第9章 後編

 淡い日差しを感じて目が覚める。カーテンが微かに捲れて、そこから日光が差し込んでいるようだ。電灯とテレビとは寝る前と同じように、点けっぱなしだ。

 時刻を確認する。かなり眠っていたらしく、机の上にある時計は10時を指していた。


 ノックが部屋に響く。


「木原~、起きてる~?」


 青井さんの間延びした声が聞こえる。


「うん、今起きたよ」


「じゃあ、所長室に来てや。今日の作戦会議するから」


 私は青井さんに返事をして、部屋の洗面所に向かった。





「こちらが片瀬徹かたせとおる君です」


「はじめまして、片瀬です」


「はじめまして、木原弘泰と申します」


 握手を交わす。しかし、その握手は手のひらを触れ合わせるだけの軽い握手だった。


 片瀬と名乗った男性は肩口まで髪を伸ばしており、スーツを着た風貌はテレビドラマに出てくる不良っぽい会社員を思わせた。顔付きは端整で眉と目が細いため、鋭いイメージを持たせる。


「私も23歳です。別にタメ口でいいですよ」


 その声で、気づいたことがあった。彼は昨日所長と言い合っていた人物だ。それに気づき、心が身構える。


「では、挨拶も終わりましたし、作戦会議に移りましょうか」



 作戦会議は、こちらから話すべき内容はほとんど無く、1時間ほど所長さんが喋るだけで終わった。聞いてる感じでは、その話もそこまで重要な内容とは言えなかった。地下施設がどのような組織によって作られたのか調査し、侵入がばれないように行うことを繰り返していた。


 出発は午後10時で、それまでは個々で念入りな準備を行う。

 私は部屋に引き籠り、出発まで何も考えないようにしていた。眠れば楽だったのだが、緊張していてため、寝付くことができなかった。


 ベッドの上で天井を眺めていると、ノックの音がした。すぐに、青井さんと予想する。


「木原~、銃でも撃っていかへん~」


 やはり青井さんだった。このまま横になっていても仕方がないので、誘いに応じることにする。


「分かった、行くよ」


「じゃあ、先に行っておくな」


 時計を見ると、もうすぐ3時だった。私は銃とマガジン数個を引き出しから取り出す。凶器をしっかり握り締めて、私は部屋を後にした。



 射撃場に銃撃音が響き渡る。入り口側から私、青井さん、片瀬さんという並びで人型模型を撃つ。


 照準に集中しなければいけないのに、どうしても横の二人が気になってしまう。彼らの人型模型に空いた穴はきれいにまとまっており、正確な銃撃だった。


 しかし、私の人型模型の穴はまとまっておらず、散り散りになっていてきれいではなかった。おおよそは狙ったところに命中するのだが、僅かな手振れで少しずれてしまう。それを繰り返していると、穴が集中せずにばらばらに空いてしまう。

 私は深呼吸をして、再び人型模型と向き合った。



 時刻は7時を回った。夕食の後、私、青井さん、片瀬さんの3人は業務区画の部屋で椅子に座り、出発の刻を待っていた。


「でなでな、うちは麦茶かと思ってん。夏も盛りで暑いしコップにも入ってたから、何も躊躇うことなくその麦茶をぐびっと飲んだのよ。でもそれな、なんと麺つゆやってん! うち、思いっきり冷蔵庫の前で吐いてな。あれは大惨事やったわ」


 ここ30分ほどは青井さんばかりが喋っていた。私は頷くだけで、自分からはあまり喋ることはしなかった。片瀬さんは会話にすら参加せず、無言のまま椅子に座っていた。青井さんも片瀬さんが喋らないことを特に気にすることなく、会話を続けている。


「木原もそんな間違えある?」


「僕も水かと思って飲んだら、スポーツドリンクだったことがあるよ」


「あれもほんまにびっくりするなぁ。あとなぁ、うちこんなこともあってん」


 青井さんの話を聞きながら、片瀬さんの様子を窺う。彼は私たちと一言も喋らず、重い沈黙が辺りに漂っているようだった。彼の静けさは、上川さんのような大人しさからくるものではなく、絶対に話さないという意志を含んだ静けさであるような気がする。私はどうしても少しだけ、彼の冷淡さを意識してしまう。


