第34話 臆病な僕と再戦

 ドアが開ききる前に、体を隙間に捻じ込むようにしてフロアに躍り出た。フロア350のここから、放送を行っている階層、更に上の展望台フロア445、450へと移動出来るエレベーターに乗り込む必要がある。左右を見渡すが、弥太郎の姿はない。まさか、もう上に上がってしまったのか。

 焦燥が心臓をかき鳴らす中、微かな足音が響く。今この時点で、フロア350にいるのは僕達以外では只一人。足音の方へと走る。

 いた。

 フロア340からエレベーター、もしくは階段をかけ上がってきたはずなのに、息一つ乱れていない。向こうも足音と気配で僕達に気づいた。互いに駆け足は緩まり、徒歩となり、止まる。距離にして三メートル。僕達は再び対峙した。

「カナ」

 余裕のある笑みを浮かべて、こちらを睥睨している。

「前にも同じ質問をしたかもしれないな。どうしてお前が、ここにいる」

「ヤタにいを止めに来たんだ」

「また成り行きか? それとも、結樹に操られているのか? お前の意思はそこに在るのか?」

 僕と芦原を交互に見やりながら、弥太郎が問う。

「それは…」

「それは、何だ。在るのか、無いのか、どっちだ。迷うくらいなら、ここに来るな。ここは、今から戦場になる」

「戦場?」

 その表現こそ、何だ。松原の言った通り、多くの人を由憲党の信者にするというのなら、その表現はおかしい。

「おしゃべりはここまでだ」

 自分の発言で僕が引っかかりを覚えた事を悟ったのだろう。弥太郎は会話を打ち切った。ということは、あれは彼の失言であるという証明だ。

「意思も覚悟も無いなら、そこを退け。このまま下に降りて、家に帰って寝てろ。それが一番安全だ」

 背後にある展望台へのエレベーターをちらりと見やり、すぐに視線を戻す。

「ヤタにいは、一体何をするつもりなの? 松原幹事長の仲間じゃないの?」

「俺は終わりに向かうこの国を変えたい。幹事長も同じように国を変えたい。互いに目的は同じ。ただ少し、ゴールが違うだけだ。さて、最後通牒だ。退かないのなら」

 ぐ。ぱ。ぐ。ぱ。弥太郎が下げた腕の、己の拳を握り、開きを繰り返す。

「押し通るぞ。たとえ弟弟子であろうと、容赦しない」

 怖い、本当に怖い。弥太郎に対して覚える恐怖は、江田たちの比じゃない。

 僕は弥太郎と何度か手合わせ稽古をした事があるが、一度も勝てたことがない。僕だけじゃない。他に通っていた同じ年代の門下生の誰も敵わなかったし、明らかに上級生と思しき兄弟子達にも引けを取らず、圧倒するほどだった。師範曰く、抜群のセンスとたゆまぬ努力、二つの相乗効果によって生まれた天才。そんな男を前にしているのだから、怖いのは当然だ。

 しかし、引けない。彼のような覚悟を持たなくても、それでも譲れないものはある。その為に、くじけそうな足でしっかりと地面を踏みしめて、震える腕を押さえ込んで、彼の前に立つ。

「なぜ僕がここにいるのか、聞いたね」

「ああ」

「ヤタにいは、僕のヒーローだからだ。今までも、これからも。僕のヒーローが、誰かを傷つけるのを見たくない。誰かに恨まれるのを見たくない。だから、止めたい」

 一瞬きょとんとした後、弥太郎は大笑した。

「カナ、お前、そんな理由で追ってきたのか。馬鹿だなぁ」

「僕が馬鹿だなんて、分かりきったことだよ。賢く生きてなんかいられない。馬鹿じゃなきゃ、僕が知る中で最強の男の前に立つもんか。ねえ、ヤタにい。お願いだから、止まってくれよ」

