをお尋ねしますが、あなたが強制的に使役させられていたのはいったいどこの建物だったか、詳しい場所とまではいいませんが、区画やおおまかな場所を覚えているのならば教えていただきたいのです」

 本来は彼の回復を待つべきだろう。

 が、話の中には《猟奇博士》らしき人物が出てきた。

 地下に掘らされた炎をあげる施設と、《無銘道化師》が口にした〈地下炉〉計画のつながりもおぼろげに見えてきた。

 依然として全容は不明ながら、世間に仇なす形で結びついていると見てよい。


「あれは、寺町通の第八区画あたりでしたかの……、位置までは覚えておりませんが、確か地下に下水通路が通っていると、連中が言っておりました」

 そこはまさに楓が〝地縛霊〟を見たと証言した区画であった。

 東部市で続く浮浪者の失踪が起きているそれぞれの場所からも遠くはない。

 その一帯は老朽化した建物が取り壊されないまま放置されており、浮浪者が入りこんで宿代わりにしていることが多い。こうした場所は東部市では珍しいものではない。

 土地勘のある者はそんな場所に好んで入らないし、間違って入りこむような区画でもないから、浮浪者も好奇の目にさらされず眠れるというわけだ。

 そして〈結社〉をはじめとする地下組織もそういった空隙くうげきに目をつけるのが得意だ。

 帝都を訪れたばかりの楓も、どういった理由でかここに足を踏み入れてしまっている。

 それについては本人にもっと聞かなければと坂下は考えている。


「ありがとうございます。他に何か覚えていることはおありでしょうか?」

 坂下はすでにいくつか心当たりをつけはじめていた。

 そこに推理は介在しない。

 材料が勝手に鍋に飛び込んでいくような、そんな手ごたえだった。


 ――上手くいきすぎている


 巧妙な罠である可能性はまだまだ捨てきれない。

 しかし楓と市谷が連れ去られている以上、精査している時間的余裕もない。

「……残念ながらそれ以上は覚えておらん」

 懇願するような顔つきで坂下を見上げながら、老人が道端に座り込む。

「わしみたいな年寄りは大戦直後のな、君らにとっては歴史にも等しい昔の出来事ばかり、自分たちが黄金のように輝いておった頃ばかり鮮明に覚えておるものだ。年を取れば取るほど、新しい出来事から記憶が抜けていく。あいすまぬが、影に追われておるうちにわしはすっかり馬鹿になってしまったのかもしれません」

 背筋を曲げて縮こまった老人は、何もかもに疲れたといったふうに首を振る。


 そうして老人はすっと一点を見た。

 寺町通の第八区画の方角だ。

「わしはもう大丈夫であるよ。なんともない」

 坂下は念のため〈軍団〉に老人の保護および監視を頼む気でいた。

 彼はまだ老人を手放しにすべきだとは思っていない。

 それは本当に些細な予感。

 というよりも直感めいたものだ。

〈結社〉はまだこの老人を諦めていないのではないか、という。

 もっとも得られるべき情報はすべて手にした。

 ここで遅疑ちぎせず次の行動に移るべきだと判断をくだす。

 ――相手が網を張る気ならば、網ごと破るのがいい

「僕は、あなたをこんな目にあわせた連中を絶対に追い詰めてみせます」

 力強く言って、坂下は決心を固めた。


 ところでもしも楓がこの場にいれば、老人に強烈な違和感を覚えただろう。

 なぜなら彼女は同時刻に――


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