第12話 晦の日は光がなくて心細い2

 翌朝。母は何事もなかったように朝の支度をし出掛けていく。零はまだ眠り足りない瞼を手でこすりながら返事する。


「母さん、いってらっしゃい」


 天使となっても相変わらず朝に弱い。顔を洗っても、朝食を食べ終わっても、眠りから醒め切らない意識に負けて再びベッドに横たわる。


――――――


 再び零が目を覚ましたのは昼過ぎ、午後三時であった。不規則な生活をした代償により、学校を休むことになってしまったが、その代わり体調はいつも通りに調整されていた。そうと分かれば急いで外を出て鍛錬場に向かう。


 昨日の冷たく怖いものしか連想できない夜空は、打って変わって暖かい日差しが爛々と照らされ、小鳥のさえずりが、春を祝福しているようだった。陽の暖かみは、身体に生きる活力を与える。零は、三十分ほどかかっていた道のりを十分ほどで辿り付いた。


「神島さんっ、おはようございます」


 引き戸を開けて元気に声を出す。しかし、零を迎える返事はない。


「おかしいな。お邪魔します」


 勝手に入り込むあたり、手慣れた常習犯と言われても過言ではないが丁寧に挨拶をする変わった不法侵入者でもある。鍛錬という口実で何度も侵入を繰り返していた零は、屋敷の住居者がいると思われる部屋や道場に顔を見せるが、女性の姿はない。ならと至る所にある唐紙障子に手をかけた。


(相変わらず広いな。こんなところで一人、寂しくないのかな?)


 これで何枚の襖を開けたことになるのだろう。きっと、こんなに開けたのは自分だけだろうと思いつつ、一番奥の襖障子を開けた。畳のいい匂いとともに八畳の和室にあったのは、ふかふか布団。何の絵柄もない純白の布団だからこそ、長い黒髪が一際目立つ。神島さんは、ほんわかした顔でスヤスヤと眠っていた。普段隙を見せない彼女が見せる無防備な姿が、微笑ましく思えてきて、布団の中に入ろうと試みる。すると寝ぼけているのか入ろうとした脚を彼女の手が掴んできた。


「可愛い」


 ふと声が出てしまった。息を殺してそのままうつ伏せの状態で中に入ろうとしたが、何故か今度は手が拒んだように零の脚を押し返した。


「あっ」


 振り返ると神島さんは目を覚ましていた。目線があった彼女は、目検に皺をよせ険しい目つきになっていて、黒い瞳には殺意がある。


「貴方、何しているの?」

「いや気持ちよさそうに寝てるから添い寝しようかと」

「っ、何を、考えているのっ。早く出なさい!」

「す、すみません」

「はあー、もういいわ。早速、捜索に取り掛かるわよ」


 布団から出てきた浴衣姿の神島さんは、女の自分から見ても色っぽい。袴に着替え終わると、二人は再び昨日の現場に向かった。


 ――時刻は午後四時。昨日は暗くてよく見えなかった現場を確認してみるが、とりわけ何か手掛かりになるものはなかった。


「何もないですね」

「けれど昨日、確かにここで何かがあったわ。男の叫び声がして私たちが隣の林道に来るまでおよそ十秒間。その十秒間で、辺りに異変はあったかしら?」


 零は、顎に手を当て考える。


「うーん、異変といえば私が血に気づいたのは月の光で、叫び声がした時、月光は雲で隠れていました」

「月光……そうだわ! 何故気づかなかったのかしら。どの被害者も月明りがない時に襲われている。敵の異能術は、おそらく月光を利用しているんだわ」


――――――


 それにしても今日はいつにも増して日が沈むのが速い。五時前だというのに、陽は完全に沈み、夜の時間が幕を開ける。今日も雲に覆われていて、まだこの時間帯なのにこの辺りはやけに暗い。やはり、夜において頼りになるのは、月の光であると改めて思う。


「零。警戒して。昨日と同じ状況だわ。今日も、この林道を通りがかる人に気を配りましょう。この林道は堕人にとって好条件だわ」

「はいっ」


 彼女の言う通り、この場所は堕人にとって好都合な条件が揃っている。街灯の光もなければ月の光も当てにならない。人通りが少ない故、一人の人間を標的しやすく、助けを求めても誰にも気づかれない。そして、様子を伺い、身を潜められる直立した林。零は、向こうからこちらに向かってくる和服の女性に焦点を向ける。するとその瞬間、周りが何もかも見えなくなった。