「青井君、ちょっと来てください」


 ドアが開かれ、所長さんが入ってくる。青井さんは返事をして、所長さんと一緒に部屋から出て行く。


 片瀬さんと二人きりになる。急に、部屋が静かになる。ぎこちない雰囲気が充満しているようだった。


「片瀬さん」


「さん付けしなくていい。同い年だろう」


「じゃあ、かたせ」


 片言のような変なアクセントになる。


「何だ?」


「その、迷惑をかけるかもしれないけど、よろしく頼むよ」


 彼が私の入団をかたくなに認めなかったことを思い出して、言葉をかける。迷惑以上のことをかけるかもしれないが、せめて彼らの邪魔だけはしないよう、そして千里さんを探し出すという目的のためにも、精一杯自分にできることを頑張ろうと心をふるわせる。


 だが、彼の言葉に、その思いが打ち砕かれそうになる。


「迷惑かけるんなら、来るなよ」


「えっ……」


「お前、いちいち女々しいんだよ」


 何を話したらいいのか、分からなくなる。


「お前、俺に何を求めてんだ? 友情か? 優しさか? 気色悪い」


 顔を歪ませて笑みを浮かべる片瀬。


「きっと、お前は生ぬるい生活をしてきたんだろうな。それを責める気はないが、お前の生ぬるさを俺にまで伝播させないでくれ」


 今まで静かだったのが嘘のように、片瀬は饒舌に話し続ける。


「どうせ適当な学校を出て、訳の分からない企業に勤めて、へこへこしてんだろう。ああ、勘違いするなよ。俺は決してお前を侮辱してない。ただ、お前がここに相応しくないことを言っているだけだ」


 言葉が出ない。


「おい、黙ってないで何か言えよ」


「えっ、あっ……」


「反論の一つも思いつかないなんて、お前きっと社会人でも成功しないよ。今まで何を学んできたんだか。ああ、分かったぞ。お前、反論が思いつかないんじゃなくて、俺の言葉に怖気づいているんだな。情けないやつだ。お前なんて要らないよ。さっさとここで死んでくれ」


「……死ねなんて言葉、使うものじゃない」


「一般人の答えなんて、ここでは求められていない。ここは道徳や倫理、一般論、お前が求めてる友情や優しさなどの気色悪い人間関係は通用しないんだよ。強い自己と卓越した技術や能力だけが、不詳な組織に対する武器だ。それを全く理解していない。いっそ俺が今ここで殺してやろうか。その方がこの組織の隠蔽いんぺいもなる」


