(4)

 いくら酒に酔わないといっても、さすがに五杯もアルコール度数四十パーセントの酒を飲むと、脈拍数がかなり上がる。が、頭は逆に冴えていた。

「あらシャルル、ちょっと顔が赤くなってるわよ」

 そう言うアメリーは既に頬を赤く染めていて、カウンターに体重を預け始めている。フランツが水を出すと、敵に塩を送ってどうするのと言いつつ、唇をつけた。

 ルピナスは、他の客が来るか勝負がついたら教えるようにと言って、カウンター裏の部屋に籠もっている。

「それで、決めたの? 勝ったらどうしてほしいか」

「うーん……」

「思いつかないなら、私が決めてあげるわよ。あの頃と同じでいいじゃない」

 フランツは潤んだ灰色の瞳を見下ろした。

「人妻にそれは、まずいですね」

「そうね。でも他に思いつかないでしょ?」

「じゃあ、今度来るときに地酒でも持って来てくださいますか? お代はもちろん出すので」

「そんなのでいいの? つまらなくなったわね」

「アメリー、夜に一人でこんな遠くまで出歩いていて大丈夫なんですか?」

「急に何? まだ子どももいないし、今日はあの人、帰ってこないわ」

「退屈なのはわかりますが、人の道を踏み外さないでくださいね」

 アメリーは気怠げにため息をついた。

「お説教? 上流階級じゃ不倫は普通よ。好きでもない人と結婚するんだもの。あなたはいいわね。三男でも資産はそこそこあるし、働くか働かないか、結婚するかしないかも選べる」

 フランツは黙り込んだ。王国の女性の社会的地位は、一部の職業を除き、結婚以外ではほとんど保証されていない。

「外で働いている方が、まだマシよ。あなたに言ったって仕方ないけど」

 黒のビショップがあかい爪に弾かれて倒れる。フランツは自分のグラスに六杯目のウオッカを注いだ。唇をつける。舌が痺れてくる。

「涼しい顔して飲んじゃって、むかつくわ。あなたの綺麗な顔もむかつく」

「綺麗じゃないです。綺麗なのはアメリーの方です。前よりもずっと」

 彼女は一瞬、表情を変えた。うまく形容できないが、口にすべきでない言葉だったことだけは理解できた。それでフランツは、すかさず付け加えた。

「客観的な事実を言っているだけですが」

「そういう所もむかつくのよ。だからあなたは女に避けられるの」

 フランツは、「そうですね」と言って空になったグラスを置くと、静かに白のナイトを取った。

「あ……この………」

「今日はマスターに、減らず口って怒られました」

 アルコール度数が低い発泡酒の瓶を開けて、それを注いだグラスを差し出すと、アメリーは睨むような目つきをしつつ、それを受け取った。

「あなた、次の一手を指したらチェックじゃない」

「キングの分は飲まなくていいですよ」

「むかつく……」

「君は、もうこれ以上飲まないほうがいいですから」

 アメリーは悔しそうに唇を噛むと、次の手を指した。

「その敬語、私の前ではやめなさいって言ったでしょ。忘れたの?」

「そんなこと、言ってましたっけ」

 嘘をついた。だいたい、家の方針で敬語を使うように教育されていたので、こちらの方が普通なのだ。そう何度も説明したのに、忘れたのだろうか。白のキングを指先で弾くと、急に手首をぐいと掴まれた。

「ちょっと――」

 バランスを崩したフランツはカウンターに手をつく。柔らかい感触が唇に触れた。それが何か理解するのに、アルコールの回った頭は時間を要した。すぐに離れようとしたが、ネクタイの結び目あたりを強く掴まれていた。

「何で、私を選んでくれなかったの? あなたなら、婚約なんて破棄させられたのに」

 彼女の口からは到底出そうにない言葉に驚き、フランツは呆けた顔で、かつて惚れていた女を見下ろした。

「俺のことが好きだったんですか?」

「あなた、馬鹿じゃないの?」

「馬鹿って」

「あれだけ一緒にいて分からないなんて、馬鹿以外の何でもないわ」

「そんな素振り、全然見せなかったじゃないか」

「言わないと分からないの? もう遅いわよ」

 彼女は涙など流さなかった。そういう強さも含めて好きだった。フランツが彼女の瞳の端から涙がこぼれるのを見るのは、これが初めてだった。

 掛ける言葉に困り、ハンカチを差し出す。が、彼女はそれを受け取らず、目を閉じた。

可笑おかしいわ。もうあなたは私のことを何とも思っていないのに、私のほうがあなたを忘れられないなんて。馬鹿みたい。会いたくなかった。なのに、またチェスを指せて嬉しかった。馬鹿は私ね」

 彼女は水を飲み干すと、代金をカウンターに置き、帽子を被った。

「さよなら。元気でね、シャルル」

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