第十四章『暗き翳りへ』3
「私もそれを疑いましたが、それならばどこかで脱けだした牢を見ているはずです。それもないので、違うところを通っているのでしょう。それに、角を曲がるたびに次の角までの距離が徐々に長くなってきています」
「うわ、まさか測ってたの?」
市谷が驚きの声を上げる。
「大ざっぱな歩測なので、いまの私の歩き方では正確な長さまではわかりませんよ」
「いやいや、それでもおれより探偵に向いてるよ楓姉ちゃん」
「や、これは――」
そんなふうに言われると面映ゆいのが楓である。
そもそも彼女としても何か意図があって歩幅で距離を測っていたのではない。
現状では市谷の役に立っていないのではないかと思ったものの、かといってろくろくよい案も浮かばず、所在ない子どもの
それが一回曲がるたびに歩数が幾つか増えていくという意外な発見につながり、結果的に簡易な歩測となっていた次第である。そんな動機ではじめたもので探偵に向いていると手放しで言われ、かえって心苦しくなるのが楓だ。
それをごまかしたくて彼女は推測を口にする。
「おそらくこの通路は一辺ごとに長くなる
「らいもん? 雷門?」
「四角い渦巻き文様です」
言葉のままに楓が中空に四角い渦を描く。
「ん?」と市谷は楓が描く紋様をしばらく見つめて、やがてはたと手を打つ。
「
「ど、丼の模様?」
今度は彼女が疑問に思う番であった。
楓が知る丼といえばもっぱら漆器であるが、雷文など描かれていただろうか。
「ラーメンとかのやつだよ!」
「はぁ――」
――らぁめんが何かわからない、文化が違う……
北洲の麺料理を現代の東和風に改良したものであるが、楓が育った地方では目にする機会さえない代物である。東和の帝都に出て来たばかりの彼女が知らないのも当然で、
「ま、まあ伝わったのならばよかったです」
と、伝わったらしいという事実で良しとせざるをえなかった。
「通路の行き着く先が地上の出口かどうかは、わかんないよね」
「残念ながら」
あまりに何もないのが続いたのと、元が調子のいい性格なのとで、一度口を開きはじめた市谷は
角にさしかかり、二人の話は一時途絶える。
角から先をうかがう。
誰もいない。
角を曲がると話がはじまる。
むろんひそひそ声であるし、前方への警戒を怠ってはいない。
「そういえば特高の男のせいでうやむやになってたけど、楓姉ちゃんは《猟奇博士》が何をしてるか予想つく?」
「いいえ。私は
「そっか、変なこと聞いてごめん」
「市谷さんは心当たりがおありなのですか?」
「いんや、さっぱりだ。だけど坂下の兄貴はここんところ東部市で人形の動きを探っていたから、もしかするとなにかしらの当たりをつけていたのかもしんない。いや、当たりをつけたのは坂上の姉ちゃんかも」
「坂上……?」
坂下の次は坂上で、しかも兄貴ではなく姉ちゃんと来た。おそらく関係者なのだろう。
「ああ、俺の雇い主みたいなもんかな」
――坂下さんの助手をやっているのに雇用主は坂下さんではない?
市谷が特に隠し立てもせず疑問に応じたので、楓の中にまた新たな疑問が生じた。しかしそこはなにか事情や内情があるのだろう。同じ事態に巻き込まれているとはいえ、部外者としてあまり立ち入らず新たな疑問を呑みこんだ。
そんな楓の判断をよそに市谷が続ける。
「いまここにおれたちがいるのに関しちゃ、もしかすると道化師の気まぐれってやつかもしれない。もちろん理由も知らず巻きこまれた姉ちゃんにそんなので納得してもらえるとは思ってないけどさ、楓姉ちゃんを巻きこんじまったのはたぶん――」
途中まで言いかけて、市谷は語尾を濁した。
彼はこう言いかけたのだ。
たぶん兄貴や俺が楓姉ちゃんに絡んだからだ、と。
しかしそれでは自分が信頼し尊敬する坂上にまで責任をおっかぶせるようで、さすがに口にしかねたのである。ただ市谷は、坂上をはじめとする探偵が動くと同時に事件も動きだすような体験を重ねている。それをして、
『探偵が動けば事件が釣れる』
と
――坂上の兄貴のせいだなんて言いたかないけど……
楓がここにいる一つの要因ではあるだろう。
もちろん彼は巻き込んだ側に自身も例外なく含めている。
そうした市谷の悩みを楓は推し量るべくもないが、彼が申し訳ないと
そのように判断して楓は通路の先を見据える。
通路を引き返すようにして時が戻るでもなし、今はもう前に進むしかない。
その前にいまひとつ確認しておきたいことのある彼女は、