「悪いな、無理だ。もう、止まれん。俺は、俺の目的のために、この意思を貫く」

 少し目を閉じて、開く。その目はもう、僕を敵としてしか見つめない。説得は不可能だ。わかりきっていた。頑固なのは相変わらずだ。こうと決めたら梃子だろうが重機だろうが動かせない。

「芦原さん」

 僕は手を押し出すような仕草で彼女を下がらせる。彼女が避難していく気配を察しながら、思う。

 都合の良い話だ。あれだけ操られただのなんだのと彼女を責めて傷つけたのに、こんな時に頼るのは、彼女が教えてくれたものだ。けれど、今だけはそれを、この胸にあるとかいうものを信じさせてくれ。

 

 弥太郎を視界に収める。一挙手一投足に気を配り、空気の流れすら感じ取れるように全身の神経を尖らせる。

 足を踏み出したのは、同時。体が前に傾ぎ、自然と足が前に出る、ぬるりとした体重移動。上下運動の極端に少ない、滑るような歩法。互いのたった一歩で、互いの間合いに入る。

 弥太郎が先手を打つ。左腕が鞭の如くしなる。斜め下から鼻先に迫る拳の軌道上に、交差するように腕を差し込む。交差した相手の腕に、自分の腕を絡め、脇の下に手の平をいれ、腕を取る。てこの原理を利用して相手を引き倒そうとする。

 弥太郎が飛んだ。とんぼを切り、引き倒そうとした僕の力を利用して、逆に僕の腕と首を足で刈りに来る。掴んでいた手を離し、自分から転倒、前転して距離を取る。再び対峙。

 今度は自分から仕掛けた。相手の腰より下まで体を傾けて、床を足で押し出す。体はほぼ床と平行に体を飛ばす。狙うは右の足膝。左手で引っかけ、体勢を崩す。モンゴル相撲で相手の足を狙うのに似ている。相撲は相手を倒したら勝敗がつくが、僕らの場合は倒して制圧するまでが戦いだ。かけた手を基点にして背後に回り、崩れる相手と対称的に体勢を整え、相手の急所、首を狙う。果たして狙い通り、僕の手が彼の足にかかる。悪戯の『ひざかっくん』の要領で、膝関節が曲がる。

 弥太郎も黙って足を取られるような男ではなかった。身を任せるようにしてわざと体を倒し、圧し掛かろうとする。背中をとられたら、そのままの流れで首を取られる。

 想定内だ。空いた右手で床を叩き、前に向かうベクトルを変えた。かけた手を離し引く。左肘が円軌道を描き、相手の脇腹を抉る。

 抉ったかに見えた肘は、弥太郎の手のひらに納まった。しかし同時に、圧し掛かろうとした動きは止まる。床についたままの右腕を軸に体を回転、弥太郎の下から位置を移し、肘を当てたままテイクバック無しのタックルを叩き込む。全身で行う寸勁、八極拳の貼山靠に近い手法だ。超至近距離からのタックルを、流石の弥太郎も躱せない。

 ぐうと体が持ち上がる。持ち上げられる。同時に、弥太郎の体が僕の下にくぐり込む。躱せないとみた弥太郎は、後ろに飛び衝撃を殺し、宙に浮いた状態で回転した。僕の体で逆上がりをしたんだ。嘘だろと叫びたいが、その余裕もない。腹に膝を当てられ、巴投げの要領で投げられた。逆さまの景色の中、弥太郎は体勢を立て直した。僕は宙に浮いたままだ。

「くのっ」

 地面と背中、足の距離は分からない。ほぼ勘で、足を叩きつけるようにして振り下ろす。バンと大きな音を立てて足裏が着地した。狙い通りだ。狙いと違うのは、足裏に痺れが残った事。これでは次の運動に移るまでに、エネルギーと時間にロスが生じる。