 銃を取り出して、片瀬が銃口を私に向ける。


「片瀬っち、言いすぎやで」


 いつの間にか青井さんが戻ってきたらしく、口を挟んでくる。


「見ろよ、青井。俺が銃を向けても、自分の銃を持とうとさえしていない。こんなやつ使えるか」


「木原はここにきてまだ日が浅いんよ。そんなに無理強むりじいさせんといてあげて」


「ならここに置いていけばいい。俺たち二人で、第七世界の反乱者は見つけられる」


「片瀬、少し黙りや」


「こいつがワールドディアだから連れて行くのか? そんなこと、このざまを見れば役に立たないって分かるだろう? 一目瞭然じゃないか」


「片瀬、黙らんと撃つで」


「はっ! 所長やお前がこいつを認めても、俺は絶対に認めないからな。俺はこんなやつのために死にたくない」


 声を荒げ、片瀬が部屋を出て行く。部屋が静かになる。


「くそっ」


 自分にも聞こえないぐらい小さな声で、私は呟く。


「ごめんな、木原。片瀬っちは時々あんなこと言うんよ。言葉は乱暴やけど、根は良いやつやから許してあげてな」


 青井さんが私に近づいて来て、申し訳なさそうに弁解してくる。しかし、彼女の同情も居心地が悪かった。


 奥歯を食いしばる。私が黙っていることに、青井さんが何か勘付く。


「ごめん、あんたにもプライドがあったな」


 彼女の言葉に、私は無言で俯くしかできなかった。


 片瀬に言われたとおりなのが情けなかった。片瀬の人格を無視したような言葉遣いに腹が立った。不甲斐なく弱々しい自分に対して、乱暴で冷徹すぎる片瀬に対して、今までに感じたことがない嫌悪感に陥る。暗い感情が、血液と一緒に体中を循環する。


 時計の針は遅々として進まない。私は何も話すことができず、俯いたまま時を過ごした。





 時刻は11時半を廻った。私たち3人を乗せた車は、会社付近の駐車場に到着する。


 夜の黒いとばりと、毒々しいネオンのぼんやりとした色彩が空で拮抗している。遠く車の走る音だけが聞こえてくる。人通りは全くない。この辺りは見慣れているはずなのに、別の世界に脚を踏み入れたような感覚に、私は陥る。


 ドアを開き、車内から出る。途端、凍てつく空気が体を冷たく切り裂いてくる。コートは着ておらず、ただスーツを羽織っているだけだった。しかし、中には防弾チョッキを着込んでいる。ずっしりとした重みが、上半身に圧し掛かる。命を守る重みが自重するようにと、体を束縛しているようだ。


 青井さんと片瀬は防弾チョッキを着ていない。きっと、敏捷性が著しく失われるために着用を止めたのであろう。


 私たちは無言で潜入の用意をする。銃器、マガジン、弾丸、応急処置用品などで、スーツとサイドバックが重くなる。それに比例するように、私の心も無機的な感情で重くなっていく。


「じゃあ、3人一緒に行動するからね。はぐれんように注意してや」


 青井さんが出発の号令をかける。私は小さく頷く。片瀬はビルの方角を見遣る。様々な思いが張り巡らされ、乾燥した空気に溶けていく。私たちは闇に包まれた街を音もなく駆けていった。



 会社の入り口に到着する。3回目の会社への潜入だ。今から何をするのか、それを理解して、体が様々な不調を訴えかけてくる。


 路地裏に到着する。青井さん、片瀬、私の順番で警戒しながら漸進ぜんしんする。


 砂利を踏んだような足音が舗装されたアスファルトから僅かに聞こえる。そんな些細な音にまで、体が敏感に反応してしまう。


 警備員室が近づく。青井さんが私たちを手で制して、警備員室の中を覗き込む。彼女はすぐに、誰もいないことを伝える。私たちは銃器を構えて、会社の内部に侵入する。


 ビルに入った瞬間、空間の歪みを感じる。平衡感覚がぶれる。冷たい海に入っていくように、体温が徐々に奪われていくようだ。

 リノリウム製の床がオイルのような質感で光を反射させる。私は前方に注意を払いながら、慎重に歩みを進める。


「木原、大丈夫?」


 青井さんが心配して声をかけてくれる。


「うん、なんとか」


 返事をした私に、片瀬が話しかけてくる。


「世界間矛盾が働いているのか、それとも単純に怖気づいているだけか」


 青井さんが片瀬を睨む。しかし、片瀬は青井さんを無視するように喋り続ける。


「特殊口から攻めるか。それとも、エレベーターから地下に向かうか」


「……エレベーターは鍵が無いし無理や。もし手に入るようなら簡単に深部に行けるんやけど。やっぱり、特殊口から攻めるしかないわなぁ。鍵持った奴はひょこひょこその辺をうろついてないやろ」


