第290話 大切な話
次の日の朝。俺は皇都の表通りを全力疾走していた。もちろん通行人に怪我を負わせるわけにはいかないので『纏衣』や【衝撃】は使ってはいないが、軍や実家で鍛えた体力と脚力を目一杯に振り絞って俺はイリスの家へと走っていた。
イリスの借りている部屋は特魔師団駐屯地のすぐ近くにある。駐屯地は皇都外縁部に位置しているので、魔法学院や貴族街のある中央地区からはそれなりに距離がある。普通に歩けば相当な時間が掛かるだろう。
だが、そんなことは俺には関係なかった。俺には待っている人がいるのだ。結局、何を話そうか悩んだ挙句、何も思いつきはしなかった。けどそんなことはもういいのだ。俺は俺のありのままの気持ちを、包み隠すことなくそのままぶつけるだけだ。
「イリス!」
皇都の夏はそれなりに暑い。南都マルスバーグほどではないが、しっかりと太陽は地面を焼きにきている。湿度がそれほど高くはないので、蒸し焼きにならないのが唯一の救いだ。
そうこうしている内にようやく俺は駐屯地の近くに辿り着く。着いてから『飛翼』を使えばよかったことに気がついたが、そんなことすらすっかり忘れるくらいに焦っていたんだな。
「イリスの家は……こっちか」
特魔師団の給料はかなり良いので、イリスが借りている部屋もそれなりに立派なところになる。表通りに面した三階建てのお洒落な集合住宅の階段を上り、三階の一番奥の部屋のドアノブをノックする。
「イリス! 起きてるか。俺だよ、エーベルハルトだ」
ややあって、眠そうな顔をしたイリスが中から出てきた。突然の俺の来訪に驚いているらしく、ややボサついた髪を直しもしないで目を真ん丸にしている。
「ハルト、どうしたの?」
「おはよう。今いいかな」
「うん。入って」
突然連絡も無しに押しかけてきて悪く思うが、今更そんなことを気にする間柄でもない。イリスも別に朝早くの来訪を嫌がっている様子はないので、素直に上がらせてもらうことにする。
「ちょっと散らかってるけど、座って待っていて」
「おう」
散らかってるという割にはなかなか綺麗に整理整頓されているみたいだが、異性を部屋に招くと思ったら確かにもう少し掃除したいような気もする。イリス的には俺を部屋に入れるというのは、どういう気持ちなんだろうか。今更何も思うことはないのか? それともやっぱり俺を意識して少しは緊張しているのか?
そのイリスはというと、洗面所で髪を直しているみたいで今ここにはいない。仕方がないので窓の外の三階からの景色を眺めながら待つことにする。
「お待たせ」
「いや、こっちこそ突然で悪い」
「ううん、平気」
どことなくおめかしした様子のイリスがそう言う。服も着替えてきたらしく、さっきまでの地味な部屋着から、大人しめな雰囲気の中に少しだけ華やかなワンポイントデザインがあしらわれた服に変わっている。
「朝ご飯はもう済ませた?」
「……いや、まだ食べてないや」
イリスがそう訊ねてきたことで、そういえば朝を抜いてきてしまったなと思い返す俺。どれだけ焦ってるんだ。
「じゃあ二人分作っちゃうね。食べる?」
「ああ、ありがたくいただくよ」
そう言ってキッチンに向かって朝ご飯の支度を始めるイリスは、どことなく楽しそうだ。エプロンを着けて鼻歌を歌いながら、加熱用の魔道具にフライパンを乗せてベーコンエッグのような料理を作っている。ただ待っているのも暇なので、紅茶でも淹れるとしようか。
「イリス、ティーカップ借りるよ」
「うん。これ使って」
真っ白なティーカップを二つ取って、そこに俺の好きな銘柄の紅茶を注ぐ。先にお湯を注いでカップを温めることまでは流石にしないが、渋みが出ないように気をつけつつしっかりと成分を抽出したので味は問題ない筈だ。
「できた」
「おお、ありがとう」
イリスお手製の料理を食べるのは随分と久しぶりだな。前の任務の時に食べたのが最後だから、かれこれ二ヶ月くらいは食べてないのか。
ベーコンエッグに丸パンとスープの、ごく普通のありふれた朝食。だがイリスはなんだかとても楽しそうに見えた。……まあ、相変わらず表情筋が死んでいるからほぼ無表情ではあるんだが。
「「自然に感謝を」」
皇国式の祈りを済ませてから、朝食をいただく俺とイリス。何気ない普通の朝のワンシーンだが、こうしてみるとなんとなく新婚っぽい感じがするな。
テレビなんてものはこの世界には存在しないので、週に二回の新聞を眺めながら朝食を食べ、時折談笑し、ふとお互いの目が合うと笑い合ったり。そんな風に楽しい朝食を済ませた俺達は、二人で皿を洗い、机を拭いて、そしてソファに並んで腰掛ける。
「それで、今日はどうしてうちに来たの?」
イリスの家に来たのはこれが初めてではないが、基本的にはイリスがうちに来ることのほうが多い。俺がわざわざイリスの家にアポイントメントすらも取らずにやってきたことには、何らかの理由があると予想していたみたいだ。
「イリス。大切な話があるんだ」
「うん」
俺はイリスに向き合って、彼女の両手を握り、目を見て大きく深呼吸をした。イリスのその澄んだサファイアのような青い綺麗な瞳が、真っ直ぐ俺を見つめ返している。心臓がバクバクと音を立てているのがよくわかる。喉が渇いて、まるで舌が焼き付いてしまったみたいに口がうまく開いてくれない。
……ああ、ここまで緊張するのは久しぶりだな。皇帝陛下の前にいた時ですらここまで緊張はしなかった。絶対に大丈夫だという確信はあっても、リリーやメイと違って直接的に伝えたことがなかった分、「もしかしたら」という不安が頭をよぎる。
さっきまで走っていた時には流れていなかった汗が、今更ながらに背中を伝うのを感じる。
「イリス」
「何?」
「俺は……」
「うん」
イリスの柔らかい両手をギュッと握り締めて、俺は言った。
「イリス、お前が好きだ」
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