第125話 大魔王からは逃げられない
期末テストの点数で繭墨と勝負する――その無謀さはよくわかっている。
今までの実績から考えてもまず勝ち目はない。
ちょっと信じがたいことなのだが、常時学年一位の繭墨乙姫は、テスト勉強というものをしていない。
テスト期間中だけ集中してとか、山を張って一夜漬けとか、いわゆる追い込みをかけないのだ。
普段のペースで淡々と勉強し、淡々といい成績を取る。彼女に抜き打ちテストというものは通用しない。どこをとっても成績優秀の金太郎飴。それが繭墨の勉強に対する姿勢だ。
そんな彼女でも、勝負を持ち掛けてきた以上は普段やらない〝テスト勉強〟に励むだろうから、ただでさえ学年一位の成績が、さらに隙のないものになってしまう。
それでも勝負を受けた理由は、繭墨の意図に興味があったからだ。
突拍子のない提案はたまにあるが、今回のこれはどこか挑発的だ。わざとらしいほどに余裕を見せる態度は、余裕がないことの裏返しではないかとすら思える。この勝負の決着の先に、今までとは違う繭墨が見られるのかもしれない。
まあもっと重要なのは〝なんでも命令権〟だ。それは言うまでもない。むしろ繭墨の意図なんてオマケだ。勝てばよかろうなのだ。
「いきなりニヤニヤするなよキモいぞ鏡一朗さん」
机の向かいでノートを広げている赤木が三日月のように口元を上げる。
「おいやめろその呼び方をしていいのは繭墨だけだ」
「お、おう……、すまん……」赤木はすぐに素に戻る。「ていうかお前はまだ名字呼びなんだな」
「繭墨だって口を滑らせただけだよ。先生をお母さんって呼んじゃったようなものだから」
「その違いが温度差にならなきゃいいけどな」
赤木の隣でノートを広げている直路がポツリと言った。
「お、なんだそれ、彼女と険悪になってる経験談?」
「もう仲直りしたけどな」
「なんだつまらん」
赤木は相変わらずカップルに対しての当たりが強い。それでも声のボリュームが抑えられているのは、放課後の図書室でテスト勉強中だからだ。繭墨との厳しい戦いが予想されるというのに、僕は不甲斐ないやつらの勉強を見てやっていた。
「で、いけそうなのか?」
と直路がペンを走らせつつ問うてくる。
「さあ……、一応、ちょっとだけ条件交渉はしたけどね」
全科目の合計点勝負では全く戦いにならないので、5科目に絞ってみてはどうでしょうか、とお願いをしてみたのだ。我ながらちょっと情けなかったが、割とあっさりと受け入れられた。さらに繭墨の方から、その5科目は阿山君が自由に選んで構いませんよ、と逆に提案される始末である。
情けは無用、と突っぱねられたら格好よかったが、僕にできるせめてもの反発は「後悔しても知らないぜ?」と捨て台詞を吐くことだけだった。
「それでも厳しいだろ」
「あとはまあ、勉強あるのみだよ」
「らしくないな」
その、どこか皮肉げな物言いこそ直路らしくなかったが、
「お前がやろうとしてるのは、キャッチャーが強肩を頼りに盗塁を刺そうとしてるようなものだろう」
と続けられて、言いたいことがわかってくる。
「どういう意味だ?」
首をかしげる赤木のために説明してあげる解説の阿山さん。
「盗塁を止めるには、もちろんキャッチャーの肩が強い方がいいんだけど、それだけじゃ足りないんだよ。ピッチャーの協力も必要になる。ランナーを自由に走らせないように牽制球を投げたり、投球フォームを工夫したりね」
「野球ゲームはあまりやらないからよくわかんねえな」
赤木はやはりピンと来ていないみたいだったが、
「……ああ、つまりこういうことだろ。強敵と戦うときはバイキルトだけじゃなくルカニも使った方がいいと」
僕と直路は顔を見合わせる。
「そっちの方がわかりやすいな」
「だね」
ゲーム脳なんて言葉が現れて久しいが、僕たちにとってゲームの知識が前提となっている会話はごく自然なものだ。ゲーム脳という言葉を批判的に使っている人は、根本的にゲームが嫌いなだけなのだろう。