 交差路に差し掛かる。そのまま、私たちは直進する。私たちの影が濃くなったり薄くなったりを繰り返しながら、壁に描かれる。


 再び、交差路だ。青井さんと片瀬は左に曲がっていく。私もそれに付き従う。


 どこまでも廊下が続いているような錯覚。ビルの中は静かすぎて、足音さえこの場所では響くため、そうならないように靴を滑らせるように進む。


 廊下が終わり、小さいロビーに私たちは辿り着く。ロビーには受付スペースや接客ブースがあり、日中の賑やかさが思い出される。ただ、今は闇に沈み机や椅子などの備品にはおりのような空気が堆積しているように見えた。


 大きな広間には細心の注意を払わなければならない。青井さんはロビーの入り口に立ち、壁に背を付けて暗視スコープで状況を確認している。


 突然、青井さんが手を上げて私たちを制す。すぐに耳を澄ます。遠く、足音がする。一気に緊張感が増す。近づいてくる足音。


 青井さんと片瀬が銃を構える。臨戦態勢だ。やり過ごすのか、戦うのか、私には分からない。


 足音が確かなリズムを持って響いてくる。青井さんが首を横に振る。やり過ごすようだ。私はその判断に安堵する。無駄な戦闘は潜入を不利にしていくだけだと、心の中で青井さんに賛成する。


 近づく足音。ライトの長い光がロビーの中を廻り巡っていく。スポットライトを浴びせかけられるように、壁や備品が照らされていく。


 入り口から、青井さんが慎重に後退する。それを見た私たちも後ろに下がる。ライトが当たらないように、体を壁に押し付ける。体温がコンクリートに奪われていく感覚がする。銃を胸元に抱く。警備員が真横にライトを照らしたら、私たちは見つかってしまう。そうならないように、自分の運に祈る。


 足音が一際大きくなる。広間の中に警備員を目視する。


 聞こえないはずなのに、無意識に呼吸を止める。鼓動が全身に響く。指先が恐怖で固まる。ゆっくりと、警備員が歩いていく。


 視界から警備員が消える。呼吸を少しずつ再開させる。縄をゆっくりと紐解くように、体の緊張が解かれる。


 足音が遠ざかっていく。少しだけ安心するが、すぐに理性が安堵感をかき消す。まだ緊張していなくてはならない。


 青井さんが指で右に向かうことを示す。以前に脱出ときと同じ特殊口から潜るようだ。

 私たちは低姿勢を保ちながら、備品を利用して特殊口がある空調室に向かった。



 長い梯子を降りて、少し歩くと小さな部屋に到着した。その部屋は冬だというのに湿気が多く蒸し暑いかった。しかも、どぶ臭いが鼻腔を擽る。もしかすると、下水道が近いのかもしれない。


