p.75 証
いくつもの裂傷を負った体は少しの振動にも敏感に反応を示す。浅い傷はたいしたことないのだが、深い傷──特に最初に与えられた左脹脛は歩くだけでも随分と痛む。皮膚の表面ではなく、もっと深い内側まで自然の爪はくい込んでいたようで、ルーシャは片足を庇うように歩く。
治癒系統の魔法術はある程度使えるが、それでも魔法術師が外傷に使えるのは軽い止血や表皮の傷の修復、軽度の痛み止め、傷口の殺菌、一時的な骨の再建といったものでしかない。もっと深い傷の止血や筋肉層や神経にまで達した傷の修復、内蔵レベルでの処置は一般魔法術師にはできない。
止血と傷口の殺菌は行ったため、大量出血や傷口からの細菌感染は免れてはいるが、軽度の痛み止めでは左足に響く痛みがとれない。
(これはちょっとまずい)
周囲に気を配り、目的地をめざしながらルーシャの表情は曇る。目的地は川を挟んだ向こう岸であり、その川がどのような川幅や深さなんか、流れはどうなのか、渡れる場所があるのか分からない。水を凍らせて川を渡るなり、また同じように空中を飛んで向こう岸に着くなり何らかの対応は出来るが、無傷の時とは違いルーシャには手負いであり、痛みや傷を伴っている今は集中力や判断力に欠けやすい。
油断した結果を体の痛みで感じながらも、ルーシャはその体で川辺を目指す。幸いにもその道中には他に何かの生物に出会うこともなく、獣道をただ痛みに耐えて歩く。
そのまま十分ほど歩いたところで木々の密集が途絶え、ルーシャは目指していた川べりへとたどり着く。ほっと一息つきたいところだが、この体で試験を長時間することは避けたいため、すぐに川の確認をする。
川の流れはその水が泡立つほど速く、川の形そのものも地図とは異なり目に見える範囲でさえもあまりにも激しく蛇行を繰り返している。荒々しい流れ故にその川の底の深さも、そこにどのような生物がいるのかさえも分からない。この流れに飲まれたらあっという間に流されてしまうだろう。
(ここでこの流れなら、上流をめざしても・・・)
基本的に川は上流へ向かうほどその川幅は細くなり、その水量は少ないと思われる。下流へ向かうなかで他の流れと合わさることで水量が増え、川幅が増していく。
だが、今のルーシャの体で目指せる上流といっても大した距離は稼ぐことが出来ず、流れの変化を期待することは難しい。かと言って、下流でもう少し川幅が増したところでの流れの緩やかさを期待したいが、地図では下流にドクロマークがあり謎の瘴気を感じており積極的に向かいたくもない。
ルーシャは観念して目の前の流れに手をやる。激しい流れを掴み、そのまま神語を構成して川の水そのものを凍らす氷魔法を発動させる。幅二メートルほどの氷の橋が形成され、荒々しい流れをそのまま無理やり凍らせたため激しく波打った形が保たれている。川の流れが絶たれないよう、最低限の水量が流れるよう橋の下に穴をいくつか設ける。
「ものすごく野性味溢れてる」
自分で作っておきながら、あまりに自然な姿まま凍った川を見てルーシャは思わず笑ってしまう。不細工で渡りにくいその自然の橋に足を踏み入れ、滑り落ちないようにゆっくりと渡る。左右とも荒々しい流れが待ち受けており、生物を容易く飲み込む様相にルーシャの足がすくむ。さっさと渡ってしまおうと思うが、氷の橋を急いては足元をすくわれる。
橋の中盤までやってきたころ、ルーシャはその異変にすぐ気づく。橋を構成している神語に歪みが生じ始めた。
(やばっ!)
あまりに激しい流れは、ルーシャの創った氷の橋など容易く流す。圧倒的な水量と流れの前に、その小さな架け橋はあまりに脆く崩れていく。急いで氷の橋を渡るルーシャだったが、その抵抗は無になる。渡り着る前に荒々しい流れで橋は一瞬で崩壊し、ルーシャはなんの抵抗もなくその激流にながされる。
川の流れはその見た目通りに激しく、その荒々しい流れは容赦なくルーシャの傷ついたからだを揉みくちゃにする。傷口に川の水がしみ、さらに激しい水圧が打撃のように傷口に響く。流れのままに流され、ルーシャはなんとかもがくが人の力で何とかなるものでもない。
(っ!息が!)
痛みだけではなく、呼吸が全くできないことはあらゆる行動に繋がる。焦りと死の恐怖で頭の中が真っ白になる中、ルーシャは無我夢中で魔力を練って魔法を発動させる。川底に向けて思い切り、自身の魔力を勢いよく噴出させその力で無理やり自分の体を水面へと押しやる。咄嗟の魔法の発動であり、ルーシャは加減なく魔力の放出を行いその体は水面どころか空高くまで舞う。
「うっ・・・」
水中を脱したことで一息吸ったルーシャは、その空気に嘔吐えずく。禍々しいほどの瘴気で満ち、目眩がおきてしまいそうだった。だが、ルーシャはすぐに再び川に入らないよう最低限の風魔法で空中を移動してそのまま対岸に降り立つ。
川の激しい流れに流され、ルーシャは危険地帯と思われるドクロマークのある瘴気地帯に足を踏み入れる。空気そのものがあまりにも澱み、呼吸も出来なければ目も開けられない。瘴気はそのままルーシャの体の裂傷に入り込み、焼けるように痛む。
(なんとかしなきゃ)
息もできず、強烈な酸を浴びているかのように死ぬほど傷口が痛み、意識もろくに保てそうにない。
ルーシャはあらゆる感覚が麻痺していくなか、その空気の魔力を感じ取る。こういう時、魔力探知に優れていることに助けられる。ルーシャの魔力探知能力は抜きん出て高く、少し探知しただけで魔力の性質や神語などを容易く割り出すことが出来る。
(これならイケる!)