それはともかく。
赤木の比喩から僕はひとつ不穏な連想をしてしまう。
ロープレのお約束として、強敵には弱体魔法が効かないことが多いし、〝にげる〟コマンドも通用しないのが一般的である。大魔王からは逃げられないのだ。
◆◇◆◇◆◇◆◇
テストの開始が数日後に迫ったある日の休み時間のことでした。
「テスト勉強は
赤木君が鏡一朗さんに声をかけていました。
テスト勉強の進捗というのは、この時期になるとよく耳にする定番の話題です。本来ならば雑音の一つとして意識することもないのですが、鏡一朗さんに関わることなので、ついわたしも文庫本をめくる手を止めて、聞き耳を立ててしまいます。
「進んでると言えば進んでるけど、時間には限りがあるからね。いろいろ無理をして捻出してるよ」
鏡一朗さんはどこか疲れた笑顔でそう応じています。
「無理っていうと、睡眠時間を削ったりしてんのか」
「いや、それはやってない。集中力が続かなくなるし記憶力も落ちる気がするから。削ってるのは家事だよ。部屋を片付けてないからゴチャついてきてるし、料理もしないから食事はスーパーの総菜とかカップ麺でしのいでる」
「カップ麺、うまいだろ」
「でも堕落している気がするよ」
……なるほど。それは心苦しいことです。
鏡一朗さんがいつも以上に必死でテスト勉強をしているのは、わたしとの勝負のせい。つまり彼の生活が乱れているのはわたしの責任なのです。本気で挑んできてくれているのを嬉しいと思う反面、やはり申し訳なさも感じてしまいます。
放課後、わたしは図書室でのテスト勉強を早めに切り上げて、寄り道をすることにしました。最初に立ち寄ったのは、鏡一朗さんのアルバイト先でもあるスーパー〝ラッキーマート〟です。
買い物かごを持って店内を回りつつ、商品を物色していきます。このところ冷え込んできましたし、温かいメインディッシュを。なおかつ一度に食べ切るのではなく、翌日にも温め直して食べられるもの、という条件をつけて、ビーフシチューを作ろうと思います。
副菜にはサラダと、あともう一品ほしいところですね。バランスを考えて鮮魚コーナーを見て回り、白身魚が安いのでそれを購入します。ソテーなら簡単にできますし、味つけをあっさりめにすれば副菜としていけるでしょう。
「いらっしゃいませー……、おや、君は確か阿山君の……」
ふと店員さんに声をかけられました。
相手はこの店の副店長さんで、わたしも鏡一朗さんを通じて面識があります。
「どうもこんばんは、阿山君がお世話になっています」
「奥さんか母親のようなあいさつだね」
副店長さんは苦笑いをしつつ、ちらとこちらのカゴを一瞥します。
「なんだか夕食の献立への強い意思が感じられる中身だけど……」
さすがにスーパーの店員さんともなれば、かごの中身を見ただけでその日の夕飯の献立や家庭環境まで見抜いてしまうのでしょうか。
「まさか……、いや、そんなことはないか。確かテスト期間中で忙しいだろうし」
と副店長さんは首を振ります。はは、そんなはずはない、悪い夢さ、と現実から目を背けている隙に背後から刺殺される、アメリカの連続テレビドラマの脇役のような動作です。
「はい、忙しくて夕食を惣菜のお弁当で済ませているという阿山君のために、手料理を振る舞おうと思いまして」
「なんという……」
こちらが正直に答えると、副店長さんは立ちくらみをしたかのように
しばらくして店内に流れていた音楽が不自然に途切れ、なぜか『お家へ帰ろう』(シチューのCMソングで有名なアレです)に切り替わりました。
◆◇◆◇◆◇◆◇
買い物を終えてアパートへたどり着き、鍵を開けて鏡一朗さんの部屋に入ると、さっそくキッチンに立ちます。
