(8)
(でも、たぶん君はまだ本当の恐怖を知らない)
彼女の息は、先ほどより上がっている。
(いつまでもこうしていたいけれど)
フランツは彼女の舞を汚す覚悟を固めた。
死なないために磨かれた剣術がある。ゾンビ・サドンデス・バトルなどという先生のバカバカしい命名を、小さかったフランツは笑って馬鹿にした。だが、あの剣術は本物だ。先生からゾンビとは一体何なのかを教わってから、あまりの怖さに夜ひとりで眠れなくなった。先生はその恐怖心を利用し、自分に剣術やナイフ、その他の武器の扱い方を叩き込んだ。
『いいか、とにかく死ななければ何でもいい。お前に求められるのは美しさじゃあない。それは見た目だけで十分だ。上手い下手、強い弱い、正当卑怯、ああのこうのとグダグダ言っても、結局、最後に立っていた者が勝者だぞ』
どんなに研ぎ澄まされた美しい一撃も、生き抜くための醜さと執念と残虐さをもって打ち砕くことができる。負の感情は、力だ。突き詰めれば醜さも美しさに変わる。
綺麗な金属音がして、彼女の髪を束ねていた金属製の飾りが飛んだ。昇ったばかりの大きな月の淡い光が、宙に舞う亜麻色の髪を彩った。
綺麗だ。
戦場に降り立った女神は静かに笑っていた。
時に人は、支配されることを快感だと感じるという。彼女に支配されるのであれば、構わないかもしれないと思った。月を背にした彼女は、時を止める力すら持っていそうだった。
後から思い返せば、この瞬間、自分の運命は決まっていたのかもしれない。底のない闇を湛えた翠の瞳の奥にあるものを覗き込んでしまった自分は、ひとりきりの夜の残酷さを知る彼女を救いたかったのかもしれないし、救われたかったのかもしれなかった。
翠の瞳が僅かに見開かれた時、フランツは切っ先を彼女の首筋に当てたまま顎を逸らした。一瞬前までフランツの首があった位置で、ぴたりとも動かない彼女の剣の切っ先が、ゆるゆると地面に下ろされた。その時、フランツはようやく息をついた。
「
艦長が呟く声が聞こえた。シャロンは剣を引っ込めると、フランツに右手を差し出した。
「今回は私の負けだね。だってあなたはメイド服にヒールだもん」
フランツは両手でシャロンにレイピアを返した。
「いつ、どんな時に戦うかなんて分かりません。ですから互角ですよ。もっとも、今の戦争で剣が必要な場面はほとんどない、ですけど」
「警務の仕事では必要だよ? あと、私は握手を求めてるんだけど」
「ああ」
差し出された彼女の手を握ると、少し汗ばんでいた。対して自分の手は乾いていて冷たかった。
「ありがと。またお願いね」
「また? それはちょっと……それより、髪留めを壊してしまいました。すみません」
「いいよ。あれ、そんなに大事にしてた物でもないし」
フランツが振り返ると、背後でルピナスが腕組みして仁王立ちしており、その後ろでは見物していたらしい船員たちが手を叩いていた。
「名勝負!」
「フランシス~~!」
「いいものを見せてもらった」
しかし、ルピナスだけは真顔だった。もしかするとそれが、フランツが初めて目にする不機嫌な顔だったのかもしれない。
「フランツさん。今回は許しますけど、次はダメですよ。屋上は借りていないので。さ、戻りましょう」
なぜ自分だけが咎められないといけないのか、そもそも仕掛けてきたのはあちらだと口答えしそうになったが、その前に彼女は背を向けていた。
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