 青井さんたちは警戒しながら、部屋から出る。私も銃を握り締めて後に続く。


 しばらく廊下を進むと、大きな広間に出た。地下のはずなのに、天井が高い。大きく太い柱がいくつも立ち並び、空疎な神殿を思わせた。


 ここが一番危ない。本能が私に告げる。


 青井さんや片瀬の目が厳しい。この場所をどのように突破するか考えているようだ。


「うちが先に行くから、二人は後から来てな」


 片瀬が頷く。


 私の返事を待たずに、青井さんが疾走する。足音はなく、彼女は柱に隠れながら進んでいく。私は離れていく彼女を凝視する。彼女の危機は、私の危機に繋がる。

彼女が対面まで行き着く。微弱な光と柱が幾何学模様を描き出す中、彼女が手を上げるのが見えた。


「遅れるな」


 それだけ、片瀬が呟く。


 突然、激しい銃声の轟音が鳴り響く。


 素早く銃弾が放たれる場所を探す。広場の右前方から銃声がする。私と片瀬は広場中央左の壁側、青井さんは広場中央右の壁側にいる。


「くそっ、どうしてだ!? あまりにも早すぎる!」


 片瀬が焦る。私は戸惑うだけしかできない。弾丸と銃声が激しく飛び交う。


「青井さん!」


 侵入者である私たちを狙う集団は、青井さん側に侵攻していく。応酬しあう銃撃音。鋼鉄が飛び爆ぜる。


「加勢だ! 急げ!」


 片瀬が驟雨しゅううのように駆ける。私もそれに遅れないように続く。


「撃ちまくれ!!」


 遊底スライドを手早く引き、撃鉄ハンマーを下げる。照準を合わせて、引き金トリガーを引く。銃口から破裂音が上がる。


 敏速に銃撃を反復して、次々に放弾していく。狙いは光る火花に向けるだけで、着弾は確認できない。ただ撃ちながら走り続ける。


 まだ、相手は青井さんを執拗に攻撃している。彼女が反撃する火花が見える。しかし、完全に相手の銃撃に圧倒されている。


 突然、近くの柱が激音と共に崩壊する。瓦礫がれきが飛び散り、破片が体に当たる。


 柱の影に制止すると同時に、マガジンを交換する。スライドを引いて、弾丸を装填する。柱に隠れながら銃弾を数発、撃ち込む。止まらない銃声。身を小さくして柱でやり過ごす。相手からの銃声が途切れる合間に、弾丸を放っていく。


 片瀬は少し離れた柱から撃ち続けている。長髪が揺れ、しかめた表情が覗く。


「引け! このままだとやられる!」


 片瀬が大声で怒鳴る。私は銃を撃ちながら答える。


「でも青井さんが!」


「引け!」


「くっ!」


 来た道を駆け戻る。躊躇ちゅうちょは死ぬときだ。走りながら柱と柱の間から銃弾を流す。せめて相手の数が少なくなればと、腕を後ろに伸ばして放弾する。

広場の入り口まで戻る。


「このまま潜入を続けても危険なだけだ。戻るぞ」


「でも青井さんがまだ!」


「運が悪かった」


「そんな」


 廊下を走りながらの会話。遠ざかる銃撃音。


「だめだ、青井さんを置いていけない!」


「諦めろ」


「嫌だ、少しでも彼女に加勢を」


 突然、近距離で発砲音がする。広場と入り口付近からだ。敵が私たちを追ってきた。複数の影が差し迫ってくる。


 全力で走る。当たれば最後だ。最後、最後、死ぬ。死ぬのは嫌だ。嫌だ、嫌だ。死ぬのは嫌だ!


 片瀬と左の通路に逃げ込む。曲がり角を利用して二人で射撃する。上から片瀬、下から私。相手の進攻は停止しない。人影と銃撃音が急進してくる。


「何をやってる!? 連射ラビットだ!」


 片瀬が叫ぶ。連射という言葉に、暴発の危険性が脳裏を過ぎる。だが通常の射撃では間に合わない。急いでマガジンを入れ替える。トリガーを引いたままにして、ハンマーを繰り返し引き下げていく。


 先ほどと、比べ物にならない射撃速度。放たれた弾と弾の間隔がほとんどない。

相手が倒れる。銃撃音と迫る気配が止まる。恐る恐る覗き込む。倒れた相手は5人ほどだろうか。


「!?」


 再び、銃撃が聞こえる。今度は逆方向の進路からだ。咄嗟に、先ほどまで弾雨に晒された通路に飛び出る。状況を急いで考える。相手が銃撃した場所と私たちの距離は遠い。しかし、逃げ場がなくなる。


 再び広場に向かい駆け出す。呼吸を忘れて全力で突き進む。


 広場に戻ってくる。先ほどの銃撃が嘘のような静けさだ。遠雷のような銃撃音が青井さんの逃げた通路の奥で上がっている。


「仕方ない。青井の向かった通路に行くぞ」


 地面には崩れた柱の瓦礫が散乱していた。その瓦礫に足を捕られないように、注意して走る。


 右中央の通路に至る。そこは無残にも穴だらけになり曲がり角の壁面は原形を留めていない。床には大小の崩落したコンクリートのむくろが飛び散っている。


 大勢の足音が広場に入ってくる。数は5人ほどか、四散して私たちを追撃してくる。


「逃げるぞ!」


 片瀬が叫ぶ。視界が走る振動に合わせて動く。


 分岐に差し掛かる。その直後、私たちの後方から銃撃が始まる。体を旋回させ、脇の通路に逃げ込む。片瀬は反対側の通路に陣取る。その場所から迎撃を開始する。相手の武器はマシンガンなどの大型火器だ。相手が近づくことを阻むためだけの射撃しか、私たちにはできない。このままでは、銃弾が切れるのも時間の問題だった。


