第26話 臆病な僕と芦原弥太郎

 弥太郎はいたって自然体だった。構えも取らず、むしろリラックスした状態でその場に突っ立っている。その立ち姿に戦慄を覚える。S同盟の皆は敵意を向き出しにし、今にも襲いかからんとしているのに、対する弥太郎は身構えもしない。

「野郎っ」

 馬鹿にされていると感じたか、S同盟から一人、もう一人と、二人が順に飛び出した。最初に飛び出した彼が弥太郎の体に組みつき、もう一人が手足の自由を奪う。そういった流れではないかと推測する。対する弥太郎は、緩慢にも見える動きで右足を前に出した。相手がタックルのために踏み込んできた右足の足首辺りを、足裏で軽く押した。ただそれだけで、力が抜けたように相手が倒れてしまった。倒れた仲間に気をとられたもう一人の目の前に、弥太郎は流れるように現れる。慌てて拳を放つが、先程の突っ込んだ時の勢いもなければ、相手を傷つけるためなのか遠ざけるためなのか本人の迷いが現れ、中途半端になってしまっている。動作も単調になり、拳や腕の軌道も読み取り易い。

 弥太郎は首を傾げるだけでそれを避け、更にその腕を取って投げ飛ばした。百七十センチほどの体がくるりと宙を舞い、先に倒れていたS同盟の仲間の上に落ちる。鈍い音と肺から絞り出された呻き声が会議室に一瞬響き、静寂が戻る。まるで漫画のようなワンシーンだった。

「池尻! 小山!」

 江田が声をかけるが、応答はない。気を失っているようだ。

「お見事」

 松原が拍手を送り、反対に僕達は気圧された。

「ちょ、おい、こんな強いのかあんたの兄さん」

 江田だって、他のメンバーだって、かなりの場数を踏んできたはずだ。恩田を逃がした時の手際からもそれは見てとれた。体格も良いし判断力も高い人が多い印象を受ける。だからこそ、今の弥太郎の動きが尋常ではない事を理解し、うかつに攻めに出られないのか。

「兄は心を読みます。相手がどう動くかはそれで予測出来るから…」

「馬鹿を言うな」

 芦原の推測を、弥太郎は一笑に付す。

「心を読む、その一拍の遅れは致命傷だ。読んで理解して行動に移す間に相手に先手を許す。瞬時の判断が勝敗を分けるときに、そんな悠長なことをしていられるか」

「冗談だろ、純粋に、無茶苦茶強いって事かよ」

 松原が称賛したように、僕らが怯むほどに、見惚れるほどに無駄なく完璧だった。最小限の労力で、相手の力すら利用し一瞬にして二人の人間を行動不能にして見せた。合気道やロシアの武術システマに通ずる呼吸や体捌き。いや、最も近いのは。

 認めたくない。だが、僕の体が彼の動きを知っている。あらゆる場面を想定するならば、あらゆる場面のための型ではなく、その場にあった動きを瞬時に行う。水が器によって形を変えるように、状況に応じて即応する。全身を弛緩させ、流れに身を任せる。リラックスした体勢こそが構え。

 芦原や江田らS同盟がたじろぐ中、僕はこっそりと自分のスマートフォンを手に取り、少し操作して手のひらにそっと隠した。じりじりと芦原の横から前に出る。

 弥太郎の視線が僕に向いた。全てを見通すような目。事実、彼は先ほどの流れの全てを見通していた。その目には相手の筋繊維一本一本の動きまで映っているかのようだ。見られているだけで、神経がすり減らされる。ここ最近、こんな事ばっかりだ。協力するとは言ったけど、本来ならこういう状況の時、僕は背中を向けて一目散に逃げるタイプだ。というか、一般人が危険から身を守るためにはそれが一番なのだ。危険を嗅ぎ取り、戦いを避ける事が最上。巻き込まれても逃げ切れば上々、戦って勝つのは下策だ。しかし、僕達の勝利条件が、僕達を逃がしてはくれなさそうだ。芦原のことは、正直分からない。だから一旦保留する。未来のこともだ。今見るべきは、まさに今だ。ここで彼らを止めないと、被害が拡大する。目を閉じれば思い出せる。通り魔も、駅の事件も、恩田議員襲撃も。襲ってくる人たちの顔を思い出す。あんな恐ろしい事、続けさせるわけにはいかない。その気持ちが僅かに逃げの一手より上回っているから、僕はまだここに立っていられる。

 互いの視線がぶつかりあう事しばし。その間に入手出来た情報を整理する。準備は整った。後はどう動くか、違う。自分が動けるかどうかだ。

「お前」

 弥太郎が僕の顔を見て、口を開いた。実の妹に詰め寄られても、S同盟に囲まれ襲われても、全く動じる事のなかった彼が、おそらく、僕達の前で初めて見せた、動揺というほどではないが、感情の動き。驚きだろうか。だが、なんにせよ、好機。

 ゆっくりと、力みを抜き、全身を緩める。しかし、軟体動物になるわけではない。立位などは保つ。余計な力を省く事を意識する。エアコンの省エネ、もしくはパソコンのスリープモードだ。その状態は、スイッチ一つで起動するのも似ている。

 力を抜いた事で、手のひらからスマートフォンが滑り落ちる。新調したスマートフォンカバーの衝撃吸収力が遺憾なく発揮され、まだ支払いの残っているスマートフォンを傷と故障から守ってくれる事を祈るばかりだ。

