そしてとうとう……
魔界の雨季は、熱帯のスコールのような大雨になるわけではないようだ。しかし、毎日のようにしとしとと弱い雨が降り続いて、何ともうざったい。大雨ならいっそのこと室内にこもってしまう気持ちにもなるのだが、こういつもいつも微妙な天気だと、外に出たい気持ちが湧き起こってきていけない。
そして、本日も当然のように雨模様だ。空を覆う雲はそこまで濁ってはいないのだが、切れ間は一切見当たらず、太陽を拝めるのはこの先いつになることやらといった感じだ。雨音は聞こえてこないが、外は霧のような雨が空気中に浮いている。
「で、本当にやるのか?」
「やる。明日からも雨続きだ。早いうちにやっておかないと、野菜がダメになる」
こんな天気だと言うのにしかし、リーリは朝から張り切っていた。なんでも、ここ半年近くずっと世話をしてきた初夏の野菜が収穫期に入ったのだそうだ。具体的にはキュウリとかキャベツとか。手塩にかけて育てた野菜がダメになってしまうのは我慢が出来ないらしく、天候が完全に崩れ切る前に収穫する気なのだ。確かに、今日の雨足は比較的弱い。これならギリギリ外での作業も可能だろう。
「なら私も手伝おう。昔隣家の爺さんがキュウリを育てていた。戦力になって見せよう」
「一応は客人であり騎士である貴様の手を借りるのは気が進まないが、そうだな。頼もうか」
意外と農作業好きな団長も収穫を手伝うらしい。
「すみません、私は他のお仕事があるので……」
そんな二人を見たパトリシアが申し訳なさそうに目を伏せた。まあ、メイド二人が農作業をしてしまうと他の仕事が出来なくなってしまうので仕方ない。だからそんな顔をする必要はないのだが、オレの可愛くて優しいパトリシアは小さくなる。とは言え、皆彼女には仕事があるのは分かっているので、責めるようなことは言わない。そして、
「す、すみません。私はちょっと……ごほっ」
少し赤い頬をマスクで隠しているリュカが、咳まじりに謝った。どうやら風邪をひいてしまったらしく、今朝から調子が悪そうなのだ。そんな状態のリュカを雨の中外に出すわけにはいかないので、当然部屋で安静にしていてもらう。彼女のお世話もパトリシアに任せる。
「なら、うちは濡れ鼠になって働きよる皆を応援しながらお酒飲むわ」
『……』
明らかにおちょくってきているアヤさんは、皆から無視される。どうやら彼女、今日は全員が忙しくて遊んでもらえないのが不満らしく、ちょっとつまらなそうなのだ。
なら、この悪戯好きなお姉さんのお相手はオレがすれば良いと思うかもしれないが、女性二人が雨の中外で働いていると言うのに室内で遊んでいられるような精神は持ち合わせていない。オレも簡単な作業を手伝うことになっていた。本来ならキュウリの収穫は早朝が望ましいらしいのだが、今朝は気温も低いので構わないのだそうだ。
と言うわけで、今日は一日農作業である。初めての体験なので、ちょっと楽しみだったりする。
「リーリ、そっちに行ったぞ!」
「任せろ! せいっ!」
リーリはハルバードを、団長は長剣を握って、現在激しい戦闘の真っ最中だった。二人はよく健闘しているが、多勢に無勢。徐々に押され始めていた。そんな様子を、オレは屋敷のひさしの下に作られたベンチに座って眺めていた。
「……あのさぁ。何してんの?」
「なにって! 野菜の! 収穫だ!」
「こらダーリン! 農地に入ってくるな!」
野菜の収穫を始めて約三十分。二人はすでに五十を超える敵を倒していた。ハルバードが突き、長剣が両断する。手に汗握る一進一退の攻防である。
「くそ、ラチがあかないな。少し休憩しよう」
「そうだな」
そう言って、リーリと団長は農地から出た。雨と汗で濡れた頭を、オレが渡したタオルで拭う。
「もう一回聞くぞ。これは何だ?」
「だから野菜の収穫だ」
「オレはさ、何でカカシと闘ってるのかって聞いてんの!」
野菜の収穫だと聞かされていて、軍手やらハサミやらを準備してきたのに、いざ始まってみれば、二人はずっとカカシと戦っているのである。
「そうか、ダーリンは知らないのか。良いか? 農作物には色々と天敵がいる。天候、病気、害獣。天候は細かに農地を見に行くことである程度対策できる。病気も同様だ。だが、害獣が難しい。毎日寝ずの番をするわけにもいかないだろう? だからカカシをたてるのだ」
「知っとるわ」
懇切丁寧に説明されなくてもそんなことくらいわかる。
「ここで言う害獣には、低級魔族も含まれる。奴らに普通のカカシなど効果 はない。だからきちんとした戦闘力を持つカカシ、
どうやらこの