「退避だ!」


 片瀬がえる。彼がこちらに屈みながら走ってくる。

 2人で細い回廊を駆け回る。分岐があればどうであろうと銃弾を避けるために曲がる。


 走りながら残りの弾数を確認する。マガジン残り2倉。11mm弾丸20発。合計35発程度。この弾数で相手を止めることは不可能に近い。


「このままだと青井を追った部隊に見つかってしまう! 挟まれるのは危険だ! 次は左に行くぞ!」


 左に急転する。軸足となった右足が、変によじれる。私は痛みを無視して走り続ける。しかし、逃げ切れる出口はどこにも見当たらない。


「階段を降りるぞ!」


 片瀬の声を聞き取り、私たちは階下に向かう。



 階下に降りて右方向に走る。侵入前の打ち合わせ時に確認したが、ここから右側にもう一つ地上に繋がる特殊口があるはずだった。


 走り続けて、息が苦しい。だが、立ち止まることはできない。


 突然、前から銃声が上がる。進路の先に複数の人影が現れる。私たちは不意打ちの銃撃を受ける。通路は直線、故に退路はない。


「撃ちまくれ!!」


 咆哮ほうこうと狂気に包まれる。ただ銃を撃つだけの機械と化す。耳元の壁面で弾丸が爆ぜる。耳障みみざわりな鋼鉄の擦れる音が幾筋も流れていく。


 通路の先で相手が倒れていく。弾丸は私には運よく当たらない。


 すべての相手が床にひれ伏して銃声が収まる。先を急ごうとした。だが私の横にいたはずの片瀬がいない。


「おい、冗談だろ」


 そこに胸と脚を打ち抜かれた片瀬が倒れていた。目を見開き、荒い呼吸を繰り返している。


 吐血が彼の口からこぼれる。


「おい、片瀬! しっかりしろ!」


 頭がパニックを引き起こしかける。右大腿部に一発、胸部左下に一発。とにかく早急に応急処置が必要だ。片瀬の腕を掴み、自分の肩に回す。来た道を引き返していく。


「頑張れ、もう少しだから……」


 片瀬は歩くことができる状態ではない。彼の苦痛の表情と呻く声。早く安全な場所にという思いだけが前に馳せる。

 遠く、分岐が見える。目をよく凝らすと、そこに扉が複数あることを見つける。私は急いでその扉に向かった。



 小さな部屋に入る。書類が雑多に置かれた棚が、部屋を取り囲んでいる。


「くそ、何で俺がこんな目に」


 片瀬が微かな声で悪態をつく。その声を聞きながら、赤く染まったワイシャツや下着を脱がしていく。


「っ……」


 思わず、視線を逸らす。かなりの出血量だ。


 唇を強く噛む。血の滲む味がする。サイドバックから包帯を取り出し、彼の体に巻いていく。


「包帯なんか、無駄だよ。肺に達してる」


 息が途切れながらも、片瀬は話しかけてくる。


「あと20分、もつかな」


「大丈夫だ、心配するな」


 根拠の無い、勇気付ける言葉。小刻みに震える言葉。


「所長に、俺はだまされたな。捨て駒は、お前だけじゃなくて、俺たちもだったんだ。上手いこと話しを、あつらえやがって。あの時、気づけばよかった。もうどうでもよくなっちまった。この際だから、教えてやるよ。お前は俺たちに、騙されてる」


 片瀬の表情が歪む。


「被検体の救出なんてしない。この地下組織が、何かなんて、とっくに解っている。ただ、俺たちは、この地下組織の要請を受けて、この組織内にいる反乱者を探し出すことが、目的で潜入しているんだ。それが、今回の任務だ」


