第370話 大悪魔バアル

「戦闘訓練なんて演習授業以外じゃあんまやらねーからな。なんかちょっとだけテンション上がってきたぜ」


 そう言って肩をグルグルと回すヒルデ。思えば俺と彼女は同じ魔法哲学研究会に所属していながら、こうやって模擬戦をやったことが今までなかった。

 皇帝杯の時にヒルデの戦いっぷりを見ているので、気が抜けない相手だというのはよく知っている。きっと適度に鬱屈した気分を晴らしてくれることだろう。

 ……それにどうせならこの際、ヒルデが大悪魔アークデーモンを憑依させる時のプロセスに注目してみるというのも良いだろう。そもそもの話、ヒルデが魔人と比較的性質の近い悪魔と契約しているから、俺は今回彼女をこの極秘プロジェクトに勧誘したのだ。この模擬戦がその本来の目的に適うのであれば、気分転換どころか研究の一環にすらなるわけで。

 よしんば何もわからなくとも、それはそれで構わない。何事においてもリフレッシュは必要だ。


「では審判はぼくが務めるよ」


 学問だけでなく戦闘にも一家言あるレベッカさんが右手を挙げて宣言する。心なしか彼女も少し楽しそうだ。その隣ではマリーさんが腕を組んで、ヒルデの一挙手一投足を見逃すまいと待機している。よく見たら目のあたりに魔力を集中させているみたいだ。俺の使う視力拡張魔法とは少し原理が異なるエルフ族に特有の視力強化魔法だが、それを使うくらいマリーさんはこの模擬戦に関心を示しているらしい。

 逆に言えば、それだけヒルデの大悪魔は珍しい存在なのだ。負の魔力を持った精霊の亜種。魔王とはまた違うルーツを持ちながら、太古より人類とは相容れない筈の存在であった悪魔。それが今、目の前の小柄で少しがさつな少女に何故かその力を分け与えている。俺とマリーさんは、その理由と仕組みが知りたい。


「いくぜ、大悪魔アークデーモンッ!」


 ヒルデが魔力を練り上げ、精霊召喚系の魔法陣を展開した。その魔力の高まりに比例するように辺りが薄暗く変化していく。特魔師団皇都駐屯地の敷地上空だけに黒い雲が現れ、その雲が渦を巻いて紫色の稲妻を光らせる。駐屯地の空気が冷たく、湿った、重いものへと変化してゆく。


「《————ほう、『昇華』した人間がいるとはな》」


 ヒルデの隣に顕現したのは、実体を持たない魔力生命体としての大悪魔。「バアル」という名のその悪魔は、俺を見るなりそう呟く。


「なあ、バアルのおっさん。こいつのこと、覚えてるか?」

「《そう言うということはどこかで会っているわけか。しかし『昇華』した人間に心当たりなど……いや、待て。以前あの闘技の催しの時に近しい波長の魔力を持った人間がいたのを覚えている。人間とは思えぬ膨大な魔力量であったから覚えておるぞ。……そうか、貴様があの時の人間か》」

「俺のこと、覚えてたんだな」


 てっきり人間なんぞに興味はないと思い込んでいたから、ヒルデ以外の一個体のことなんて記憶の隅にも覚えていないとばかり思っていたが。

 バアルはその凶悪な顔を歪めて俺に問いかける。どうやらそれで笑っているらしい。


「《人間。貴様の名は何という》」

「俺か? 俺はエー……」

「よせッ!」


 と、そこでマリーさんの静止が入る。


「マ」

「口を開くでないぞ! ……大悪魔よ。貴様、今こやつを乗っ取ろうとしたな?」


 腹の底から出た冷え切った声でそう言いながら、バアルを睨みつけるマリーさん。……危なかった。今の一瞬のやり取りでそんな駆け引きが行われていたとは。マリーさんの静止がなかったら少し危なかったかもしれない。