もやは目を開けることも出来ないが、どうやらこの辺り一体には特殊な植物があるようだった。文献で一度見た事がある、光合成の際に瘴気を生み出す植物があると。
ルーシャは怒涛の勢いでその光合成とは真逆の神語を構成し還元魔法を創り出し、それを倍数魔法で無限に増やしていく。倍数魔法は魔法術で創ったものだけではなく、神語構造そのものも増やすことが出来る便利な魔法だった。
そのまま無数に増えた還元魔法を一気に展開することで瘴気を払う。
「っふぅー!死ぬかと思った」
大きくひと息吸ったルーシャは率直な感想を述べる。少し呼吸を整え、当たりを見渡すと足元に小さな植物の群生があった。
「ごめんね、すぐ出ていくから」
その植物が光合成で瘴気を生み出すのは、その瘴気が植物にとって生きるのに必要だからに過ぎない。ルーシャは呼吸を整えその場を去る。
(でも、ちょっとこれは・・・)
歩きながら左足に激しい痛みを感じる。瘴気を一時的に払ったことでルーシャは呼吸もできるし、意識も保てるし、動くことも出来る。だが、濃い瘴気は傷口から体の中に入っており、その事実はなかったことにはならない。瘴気が傷口に入り込み、そこで何らかの反応を起こしている。
歩く度に響く傷をかかえ、ルーシャはとにかく瘴気の漂うその地を離れる。地図によれば目的地はすぐそこであり、そこにたどり着くことで試験の終わりとなることを祈る。
川を渡ってしばらくは瘴気の影響で植物はなかったが、歩くと徐々にその影響が薄くなっているのか植物が増えていく。地形が平坦であったため、激痛を伴っていたルーシャだが、なんとか歩いて進むことが出来た。一歩進むだけでも激しい痛みが伴い、どれくらい歩けば目的地にたどり着くのかも分からない。
(・・・この魔力)
だが、ルーシャには魔力探知があった。もはや癖のようになって行ってしまっているが、その魔力探知にひとつの反応がひっかかった。明らかに誰かが組みたてたであろう、精密かつ緻密に組み立てられた美しい神語が感じられる。この自然の中でそんなものがあるとしたら、それは魔力協会が用意したものであろう。
希望が、ゴールが見えたことでルーシャの活力が漲る。その魔力が感じられる方へと、少しでも早くたどり着こうと心が急ぐが体は着いてこない。希望が湧いたところで体が受けたダメージが帳消しになる訳でもないし、その痛みが魔法のように引く訳でもない。
確実に歩みを進めたルーシャの目にひとつの物が映る。
「・・・これはちょっと嬉しいかも」
それを見たルーシャの表情が和らぐ。
そのままルーシャはその魔法が施されている、その物がある場所まで歩く。魔法でひとつのものが宙に浮いて、その手に取られることをずっと待っていた。
それを手にすることが出来るのは、必要な知識と技術を身につけたものであり、何よりも魔力をその手で扱える資格のある人間だけだった。
「協会章」
魔法術師であることを証明するそれが目の前にあった。魔力協会のシンボルである、三本の柱に支えられた天秤マークが描かれ、その背景の色は魔法術師を示す青と緑で彩られている。今まで出会ってきた魔法術師たちが身につけてきた、それが手の届く範囲にある。
恐る恐る、それを手に取る。ぎゅっと握れば手のひらの中に簡単に納まってしまう大きさのそれを、ルーシャは大事そうに握る。
******
ルーシャの実技試験は協会章を手にしたことで終わりとなった。
今回の実技試験は、それぞれに用意された舞台で宝探し方式で協会章を手に入れるというものだった──というのを、ルーシャは目の前の男から聞いた。
「しばらくは痛むかもしれない」
真っ黒な髪と瞳の彼──黒騎士・リヴェール=ナイトは魔力協会の思想本部にある医務室でルーシャの手当をしていた。丁寧に傷口を洗い、薬を塗って包帯を巻いてもらいルーシャは申し訳なく思う。
「すいません・・・」
他にも医務室には怪我人がいており、ルーシャよりも重症な受験者が優先的に手当を受けていた。試験が終わり、試験管に迎えに来てもらったルーシャは医務室まで案内され手当待ちをしていた。そこへ、ひょっこり現れたリヴェール=ナイトが手が空いているからとルーシャの手当をしてくれたのだった。
「姫君からの伝言をつたえにきた」
丁寧に包帯を巻きながらリヴェール=ナイトの心地よい声がルーシャの耳に響く。
「・・・オールド姫ですか?」
突然の言葉にルーシャは身近な姫君といえばオールドしかいないため、とりあえずその名を挙げてみる。
「ああ。明日、午後十一時に翠ノ間にあなたを連れてくるようにと」
「え?」
淡々と包帯を巻き、伝言を口にするリヴェール=ナイトにルーシャは驚いたように見つめる。
「ど、どういう事です?そもそもシスターと知り合いなんですか?」
「俺はシバと懇意にしているから、その繋がりだ」
動揺するルーシャに、リヴェール=ナイトは手当てを終えて手を差し出す。
「あなたが試験に合格すると見込んで姫君は準備していたようだ」
リヴェール=ナイトの手を取りルーシャは立ち上がり、その顔を不思議そうに見つめる。
──────────
試験が終わったー!良かった、合格して。
実技試験はあの協会章を手に入れて終わりだったみたい。
そもそも筆記試験でダメだった場合、実技試験はどうなってたんだろ・・・?不合格通知でも探さなきゃならなかったのかな?
まあ、合格してたからなんでもいいけど。
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