第4話 壁ドン、顎クイ、ウィスパーボイス
ある日、私――
「へえ、袖野先生って少女漫画読むんですね」
先生が資料を散らかす癖を知っている私は、本を踏まないように避けながら先生の傍に歩み寄る。
「いえ、少女漫画は数えるほどしか読んだことがございません」
「そうなんですか?」
袖野先生自身がもはや少女漫画の登場人物かと思うほどの美女なのだが。
「わたくしの家庭は躾が厳しくて、漫画もゲームも自由に買い与えてもらえませんでしたから」
先生は寂しそうに笑う。
……なんとなく察しはついていたが、どうやら「袖野白雪はかなりのお嬢様らしい」という噂は真実のようだ。
そうでもなければ、こんな大きな純和風の大邸宅に一人暮らしなんて出来ないだろう。
まあ、それはともかく。
「それで、何故少女漫画を読んでいるんですか?」
「これは資料です」
「資料?」
小説を書くのに、漫画を資料に?
私の頭の上に疑問符が浮かぶ。
「今までは他の作家さんの恋愛小説を参考にしたりもしていたのですが、小説だとどうしてもその作家さんの文章の癖がしみついてしまうのです。ですので、こういう媒体の違う資料を活用することで盗作にならないように対策をとっているのです」
「なるほど……」
たしかに漫画なら台詞以外に文字はほとんどない。作家の文章の癖が
「しかし、資料ということを抜きにしても、少女漫画というのは面白いものですね。絵という視覚的な表現で直接読者の心を揺さぶる、強い力を感じます」
「はあ」
たしかに、小説は文章をある程度読まないと内容を理解できないけど、漫画なら絵を直接見れば台詞がたとえ外国語でもなんとなく理解は出来る。そういう強みはある。
私は小説を読んでいるときのドキドキ感も好きだけど。
「それで美咲さん、お願いがあるのですが」
「なんですか?」
「わたくしにこれをやってみてほしいのです」
袖野先生が開いたページを指差して私に見せる。
――男子高校生が、おそらく主人公であろう女子高生に壁ドンしている図。
「……先生に、壁ドンをしろ、と……?」
「あ、これ、壁ドンというのですか」
先生、壁ドン、知らないんだ……。
「この、壁ドン? というのをして女の子がドキドキしているようなので、わたくしもされてみたら感覚を共有できるのかな、と」
「私みたいな女にされても何も感じないと思いますけど……」
袖野先生は好奇心が強いというか、おしとやかなイメージとは違い、いろんなことに挑戦したがる。まあ、
先生が壁に背中をつけて、私を迎える準備万端、といった様子だ。
「美咲さん、どうぞ」
「あ、はい……」
言われるがまま、先生にゆっくりと歩み寄り、その顔のすぐ横に手をついて、ぐっと顔を近づける。
……先生、肌白い。まつ毛長い。鼻筋も通っているし、本当に美人だな……。
こっちがドキドキする。その闇色の瞳を見つめていると、なんだかくらくらしてきた。
「い、いかがですか、先生」
「……うーん、やっぱり何も思うところはありませんね」
「そうですか……」
……なんか、こっちがドキドキして損したような気分になる。
いや、別に、別に先生に私にドキドキしてほしかったとか思ってないけど。思ってないし。
「やっぱりわたくし、不感症なのかしら?」
「不感症って、そういう意味じゃないと思いますけど……」
頬に手を当て、小首をかしげる先生に、ツッコむのが精一杯である。
「では美咲さん、交代しましょう」
「はい?」
「今度は美咲さんにわたくしが壁ドンします。美咲さんが感じたこと、思ったことをわたくしに伝えてください」
「え、えええ……?」
私は困惑する。
しかし、ゆっくりと歩み寄ってくる先生に
先生の白く細い手が、私の顔のすぐ真横に当てられる。吐息がかかりそうなほど、先生の美しい顔が近づいてくる。
さらに、先生は私の顎にもう片方の手を添えてクイッと持ち上げる。いわゆる『顎クイ』だ。
せ、先生、いつの間にそんなテクニックを!?
と思う間もなく、耳元で「俺の女になれよ……」とウィスパーボイスで囁かれる。
ひいぃ! もうダメ、耐えられない! 袖野先生の貴重な一人称「俺」!
「――こんな感じでしょうか……? いかがでした、美咲さん?」
「心臓が何個あっても足りないです……」
激しい運動をしたわけでもないのに、私はゼエゼエと息を切らしている。
「心臓が何個あっても足りない、と」
先生は呑気にスマホにタッチペンでメモしている。っていうかそのメモ、必要……?
「そういえば先生、過去作で壁ドンっぽい描写はしてましたよね?」
「さすが美咲さん、わたくしの作品はすべてチェックしているとおっしゃっておりましたものね」
袖野先生は嬉しそうな顔をしていて、私もちょっと嬉しい。
「わたくしは当時、『壁ドン』という名称は知らなかったのですが、たしかにそういうふうな描写はしたことがあります」
「なら、改めて試してみる必要はなかったのでは……?」
「以前もお話しましたが、わたくしの作品にはリアリティが足りないと前々から感じております」
袖野先生は真面目な表情で私を見据える。
「わたくしは、壁ドンされたときの気持ちを『想像』することはできます。しかし、その『実感』はない。ですから、わたくしには壁ドンは書けても、その感情を実際には感じ取ることが出来ないのです」
――袖野白雪は、恋愛を理解できない恋愛小説家である。
彼女には、恋愛感情が解らない。
「だから、恋愛感情を実感することが出来る美咲さんが頼りなんです。美咲さんは、私の頼れる担当編集者さんで、大切なパートナーですから」
「袖野先生……」
先生に、心の底から信頼されているのが伝わってきて、私は胸が温かくなるのを感じた。
「それで、返事はいかがですか?」
「返事?」
「『俺の女になれよ』と申しましたでしょう?」
袖野先生はいたずらっぽく微笑む。私は顔に熱が集まるのを感じた。
「なりませんよっ! からかわないでください!」
「あら、からかったつもりはなかったのですけれど」
「だーかーらー! そういう思わせぶりな態度、やめてください!」
「ふふ」
私がムキになって否定しても、先生は余裕ぶった笑みを返すばかりである。
……正直に言ってしまうと、私には現在恋人はいない。だから袖野先生と付き合っても誰も困らない。いや出版社的にどうなんだろうとは思うが。
しかし、私は異性愛者だ。そのはずなのだ。だから先生とそういう関係には至れない。
……いや、でもそれならなんで、こんなにドキドキしてるんだろう。もしかして私、バイセクシャルだった……?
私の心はすっかり揺さぶられてしまった。
でも、仮に付き合ったところで、相手は恋愛感情が理解できない女である。私一人だけがドキドキしっぱなしというのも悲しくないか……?
私は複雑な心境を抱えながら、スマホにメモをとる袖野先生を見つめることしか出来なかった。
〈続く〉
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