 僕達の流派は、運動によって発生したエネルギーを余さず使う。移動時に発生した慣性も、腰や足首の捻りから生まれた回転も全て利用してロス無く攻撃に転換する。故に、動作以外では全身脱力が望ましい。余計な力が入っていると、そこが障害となりエネルギー伝達の効率が下がるからだ。全身が水の塊になったようなイメージで、エネルギーの伝達は波が押し寄せるような感覚だろうか。打撃であれば、打点に力が流れ込むように、投げであれば、自分の中で生まれた波で相手を巻き込む様にエネルギーを伝達する。カウンターにしても同じ。相手のエネルギーのベクトルを理解し、それに見合った力の入れ方がカウンターとなる。今のように、変な力を入れると、こうやって体が硬直するロスが生じるため望ましくない動き、ということになる。追撃を覚悟したが、無かった。代わりに、再びの対峙。

 強い。やはりというか当然というか、こちらが必死こいて模索した戦略を、いとも簡単に防いでくれる。

「体が固いな」

 薄笑いを浮かべて、弥太郎は言った。

「だが、発想は良い。相手の気を衒いつつも、詰め将棋のように常に王手を狙うかのごとき、合理的な手順。俺は、昔からお前のそういうところは認めている」

「簡単にいなしておいて、よく言うよ」

「そうでもない。あの状況からのタックルは少し肝を冷やした」

 いかんな。と彼は首を振る。

「こうしていると、昔の、道場の時を思い出してしまう。あの頃は楽しかった。煩雑な思考に囚われることなく、ただただ強くなるために努力して、それを実感して。それだけでよかった」

「今からでも遅くないと思うよ。道場に戻れば良い。師範は、ヤタにいに跡を継いで欲しがってたし」

 しみじみとそう言う師範の姿が思い出される。あいつが俺の息子なら、と何度も口にしていた。

「無理だな。師範は武道を教えはするが、あくまで自衛のための手段としてだ。無闇に力を振るうことを嫌う人だった。俺はもう、武術を暴力として振るい、師範の教えに背いている。今更どの面下げて師範に会えるというのだ?」

 その時だ。エレベーターが動き出した。誰かが下に降りてくる。互いに動くエレベーターの方へと顔を向けた。先程のやり取りで、僕らの立ち位置は入れ替わっている。

 再び、弥太郎と僕の視線がぶつかった。それがスタートの合図だった。揃ってエレベーターに向かって走り出す。

 エレベーターが止まり、扉が開く。中から出てきたのは、三人組のスーツ男たちだ。彼らもまた、走ってくる僕らを見つけた。

「芦原さん、何をしていたんですか!」

 松原の取り巻きだ。一向に来ない弥太郎を、松原の指示で迎えに来たのだろうか。

「申し訳ない。妙なのに絡まれてしまって」

 弥太郎が僕達を指差す。途端、男達の目の色が変わる。

「貴様、捕まったはずでは!」

「逃げ出してきやがったのか!」

「もう一度取り押さえろ!」

 急ブレーキをかけざるを得なくなった。弥太郎は構わずスピードを維持したまま、彼らが乗ってきたエレベーターに乗り込む。

「ヤタにい!」

 組み付いてきたスーツ男の一人を振り払いながら叫ぶ。

「優先順位だ。またな」

 弥太郎の姿が自動ドアによって遮られた。エレベーターは最高層へ世界最速クラスの上昇スピードで上がっていく。

「くそ、離して! 離してください!」

 二人目、三人目のスーツ男に阻まれる。弥太郎がやっていたようには出来ない。彼らに捕まり、身動きが取れないところに、背後からも足音が響いてきた。

「いたぞ!」

 この声は、江田?! 振り返ると、髪の毛の乱れたS同盟の皆が走ってくるところだった。見ればカツラの取れた大倉の姿もある。正気に戻ったのだろうか。

「大丈夫か?! 今行くぞ!」

 数は力だ。例外さえ除けば、人数の多い方が勝つ。

 作業用のガムテープで三人を拘束した後、僕達もエレベーターへ向かう。エレベーターは上がりきっている。たとえ世界最高速度のエレベーターであっても、このタイムロスは致命的だ。取り返しのつかないことになる、そんな予感を抱きながら、僕達はエレベーターに乗り込んだ。

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