 弥太郎の視線が、落ちるスマートフォンに移った。思った通り、視野を広く持ち、洞察力にも優れている。故に、絵画のように全員が固まった光景の中で、動く物があれば視線が反射的に吸い寄せられる。

 すっと脚を前に出す。弥太郎までの距離はもう一歩と言うところか。

 正直、勝てるとは思えない。だが、動きを封じる事は出来るのではないか。それを前提として作戦を練った。一対多数で一番嫌なのは動きを封じられる事だ。少しでも動きが封じられると、後は数の暴力で押し潰される。多数を相手にする時は常に動き回り、相手に触れられる前に倒す。弥太郎にとって組まれたり掴まれたりするのが最も嫌がる事だろう。例えば、長さ百八十センチ、重さ八十キロの錘が纏わりつけば、動きはかなり制限される。

 狙うは、弥太郎の腕の袖。腕自体を掴むと抜けられる可能性がある。服の袖に指を突っ込めば、後は引くなり何なりして体勢を崩す。動きを少しでも止められれば充分。後は江田たちに任せ…

 がり

 僕の突き出した腕が、逆に掴まれている。

 目の前に弥太郎がいた。僕が彼の袖に注視し過ぎたせいだ。そこに意識を集中するがあまり、彼に行動を読まれた。

「虚を衝き、実を討つ、か」

 目の前の弥太郎が笑う。獰猛とはこれこのことか。本能的な恐怖が沸きあがる。掴まれた右腕をすぐにひじから曲げ、掴んでいる相手の手首と一緒に上に払いのける。掴まれていた腕が相手の腕から抜け、同時に相手の腕を弾き、視線と相手の動きを妨げる。

 体が勝手に動いた。左腕を曲げ、胴体を守る。みし、と二の腕とその下にある肋骨が伝播する衝撃で軋んだ。頭がようやく、危機を理解する。弥太郎の右拳がめり込んでいた。僕の腕を掴むのも、払われるのも織り込み済みだったのか。右側に意識を向けさせて、左側を攻める。虚を衝かれたのは僕の方だった。

 体を後方に逃し、追撃に備える。弥太郎が一歩踏み込んでくる。深く鋭い踏み込みは、次に繰り出される一撃で仕留めるための予備動作だ。

 甲高い電子音が鳴り響く。流石の弥太郎も一瞬意識を僕から外す。流れに乗っていた体に僅かながら澱みが生じる。音源は僕のスマートフォンだ。五秒後に鳴るようにセットしておいた。つまり、結局後手に回ってにっちもさっちもいかなくなった時用だ。

 心構えが出来ていた分、僕の方が先に動けた。下げた足が着地するなり前へと体を押し出す。意識と目標と発射タイミングのずれた一撃を逸らし、肉薄する。体を屈め、右腕を相手の右足に絡める。持ち上げるようにして体を起こし、弥太郎の胴にショルダータックルをかます。後は倒れ込めば…

 ぐるんと体が横回転した。弥太郎は僕の残された左足でわざと体を浮かし、遠心力と体重移動で、ホールドされている右足を軸にして回転したのだ。しっかりと彼の足を掴んでいた僕も、引き摺られて上半身が泳ぐ。嘘だろ、と頭がパニックになる。この状態から抜け出されるなんて考えもしなかった。

 右腕を離し、受身の事など考えずに自分から前へ倒れ込んだ。ヘッドスライディングのような形だ。

 無様に倒れ込んだが、それだけの価値はあったと思う。五体満足で距離を取れたのだから。彼の方もそれ以上は追撃を見せなかった。僕を追撃すれば背中を江田たちに見せる事になる。一対多数の場合は敵を確実に減らす事以上に、自分の安全が最優先だ。

 しかし、このやり取りで合点がいった。

「その髪、その動き、その思考、発想。やはり、お前」

 向こうも気づいた。

「泣き虫カナか」

 懐かしいあだ名だ。体を素早く立て直し、向き直る。

「ヤタにい…、久しぶり」

 山形に居た頃の、唯一の友達。同じ道場に通った兄弟子。まさか、こんなところで会うとは思わなかった。あの頃は苗字とか知らなくて、お互い下の名前のあだ名で呼び合ってたから。それに、あの頃のヤタにいは今みたいに猛禽類の親戚みたいな鋭い顔つきではなく、女の子に間違われるような可憐な面立ちだった。気づかないのも無理はないと思う。とんだビフォー&アフターだ。性格は今と同じく苛烈ではあったが。ヤタにいを女の子と間違えて襲いかかってきた変質者を、冷静で容赦のない的確な金的と、痛みに蹲ったところへ痛烈な回し蹴りを顎に叩き込んで沈めたのを間近で見たのは、良い思い出と言っていいものか。

「相変わらず、おっかなびっくりというか、中途半端な攻め手だな。臆病な性格は直らないままか」

 あの一当てで見抜かれたようだ。苦笑を返すほかない。

「ヤタにいは強くなったね。あの頃も常識外れの身のこなしだったけど、更に進化して」

「強くなる必要があったからな。強くなければ、大事なものを守れないと知った。だから今日まで鍛え続けた」

 一瞬だが、弥太郎の目が芦原を見た、気がした。

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