ABT1.5. addiction
(1)
『悪い悪い。もしかしたらフランシスが行くかもしれんって一言連絡しとこうかと思ってたんだけどな、色々あって』
「フランシス? フランツさんのことですか? まあ、うちとしては問題はありません。しばらくの間は引き取ることにしましたので、そのご報告だけ。こんな時間にすみません」
『いや、こんな時間のほうがかえってヒマだ。わざわざありがとな。じゃあ』
久しぶりに聞くガリウスの声は相変わらず大きく、電話口からも漏れてしまうほどだったが、艦長はバーのカウンターの隅で相変わらず泥酔していて、目を覚ましそうにない。ルピナスが静かに洗い物をしていると、コツコツとヒールの音が階段を下ってくる。
「ルメリ(こんばんは)」
現れたのは、最近あまり姿を見せていなかった女性だ。ルピナスは緊張で僅かに唇を引き締めた。女性客は唇を綻ばせるようにして笑い、艦長の隣に座った。
「あら、寝ちゃってるのね」
彼の後頭部に手を触れると、彼女は目を細めた。
「ええ。今日は相当きていらっしゃいますよ。リアナさんは何になさいますか?」
「スカーレット・レターにしようかしら」
「承知いたしました」
何を隠そう、彼女、リアナこそが艦長の想い人である。話を聞けば相当の悪女なのだが、本人にその自覚はなく、見た目も妖艶な美女というわけではない。むしろ貞淑で物静かな女性だ。ただ、仕草や表情、話し方から、そこはかとなく色香が漂う。少しエキゾチックな風貌、露出が控えめな衣装ながら隠しきれないスタイルの良さも相まって、人の目を奪うタイプであることは間違いない。彼女は艦長の首筋に指を這わせた。
「本当。ずいぶん飲んでる」
「リアナさんが来ても気付かないんですからね。待ち合わせですか?」
彼女は形の良い唇を綻ばせた。
「いいえ。気付いていないうちに三つ編みでもこしらえてあげましょう。短くしちゃったから難しいかしら。寒がりなのに」
ルピナスが冷蔵庫からカクテルのシロップを出している間、彼女が艦長の耳元に唇を寄せているのが鏡を通して見えた。ルピナスは、しばらく背中を向けておくことにする。
「ねえ、起きて」
「うう……誰だ、さっきから」
彼の深海色の瞳孔がゆっくり開くのを、リアナは微笑を浮かべながら見つめた。
「ここで会うのは初めてね」
「……なんで、あなたがここに」
「なんでって、ここを私に教えたのはあなたじゃない」
「そうだったかな」
彼は体が冷えたのか、ぶるりと震わせた。
「あなた、飲み過ぎよ」
「ああ……頭が痛い」
ルピナスはリアナにカクテルを、艦長には水を出した。
「材料を切らしたので、裏に取りに行きますね。何かあればベルで呼んでくださいますか?」
「ええ」
あの二人の様子はもちろん気になるのだが、どちらかというと盗み見ているような罪悪感を感じる。彼が既婚者を慕ってしまったという事情を知らなければ、二人はただの恋人に見えるのだが。
ルピナスが扉の向こうに消えると、リアナは「気の利く子ね」と呟いた。
「ここにはよく来てるのか?」
艦長は額を押さえた。
「たまにね。美味しいお酒が飲みたい時に」
彼女がグラスを掲げると、店内の青い光のせいで紫色を帯びた赤い液体が揺れた。
「酔ったあなたの顔が見られるなんて思わなかったわ」
彼は首をゆるゆると振ってため息をついた。
「私はお邪魔かしら?」
「……いや」
「あなたの声、ちょっと掠れるとあの人に似てるのね」
「それは知らなかった」
「何か真似して言って?」
「お断りする」
その乾いた口調とは裏腹に、彼の瞳はリアナを捉えて離さない。リアナはその視線を受け止める。先に視線を逸らしたのは艦長の方だった。リアナはグラスに唇をつけると、ゆっくりと杯を空けた。その喉元を、彼は陶酔したような表情で見つめた。
「そんなに見られていると飲みにくいわ」
グラスを置いた彼女の手に、彼はそっと手を重ねた。
「何?」
ルピナスが戻ってくる足音が聞こえる。その直前のほんの一瞬、二人の唇が重なった。
「これで何回目かしら、あなたが強引にするの」
「嫌ならやめる」
ルピナスはまだ入ってこないらしい。
「……だめ、レオン」
彼の手が膝から上に這うのを押しとどめて、リアナは息をついた。
「もう大丈夫です?」
ルピナスが扉の向こうから小さく言うのが聞こえる。
「いいわよ。ごめんなさい」
艦長は、決まり悪そうに壁の方を向く。
「つかぬ事をお伺いしますが」
ルピナスはリアナに尋ねた。
「リアナさんは、やっぱりシャロンさんの……」
「あら、シャロンを知ってるの?」
彼女は長い亜麻色の髪を傾けた。リアナはシャロンと髪色、骨格、目元がどことなく似ている。服装や化粧の仕方や雰囲気、性格もかなり違うせいだろうか、ぱっと見では気付かない。が、艦長とシャロンの関係と、艦長とリアナの関係を知っているルピナスは、やはりそうかと内心ため息をついた。
「常連さんです。実はつい先ほどまで、ここにいらっしゃいました」
「あれ、今日って金曜日か?」
「何言ってるの、レオン。そうよ」
「艦長さんが隅っこで寝ている間、私はずっとひやひやしてたんですよ!」
「道理で声を聞いたような気がした訳だ」
「全くもう、呑気なんですから」
「世間は狭いわね」
リアナは空になったグラスの淵を指でなぞった。
「でもマスター、私のことは黙っていて」
「会いたいとは思わないんですか?」
「知らないほうが、あの子にとっては幸せだからよ。巻き込みたくないの」
「そういうものですか……」
リアナはたった一杯飲んだだけで帰ると言って席を立ち、懐から札を出しかけたが、艦長がその手を止めた。
「僕が出すから、いい」
「あら……いいの? ありがとう」
彼女は首を傾けると、彼の瞳を覗き込むようにして、「きょうはもう飲んじゃだめ」と言い、ルピナスにご馳走さまと言って微笑みかけると階段を登っていった。
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