 片瀬は、苦しそうに言葉を絞り出す。


「それを兼ねて、お前を組織に入れたいがために、所長が仕組んだ計画。表向きには、被検体の救出なんて言っているが、実際は、被検体の救出なんてしない。俺たちが、被検体をこの地下施設の組織、第七世界に売ったんだからな」


「何故、そんなことを」


 全ての感情が凍りつく。


「俺たちHPAACは、反社会的勢力やテロ組織の壊滅も行ってはいるが、主な資金源は人身売買だ。身寄りのない貧困者や超能力者は、社会的に孤立していることが多いため、売買しやすい。売買された者たちは、非合法の重労働や臓器売買に利用される」


 新たな事実に、眩暈が起こる。


「この第七世界は、俺たちと協調関係にある。第七世界は、人体を使って様々な実験をしている。それには、感応者などの心理探索型の超能力者が、必要らしい。理由は完全な人間を作り出すこと。具体的なことは、解らない。ただ、超能力者の脳を調べることしか、俺は知らない。超能力者を売り渡すことで、第七世界は俺たちに、膨大な資金や様々な未知の科学を、代価として提供してくれる。互いの利益が一致したんだ」


 片瀬の息が上がってくる。


「お前は、ワールドディアという力を持っているようだ。その力を、この組織は、必要としている。現在は、協調関係を築いているが、もし、第七世界が、こちらの第六世界に侵攻して来たとき、抑制力になるからだ。だから、お前を戦闘員にでもして、保険として手駒にしておきたいと、所長は思ったわけだ。今回の潜入も、被検体の救出失敗として、片付けて、お前を上手く取り込む計画だったんだろうな。もちろん、人身売買する団体ってことは、隠してな。だが、失敗だよ」


 片瀬は、口元を捻じ曲げる。


「俺の、せいだ」


 話すことで傷ついた肺を使いすぎたのか、強くき込み唾液と血液が口から流れ出る。


「いいか。すべてを疑え。お前の周りの人間、すべて疑え」


 質問をしたくなる。だが、片瀬の容態と差し迫る死の中で、思考が停止してしまう。


「ああ、はっきりしなく、なってきた」


 私は彼の手を握る。


「怖くない。怖くないぞ」


 震える、片瀬の手。だが、その震えも弱々しかった。

 彼の手を強く握る。だが、彼の手は握り返してこない。

 瞳が光を失っていくのが分かる。呼吸が弱くなっていくのが分かる。手が次第に、力をなくしていくのが分かる。そうして、彼は静かに息を引き取った。


「ああ……」


 間近で見る、人の死。消えてゆく、人の熱。私は何も考えられなくなる。

 壁にもたれ掛かりながら、よろめくように立ち上がり、私は部屋を後にした。



 仄暗い廊下と分岐が、果てのない洞窟のようにどこまでも続いていく。

 この地下施設が第七世界と呼ばれていることは分かった。そしてHPAACは、人身売買の団体であり第七世界の加担者ということも分かった。千里さんは、このHPAACから第七世界に人体実験のために売買された。だから、千里さんの詳細なデータがあったわけだ。


 それぞれの事実を、私は噛み締める。私は千里さんを人体実験した者たちの掌で踊らされていただけだ。結局、私は千里さんに何も近づいていない。それどころか、千里さんの身を危険に晒した者を頼っていたことになる。自分を騙していた周囲と、騙されていた自分に強い怒りを感じる。しかし、これからどうするのか。その答えを導くのが怖くて、思考が勝手に鈍化していく。


 片瀬の死、人の命が消えていくのを、この目やこの手が覚えている。それは、とても空虚だった。空虚と感じたのは、あまりにも突然の出来事のため、死に対してきちんと向き合えていなかったからなのかもしれない。死というものは、そんなものなのか。