「本当に市谷さんには、人形の叫びが聞こえなかったのですか?」
口にしたすぐ後に、いまの聞き方では「お前には聞こえなかったのか?」と暗に非難するようにもとれてしまうと気付いた楓はすぐに、
「――
発砲音の影響だと答えすいように言い直した。
相手を気遣うあまり、言い方を過剰に気にしすぎである。
「ああ、銃声しか聞こえなかった」
市谷も日進も聞いていないと言いきった悲鳴であるが、楓は人形が撃たれた瞬間に耳にしており、彼女はそれをして断末魔だと結びつけようとしていた。人形と呼ばれる彼らが気配や感情を有している証拠だとして。
――しかし私だけが聞いたとなれば早合点は禁物。もしかしたら爆発の音かもしれないのだし、私が銃声と聞き違えた可能性だって大いにある
「……姉ちゃん、あれ見えてる?」
「あ、ごめんなさい。な、なんでしょう」
「ほら、前」
市谷が前方を示す。
これまでずっと単調に続いていた通路は、ここにきてようやく変化を見せた。
初めて通路が分岐している。
手前で別れる通路はこれまでと同じように左に折れ、すぐに下へ続く階段が伸びている。直進する通路もすぐ左に折れているが、こちらは上がり段になっていて、しかしその前に鉄格子が立ちはだかっていた。二人が進んできた通路を別にすれば、上層と下層を結ぶ階段の踊り場になっているといえよう。
地鳴りは下へ伸びる階段の方から鳴っているようだ。随伴する光の奔流も下層からあふれている。音も光も、これまでのどれよりも強く感じられた。
「発生源に近づいているようにも思えます」
「……おかしいな」
市谷は再びビー玉を取りだして、これまで進んできた通路の方へ少し引き返す。いつの間にか下に来ているとあっては面目が立たない。
やがてビー玉が楓の足元へ転がってきて、市谷ががっくりと肩を落として戻ってくる。
楓は足元のビー玉を拾いあげて市谷に返しながら、
「もしかすると、通路の床は厳密な計算や設計に基づいて作られたものではないのかもしれません。おそらく全体としては一方へ傾斜がついているのでしょう。ですが局所的なところでは
「ごめん楓姉ちゃん、早とちりした俺の失敗だ」
「や、謝られることでは――日進さんはもう地上に出ているのでしょうか」
「かもしれないな。おれらは、どうしよっか」
「この場では下にしか行けないのではないでしょうか。あちらは檻がはまっていますし」
「そう、あるんだよなぁ、檻が」
市谷はくっくっくっ、とわざとらしく喉を鳴らして笑う。
「俺らが出てきた牢と同じ檻がさぁ」
市谷の言わんとしていることに勘付いた顔つきの楓に、彼はにやりと笑みを浮かべて鍵束を取り出し、即座に格子に差しこんだ。
が、鍵が合わないようで、また別の鍵で挑戦してみる。
何度目かの挑戦で、かちゃり、と機構がかみ合い、格子が滑らかに動いて新たな道を開く。
「当たった!」
「知っていたのですか?」
「知っていたというよりは、わかっていたって方が近いかな。いや、なんとなくそんな気がしてたっていうか、たまたまっていうか」
「当てずっぽう、ですか?」
「賭けって言ってほしいね」
市谷がぺろりと舌を出す。
「ま、一発で当たってればもっと格好ついてたんだろうけど。でも鍵束を
猟奇博士は自分より人を疑うような男だ。鍵を失くしたのに気づけば、真っ先に直前まで接触していた相手のところへ舞い戻るだろう。そして抜け殻となった牢を目の当たりにすれば、鍵が盗まれたと確信を深める。そうなれば通路で追いかけっこがはじまるが、これは自陣で動く猟奇博士が圧倒的に有利だ。
「ともかくここは上に逃げ……、いや、待って。万が一もあるな」
市谷のつぶやきに楓が疑問符を浮かべる。
「上に行って何もなかったら、俺たちはまたここを降りなきゃいけないわけじゃん」
「はい」
「それであんまり上り下りすると、心配なんだよ」
楓姉ちゃんの足の具合が、とまで市谷は口にしない。
「だから俺が先に様子を見てくるのもありかもって思ったんだ」
「お一人で大丈夫ですか」
「俺ぁ早く駆けるのが得意なんだ。だから行ってすぐ戻ってくるから待っててな。だけど、もし何かあったらためらわず撃って。それがこっちへの号砲にもなるから」
楓が黙って肯くのを見るやいなや、市谷が一段飛ばしで猛烈に階段を駆けあがっていき、その背が瞬く間に段上に消えていく。まるで一陣の風のようであった。
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