(そのああは、どういうああなんだ)
アルミラが王の護衛騎士に任命されてから数日。ミハイルの執務室では優雅――とは到底言い切れない、緊迫した茶会が開かれていた。
仮面を被っているのでお茶にも茶菓子にも手をつけていないアルミラと、不機嫌そうに腕を組んでいるレオン。そしてそれをおろおろと見守るレイシア。
そんな三人を、ミハイルは書類片手に眺めていた。
「あの、アルミラ様……この四人でいる間は仮面を外されてもよろしいのでは?」
「レイシア嬢、私はアルミラではなく、アルだよ」
「安直な名付けだな。よくそれで気づかれないものだ」
は、とレオンが鼻で笑うとレイシアの顔が怒りの形相に変わる。
「レオン様!」
レイシアがレオンを叱るのは、この数日間だけでもすでに二十を超えている。
なぜだか――などと言うまでもないが――レオンとアルミラは顔を合わせるたびにこの調子だ。
レオンに付き添っているレイシアはそのたびに、声を荒げていた。
「それにね、私はレオン殿下に顔も見たくないと言われた身だ。彼の前で仮面を外すわけにはいかないよ」
穏やかな声色にレイシアはむっと表情でレオンを睨みつける。
「撤回なさってください。せめて私たちといる間だけでも、アルミラ様が気楽に過ごせるように――」
「どうして俺がそんなことをしなければならない」
レイシアの言葉を遮り、レオンが不機嫌に言う。そもそも、一度撤回しようとしたが聞き入れなかったのはアルミラだ。
そんな思いがあるのだろう。眉間に刻まれた皺がよりいっそう深くなっている。
「いいんだよ……私のためを思ってくれるのは嬉しいけど、レオン殿下はこのとおりだろう? 嫌々で言われても私の心には響かないよ」
「アルミラ様……」
どこか弱弱しく聞こえる声に、レイシアの瞳が潤んだ。そして潤んだ瞳をそのままレオンに向ける。
レオンはレイシアに弱い。怒られるのはもちろん、泣かれるのも嫌なのだろう。顔を険しくさせながら、レオンの視線がアルミラに向く。
「……アルミラ、仮面を外せ。俺の前に顔を晒すことを許してやろう」
「許してくださらなくても構いません」
間を置かず返ってきた拒否の言葉にレオンは舌を打った。苛々と組んでいる腕を指で叩き、うかがうようにレイシアを見る。
潤んでいた瞳は一転、怒りに染まっていた。
「だから、どうしてそういう言い方しかできないんですか!」
顔を背け、飛んでくる叱責から意識を外そうとするレオンと、それを睨みつけるレイシア。それを眺めているアルミラ。
ミハイルはそんな、あまり穏やかとはいえない光景に笑みを零す。
伸びた髪はまた短くなり、髪の色も変わっている。しかも騎士服に身を包み、対外的には男として生活している。
それでも、こうしてすぐ近くにいるというだけで嬉しくてしかたなかった。
「そういえばレイシア嬢」
アルミラが呼ぶと、レオンをじっとりと睨みつけていたのが嘘のように、明るく笑った。
「はい、なんでしょうか」
「私の兄から花を預かっているのだけど、どこに届ければいいかな?」
ぽろりとレオンの手から茶菓子が落ちる。皿の上に着地し、かたんと小さな音を立てた。
「えと……たしか、アルミラ様と似ていらっしゃる方ですよね」
「ああ、そうだよ」
「……あの、私……なにかしたのでしょうか」
疑問符が頭の上に見えそうなほどうろたえているレイシアに、アルミラはことさら優しい声で語りかける。
「どこかで見初めたのかもしれないね。レイシア嬢は可愛らしいから」
「おい、どういうことだ。どうして俺がいながらお前の兄が花を贈る」
レイシアが頬を染めて目を伏せたのを見て、レオンが慌てたように口を挟んだ。
レオンがレイシアのことを気に入っていることは、誰でも知っていることだ。レイシアは男性に好まれやすいが、レオンとのこともあり遠慮している者は多い。
そうでなくとも、レイシアのそばにはいつもレオンがいる。声をかける隙などあるはずもない。
だから、公爵家の当主であるアルミラの兄が接触を試みようとしていることに焦ったのだろう。
「進展していなさそうだからではないでしょうか。レイシア嬢にその気はなさそうですし」
「いつかは俺のものになる。その花は捨ててしまえ」
「レオン様! 人様からの貰い物を捨てろだなんて言ってはいけません!」
「ならばどうするつもりだ。俺以外からの贈り物を受け取る気か」
「それは……お気持ちは嬉しいので、そうですね」
レオンの視線が頬を染めて頷いたレイシアではなく、仮面のせいで表情がまったく読めないアルミラに向いた。
射殺さんとばかりに睨みつけられ、アルミラは肩をすくめる。
「……どういうつもりだ」
「私はただ、兄からの頼まれごとをお伝えしただけです」
「それだけではないだろう。なにを企んでいる」
「なにも企んでなどおりません」
アルミラが肩を落とすと、レイシアが擁護に回る。
毎日のように繰り返されているやり取りに、ミハイルは手に持っていた書類を机の上に置いた。
「そろそろ私も休憩するかな」
「かしこまりました。それでは陛下のお茶も用意いたします」
そう言って、アルミラがお茶の用意をはじめる。
それから二ヶ月近くが経ったある日、ミハイルはレイシアとレオンに神妙な顔を向けた。
アルミラは騎士団の訓練に駆り出されているため、今この場にいるのは三人だけだ。
穏やかに過ごしていたミハイルだったが、一つだけ、どうしても解決したい問題を抱えていた。
「……アルミラに、名前で呼んでほしい」
重々しく開かれた口から出る悩みに、レオンが眉をひそめる。
「ならばそう命じればいいだろう」
ミハイルは王で、アルミラはその護衛騎士だ。命じられれば従う義務がある。