 違う、それは心の捏造だ。本当は死を恐れ憎んでいる。今、それを思ってしまうと、私はきっと立ちすくんで動けなくなる。今、それを意識してしまうと、私はきっと耐えられなくなって動けなくなる。動けないことは、死に向けて転げ落ちていくのと同じである。そんなことは生存本能が許さない。


 だから、思うことを止めて、胸の奥底で悲哀と恐怖が渦巻いているような、沈んだ気持ちになるのか。私自身も、ただ生存本能によって在り方を決められている。その事実に気づき、心に潜む本能の支配を感じ取ってしまう。


 突如、複数の足音が前方から聞こえる。敵襲がこちらに向かってくる。まだ私までは遠い。


 足が過緊張でりそうになる。逃げ込める分岐を探す。前方には交差路がある。後ろの分岐はかなり前に通り過ぎた。このままだと直線通路での戦闘になってしまう。先程の銃撃戦を思い出す。直線通路での無残な死が、じりじりと忍び寄ってくる。


 死にたくなければ、前方の交差路に出て、先制攻撃するしかない。


 人の命を奪うという行動に、一気に身の毛がよだつ。だが、それ以外に私が生き延びる方法はない。


 足音を消して急進する。交差路まで、あともう少しだ。

 交差路付近で足を止める。感情を凍らせて、足音がする右通路に速射する。狭い通路に銃声が響き渡る。


 突然の来襲に、倒れる警備員たち。マガジンを変えて再び速射する。反撃の弾幕が私へと降りかかる。曲がり角に隠れながら速射を繰り返す。倒れていく警備員たち。彼らが完全に動かなくなるのを確認して、引き金から指を外す。


 体が震えている。銃弾が装填されたマガジンは残り一つとなった。あとは銃弾がサイドバックに20発ほど残っているだけだ。サイドバックを開けて銃弾を手に取り、空になったマガジンに銃弾を込めていく。単純な作業なのに、指先が小刻みに震えて上手く入らない。


 何故か、左腕が熱い。視線を腕に向ける。


 弾丸がかすめたのか左袖が裂けて、傷になっていた。赤黒い血が、裂けたスーツに伝って染み込んでいく。


 弾を込める作業を止めて、包帯を取り出して左腕に巻く。痛いという感覚はなかった。ただ、腕が燃やされたように熱い。命を遣り取る異常な場面が、痛覚を麻痺させているのだろうか。


 包帯を巻き終わる。白い布地に赤い液体が滲み拡がっていく。私は再びマガジンに弾を込める作業を行う。作業を終えると一息ついて、再び私は奥に向かって歩き始めた。


 倒れた警備員たちの脇を通る。ふと、警備員たちの死体に目が向く。そこで何か違和感を覚える。よく見ると、警備員の服装をした者の中に、黒い服を着た者もいる。


 凶弾に倒れているはずなのに、警備員や黒衣の者からは死というものが見受けられない。何故か、生の死の臭いがしないのだ。

 コールタールのような黒い血液が床に拡がっている。私の靴が血液の附着を嫌がり、遺骸を避ける。

 私は違和感を曖昧に消し去って、そのまま先に進んでいった。



 どれぐらい、回廊を彷徨さまよっていたのだろうか。階段は降りていないので、まだ浅い階層にいることだけは分かった。


 無機的な静寂の中に声らしき音を聞き取り、私はふと我に返る。風に乗って運ばれた、小さな声。いや、風なんて吹いてない。ただ、鋼鉄とコンクリートの壁面が、声を反響させているだけだ。


 声がする方向は、ただ通路の前としか分からない。入り組んだ回廊は、音の正確なありを把握させてくれない。


 声に導かれるように歩いていると、また分岐点に差し掛かる。どうやら話し声は左側から聞こえてくるようだ。


 足音を立てないように左に進んでいくと、薄暗い廊下の先に開いている扉を見つけた。ゆっくりと進み、扉まで差し迫る。鼓動が一気に早くなる。私は開け放たれた扉から部屋の中を覗く。


 デスクが無造作に置かれた部屋の中、そこに銃を向け合った青井さんと富樫がいた。

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