「《がはははッ! ……よく気が付いたものだ》」

「食えない奴めが。……おい、覚えておけ。悪魔に名を訊ねられた時、もし自分から召喚していないのであれば決して答えてはならんぞ。その儀式が正式な契約でない場合には、悪魔に意識を乗っ取られることがあるのじゃ」

「そ、そうなんだ。覚えておくよ。……ありがとう、助かった」


 互いの名前を呼ばないように注意しながら、やり取りを交わす俺達。やはり悪魔は悪魔なのだ。根本的に人間とは相容れない存在である。異常なのはそんなのと真っ当に契約できているヒルデであって、今回みたいなのが普通の悪魔としての行動なのだ。


「のう、近う寄れ」

「うん」


 マリーさんに呼ばれて近くまで寄ると、彼女は俺の手を取ってから何事かを呟きだす。次の瞬間、目を開けていられないほどの閃光とともに空気中に描かれる魔法陣。

 これは————光属性か? それもイリスのような例外的な攻撃系統のものではなく、ごくごくオーソドックスな浄化作用のある神聖系統だ。

 やがてその魔法陣は俺の全身を包み込んで、そのまま吸い込まれて消えてゆく。あとには何も残っていない。

 そこでマリーさんは目を開けて、ふっと微笑んで告げた。


「よし、これでもう大丈夫じゃ」

「……今のは何をしたの?」

「お主の魔力をもとに自動で発動する、悪魔からの一方的な精神干渉を遮断するプロテクト魔法を掛けた。これで名前を問われても特に気にすることなく返答ができるようになる」

「そうなんだ。ありがとう」

「ついでに妾にも同じ魔法を今掛けたからの。もう気にせんでよいぞ、エーベルハルト」

「……やっぱりマリーさんは凄いや」

「これでも一応はお主の師匠じゃからの。弟子を守るのも師匠の役目じゃ」


 俺はバアルのほうに向き直ると、不敵な笑みを浮かべて啖呵を切る。


「やってくれたな。どう落とし前をつけてやろうか?」

「《大袈裟に言う。……どうせ貴様をどうこうしようとしても、結局は弾かれておったろうが》」

「……そうなの?」


 マリーさんを振り返ると、彼女はこくんと小さく頷いてから教えてくれる。


「お主の魔力量なら、素の状態でも奴の精神汚染くらいは弾き返せたじゃろうな。……多分」

「多分って」

「まあ、何事にも用心あって然るべきじゃ。万一お主が乗っ取られて暴れられでもしたら、それこそ魔王の復活を待つことなく世界の破滅じゃぞ」


 そこまで言うか。そう思って周りを見回してみれば、ヒルデ、レベッカさんが激しく頷いてマリーさんの発言に同意していた。

 そうかなぁ……。いや、そうなのか? 実際、今の俺は『昇華』して、単純な戦闘力だけならかつての自分を遥かに上回っているわけで。それこそマリーさんやジェットと戦ったって、苦戦はするにしてもまず負けることはないだろうくらいには強くなっているのだ。

 それを思えば、なるほど。確かに世界を敵に回してもなんとかなるくらいの強さは既に持っているのかもしれなかった。まあ、そんなことはまずしないけどな。


「なんか、うちのおっさんが悪かったな」


 申し訳なさそうに謝るヒルデ。殊勝な態度の彼女なんて、初めて見たな。


「まあ、気にしなくていいよ。これも結果的には学びになったわけだし」


 対悪魔戦闘における注意点を、身を以て体験できただけでも充分に収穫だ。


「じゃあ早速、模擬戦開始でいいかな?」


 空気を読んでこれまで黙っていたレベッカさんがそう言って試合を仕切り直す。


「大丈夫だよ」

「ああ、アタシもいつでもいけるぜ」

「では……試合、開始!」


 こうしてひと悶着あったものの、俺とヒルデの気分転換を兼ねた模擬戦がスタートした。









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