彼の言葉どおり、普段よりも部屋の中が雑多になっていましたが、そこには手を付けないようにします。あまり時間の猶予がありません。コンロにお鍋を置き、調理器具や食材を並べていきます。
この部屋に上がるのは何度目でしょうか。手料理を振る舞ったのは数えるほどですが、初めての頃と比べて、レパートリーはかなり増えています。今日は陣中見舞いに加えて、覚えたての料理を披露するという目的もありました。実をいうと常にその機会は狙っていたのです。でなければマイエプロンをカバンに忍ばせたりしません。
やがて材料をひととおり鍋で炒め、水を入れて煮込みの工程に入ります。焦げ付かないようおたまでかき混ぜながら、ふと、幸せというものについて考えます。
結婚はしばしば、人生における幸せの頂点などと表現されます。それなら、告白を受け入れて付き合いを始めるのは、色恋沙汰における幸せの頂点といえるでしょうか。鏡一朗さんに告白されたとき、もちろんうれしかったのですが、同時にいくらかの戸惑いもありました。
付き合うといっても何をすればいいのでしょう。例えば呼び方を変えてみたり。あるいは接し方、距離感を変えてみるという手もあります。ですが、急にそんなことをするのも浮かれているみたいで癪ですし――と、あれこれ考えた末、わたしは、あえて無理に変わることはないという結論に達しました。
それが、ほんの2か月でこの有様です。
幸せの頂点などというものがどこにあるのかはわかりませんが、告白を受けたときよりも現在の方が、より楽しめていることは事実です。
男女交際に限らず、人間関係とはこのビーフシチューみたいなものなのかもしれません。完成した直後の状態よりも、一晩寝かせて熟成させた方が旨みが増す。
――ああ、この比喩は止めておきましょう。食べ物に喩えるのはよくありません。いつかなくなってしまうみたいじゃないですか。
◆◇◆◇◆◇◆◇
料理が完成するとすぐに洗い物を済ませてアパートを後にします。
鏡一朗さんと顔を合わせるつもりはありませんでした。何も言わずに、というところが粋なのですから。
とはいえ外でお弁当を買ってしまったり、外食で済ませてしまうことがないよう、食卓をバックに制服エプロン姿を自撮りし、画像を送信しておきました。
『ごちそうさま。ビーフシチューおいしかった』
帰りのバスに揺られていると、鏡一朗さんから電話がありました。
「お粗末さまです。サラダはどうでしたか」
『アボカドとか入れるんだね』
「苦手ですか?」
『いや、
「それならよかったです」
『あと、魚を焼いたやつとか』
「あれはソテーと言うんです」
『そてー』
「フランス語です」
『ウィ』
そんないつものやり取りのあと、少しだけ、何か言いにくいことを口にするための助走のような沈黙がありました。
「どうしたんですか?」
発言をうながすように問いかけると、
『乙姫も勉強が忙しいのに、負担をかけちゃったなと思って』
「わたしがそうしたいと思っただけです」
『もし赤木と話してたのを聞いて、そう思ったんだとしたら……』
「――相手のことを考えながら練り上げていくという意味では」
鏡一朗さんの声にかぶせるようにして、彼を黙らせると、そのままこちらの話を続けます。
「きっと同じことなんでしょうね。料理も、
電話口で息をのむような気配がして、きちんと察してくれたのだと確認。
「だから、負担になんて感じていませんよ。本当です」
通話を切って車窓の外に目をやると、悪女めいた笑顔の女が窓ガラスに写り込んでいました。
こんな回りくどい意趣返しにもついてきてくれるひとというのが、どんなに稀有な存在なのかはわかっています。
わかってはいるのですが……、どうにも手を緩める気になれません。
こういうのも、相手を気持ちを試していることになるのでしょうか。
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