「なっ!?」


 零が戸惑いを見せる中、神島は光が闇に変わる境目を見逃さなかった。瞬時に剱を具現化させ、通りすがりの女性に向けて、勢いよく剱を投げつけたのだ。数秒後、辺りを染めた漆黒は、月光とともに明るさを取り戻し、視界に像が映るようになった。幸い零の視界には、怯えながら座り込んだ女性がいた。


「零、彼女を安全な場所へ」


 そう言われ女性を市街地へ見届け終わると、師の元へと戻る。


「神島さん、大丈夫ですか?」


 上空を見上げている神島が口を開く。


「やっぱり奴の異能術は月光と連動しているわ。今からそいつを『雲隠れの堕人』と命名する。もう逃がしはしない。今日、此処で決着をつけるわよ」


 神島の掛け声に頷く。だが、その意気込みは、この空間を支配するもう一体の生命体にも行き届いたのだろう。盗み聞きした堕人は、異能術を見抜かれたことに腹が立ったのか、それとも獲物を捕らえられなかったことに苛立ったのか、月光を悪用する異能術を仕掛けてきた。


 月の灯火が雲で閉ざされるたびに、視界を奪う現象も連動して起こり始める。


 黒、光、黒、光、黒―――光―――黒、光―――黒、光、黒――――――。


 月が雲に隠れるたびに、その現象は起こる。


「零、剱を構えて。私たちが狙われているわ」


 暗闇から彼女の声を聞き取る。神島さんから離れていたこともあって何処にいるのか距離感が掴めない。


「でも姿が見えませんっ。神島さん、何処ですか?」


 暗闇の中で何処から出てくるか分からない緊張感と不安感。視界を失う圧倒的なまでの黒さは、五感の一つである視覚を失ったのに等しい。


「私のことは気にせず、自分のことに意識を集中させなさい。今は他人に気を配る必要なんてないわ」


(そうだ、集中しろ。見えないなら他で補え。匂いと音、体に伝わる微かな風の動きを頼りに見抜くんだ)


 全、集中を他の感覚に研ぎ澄ませる。


 匂い―――(充満した土の匂いの中に鉄の錆びついた匂いが強まる感じがする)


 音―――(シューシュー隙間風のような音がする)


 そして―――(風の吹く方向が変わった?)


 失った感覚を別の感覚で必死に補った零は、何かを感じ取った。


「そこだっ」


 風を纏った堕人による右後方からの鋭い攻撃を間一髪躱した。


(危なかったっ。風月さんが言ってたとおり針のように鋭い攻撃!)

「ちっ」


 少年っぽい若い舌打ちが耳を通り過ぎた。そこで視界が明るくなる。


「零、無事?」

「平気です。けれど暗闇からの攻撃はかなり厄介です。このまま攻撃を躱しながら敵を討つのは難しいです。何か打開策を考えないと」

「そうね、何か。――――――ちっ。月が隠れるわ。気を引き締めて」


 考える暇もなく深海のように底を知らない真っ黒いもので、夜空は汚染される。


(くっ、相変わらず暗い。全然、目が暗さに慣れてくれない。まるで本当に目が見えなくなったみたいに暗示をかけられているみたいだ―――くるっ!)


 それでも敵の全方位の攻撃を躱しきる。こちらも守りに入るわけにはいかないと、躱しながら反撃を仕掛ける。が、剱の切っ先が敵を捕らえる感覚はない。同時にあったはずの敵の感覚が逃げていく。


「神島さん! 向こうに行きました!」


 嫌気がさしたのか雲隠れの堕人は神島に焦点を変える。対して、神島は堕人に対して剱術を仕掛ける。


「一刀剱術 唸り風っ!」


 風を纏わりつけた剱を地面に叩きつけ、太刀風を多方面に派生させる。


―――ピシッ、ピシュッ―――。


 紅い体液が勢いよく外へ飛び出す音が聞こえた。傷をつけられた堕人は、たまらず闇に身を潜め自問自答する。


「くそっ」


(僕に、掠り傷を付けたな。なぜだっ。どうして見えないのに、こんなにも冷静でいられるんだ。こんなんじゃ、僕が弱いみたいじゃないかっ)


 雲隠れの堕人は、遭遇した二体の天使と過去の自分を比べていた。


(身体だけでなく心でも劣等感を感じるなんて、与える側は僕の方なのにっ)


 少年は、悔しさからぎりっと唇を噛んだ。その悔しさは、本当の暗さに勝てなかった、人間の頃の自分にも向けられていた。

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