そう進言するレオンにミハイルは首を振った。
「それでは駄目だよ。……命令で言うことを聞かせても意味がないんだ」
二人のためにお茶を注いでいたレイシアが、うーんと悩むように首を捻る。
そして名案が浮かんだとばかりに、顔を輝かせた。
「なら、お願いしてみるのはいかかでしょうか」
「お願い……聞いてくれるだろうか」
ミハイルの目が泳ぐ。
ミハイルはアルミラに「そばにいてくれるだけでいい」と言ってしまった負い目がある。それなのにお願いを増やしたら、失望されてしまわないかと不安でしかたなかった。
そばにいてくれるだけでいいと思ったのは本心だ。だが、こうして毎日そばにいてくれていると、どうしてもさらなる欲が湧いてしまう。
(……口づけるべきだったか)
アルミラに口づけを乞われたとき、ミハイルにはなにもできなかった。ただ固まって、見上げてくるアルミラを見つめていた。
そうしてしばらくして、さすがに長時間は待っていられないと判断したのか、何事もなかったように体を離し、身支度をはじめてしまった。
(もしもあのときしていたら、もしかしたら、アルミラも私をそういう対象に見続けてくれていたかもしれないのに。……私はなんてことを……)
後悔してもしきれない。あれ以降、アルミラの態度は忠実な騎士だ。
口づけをねだることはもちろん、指一本触れてこない。
(……恥をかかせたんだ、呆れられて当然だ)
女性から言わせて、それでいてなにもしなかった。失望され見限られてもしかたない所業だ。
「大丈夫ですよ! 誠心誠意お願いすれば聞いてくれます!」
「どうだかな」
「だからどうしてそういう、気を削ぐことばかり言うんですか!」
「お前らがあいつの性根を知らないからだ」
口論をはじめる二人をなだめながら、ミハイルは「お願いするだけしてみようかな」と悩んでいた。
それから二日ほど経っても、ミハイルは悩み続けていた。お願いして、聞いてもらえるかどうか。もしも聞いてもらえず、陛下と呼ばれ続けたらどうしようか、などと堂々巡りのように同じことを悩んでいる。
「最近元気がないようですが、なにかありましたか?」
アルミラに声をかけられ、ミハイルは視線をさまよわせた。
今はレオンとレイシアは散歩に出かけているため、執務室にはアルミラとミハイルの二人しかいない。
言うのならば絶好の機会である。だが、どうしたものかとこの期に及んでも悩んでいた。
そうして視線をさまよわせるだけでなにも言わないミハイルに、アルミラは小さく首を傾げた。
「……政敵がいらっしゃるのでしたら処理してまいりますが」
「違う。そういうのじゃないんだ」
アルミラの手を血で汚すわけにはいかないと、慌てて訂正する。それに今のところ政敵と呼べるような相手はいない。
アルミラの雇用には難色を示されたが、力を見せつければフェイのとき同様承認された。
最短で護衛騎士にしたのにはさすがに無理があったようで「やはりあの王の子か」と噂されてはいるが、表立って反発してきた者はいない。
ここから巻き返せるかどうかは、これからの采配にかかっている。
「それでは、騎士団の雇用問題について悩まれているのですか?」
フェイが抜けた穴は大きい。そのため、騎士を増やすべきではないかという声が上がっている。
だが騎士は貴族出の者が多く、それなりの給与が必要になる。ハロルドの治世により民の生活は向上したが、今すぐに回せるほど財源に余裕があるわけではない。
「いや、それもたしかに悩みの種ではあるけど……その、もしも、できたらでいいのだが……名前で呼んではくれないだろうか」
段々と小さくなる声と赤く染まった頬に、アルミラは「ああ」と小さく呟いた。
(そのああは、どういうああなんだ)
そんなたった一言でも、ミハイルの心は荒れてしまう。足元がおぼつかないような不安に駆られ、自然と視線が下に落ちた。
「ミハイル陛下……でよろしいでしょうか」
「あ、ああ。それでいい、大丈夫だ。ありがとう」
落ちた視線が戻り、頬が緩む。
ミハイルはアルミラに陛下としか呼ばれず、王であることしか望まれていないのではと不安になっていた。だがこうして、アルミラはこともなげに名前を呼んだ。
(……私を見てくれているような気になれる)
それは錯覚かもしれない。だが、そんな些細なことにまでこだわり、縋りたかった。
異性として見てもらえる折角の機会をふいにしてしまったのだ。ミハイルの自尊心は地に落ちていた。
「……ミハイル陛下、覚えていらっしゃいますか?」
「ん? なにをだろうか」
「どうしてもと望まれるのでしたら、あなたの前でだけは仮面を外してもいいと言ったことをです」
そう言って、アルミラはミハイルの座る椅子の縁に手を置いた。手を少しでも動かせば触れられそうな距離に、ミハイルの胸が高鳴る。
「そ、それは……望んでもいいと、そういうことかな?」
「どうしてもとおっしゃるのでしたら」
「なら、外してほしい」
アルミラの指が仮面に触れるのを、ミハイルは固唾を飲んで見守る。
アルミラは騎士になってからほとんど仮面を外さなかった。執務室にレオンが出入りするからだというのはミハイルもわかってはいたが、少し寂しく思っていたのも確かだ。
「ミハイル陛下」
仮面が外れ、形のよい唇から自分の名前が零れる。
たったそれだけのことが、ミハイルはどうしようもなく嬉しかった。
名前を呼んだだけで嬉しそうに微笑まれ、動揺したのを悟られないように強気に出たというのは、余談である。
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