「農作物に手を出そうとする者全てを害獣認定する。だから、我々収穫者にも攻撃してくるのだ」
「バカなのか?」
しかも、農地に侵入した者の戦闘力に合わせて強化されるため、ほとんどの場合が互角の激戦になってしまう。あとは根気と体力の勝負。
そして、侵入者の戦闘力に合わせて強化されるというのがミソで、オレが農地に入るとどこまでカカシが強くなるのか計算出来ないため、オレは見学を余儀なくされていた。
「な? なかなかウケるやろ?」
「いや、どちらかと言うとしょっぱいものを見ている感覚だ」
オレの隣に座るアヤさんは、奮戦する二人を肴に酒をあおっている。二リットルくらいの瓶の中に巨大なトカゲを漬けた酒で、オレもすすめられたのたが、どうにも飲む気がしなくて断った。だって液体が濁った緑色なんだぞ。カテゴリー的にはもはや毒だ。
「ま、やから一番簡単なんは、一回全部のカカシを出しておいて、遠距離からズバッとやるんよ。おーい。うちがやったろか?」
「いい! 私が育てた野菜だ。私が収穫する!」
「同意だな。植えて、育てて、収穫し、食べてまた植える。それこそが農業だ」
どうやらアヤさんなら簡単に収穫出来るらしいのだが、二人が妙なプライドを発揮して今に至る。
「んふっ。リューシちゃあん。お姉さんと遊ぼや?」
「遊ばないよ」
まだ二口目だと言うのに、アヤさんはもう酔っ払ったようだ。その豊満な胸を押し付けながら、オレの肩にしなだれかかってくる。恥ずかしいのでそれを左手で強引に引き剥がした。しかし、一度ふっと脱力したアヤさんは綺麗にオレの力を外し、膝の上に寝転ぶ。今の格闘技的には物凄く上級技なのだが、たまたまなのか狙っていたのか。
「ふふ。ここはうちの特等席」
「違う」
「えぇ、冷たいわぁ。良えやん。ちょうだいよ」
「こらそこ! 真剣勝負の端っこでイチャつくな!」
怒ったリーリがカカシを投げつけてくるが、アヤさんは片手をかざしただけでそれを木っ端微塵にした。いや、多分だけどこれもかなりの高等魔法だよな。本当にこの人は計り知れない。
そんなことを考えいると、オレの膝を枕にするアヤさんが、くぅくぅと微かな寝息を立てて眠り始めてしまった。この人は酒好きのくせに酒に弱い。今日はからみ酒でなかった分ありがたいが、こんなところで寝られてしまっては困る。一応ひさしがあるとは言え、風にのって雨粒が吹き込んできている。リュカのように風邪を引かれてもいけない。アヤさんをベッドに運ぼうと抱えあげたその時、
「っ!!」
「え?」
突然アヤさんが覚醒した。バッと跳ね起きてオレの手から離れると、遠い空の彼方を見つめる。セピア色の瞳は真剣そのもので、いつも余裕しゃくしゃくなこの人のこんな表情を初めて見た。
「……なんか来るな」
「ど、どうしたんだよ」
戸惑いながら聞くが、答えてはくれない。状況がよくわからなくて困っていると、なんと、団長もアヤさんと同じ方向を見ていた。オレもそちらを見てみるが、灰色の雲があるだけで何もおかしな点はない。
「リーリちゃん。ちょっと収穫中止や。凄いんが来るよ」
「待て。何のことだ」
「これは……いや、まさか……」
団長とアヤさんは通じ合っているようだが、オレとリーリはとんとわからない。しかしその時、屋敷の玄関の方向から強力な魔力を感じた。これは、これだけは分かる。転移魔法だ。
流石にリーリも感知したようで、顔を強張らせて硬直する。それほどまでに巨大な魔力なのだ。アヤさんはその白い羽をはばたかせて飛び上がると、一直線に玄関先に向かい、団長も何も言わずに駆け出した。一歩遅れて、オレとリーリも二人につられて走る。何が何だかまるでわからないが、とにかく面倒が起こったことだけはわかる。
農地から玄関先までは屋敷をまるまる半周しなくてはならない。ジョギングでも軽く息が上がる距離だ。それを全力疾走したのだから、雨に混ざって汗が流れる。最後のカーブを曲がると、先に玄関先に到着した団長とアヤさんが同じ方向を見て固まっているのが見えた。この大人二人が少しでも動揺を見せるなんて考えたこともないが、それが今現実に起きている。やっと追いついたオレが息も整わないまま二人の背中越しに玄関を見ると、そこには、
「あ。これはこれは江戸川殿。ティナたそ。お久しぶりでござる」
赤いリュックを背中に担いだ牧村が、無邪気な、安心したような笑顔で手を振っていた。半ズボンにティーシャツというほとんど部屋着のままで立つその少女の突然の来訪に、この場の誰一人として言葉を発することが出来なかった。
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