(……今頃尻に敷かれているだろうな)
なにも見なかったことにして扉を閉め、この場から立ち去ることはできる。
だがアルミラはそうはせず、室内に足を踏み入れ扉を閉めた。
(今逃げてもどうにもならないな)
貴族と縁のない娼館ですら見つかってしまったのだから、国内にいる限りどこに逃げようと、遅かれ早かれ見つかってしまうだろう。
国外にまで出られれば話は別かもしれないが、伝手はもう使ってしまった。他国との境界線は兵が駐屯しているため、無理矢理通る場合彼らと戦うことになる。
不可能ではないが、大立ち回りをして逃げたとしても、アルミラの望む結果にはならない。
(他国の者にまで目をつけられたくはないから、しかたないか)
ならばここは逃げ出さず、ミハイルと対峙するのが正解だろう。
その後どうするかは、どう転ぶか次第だ。
少なくとも、無理矢理捕まえる気はないだろう。もしもその気ならば、王自ら足を運ぶ必要はどこにもない。
それに呼び出すという回りくどい手法を取らず、娼館周りを兵で固めてしまえばいい話だ。
(それなのにわざわざ来たということは……まあ、そういうことだろうな)
頭痛を覚え、アルミラの指がこめかみに触れる。口から漏れそうになる溜息をなんとか堪え、アルミラは眼前に立つミハイルに目を向けた。
物腰柔らかな雰囲気は二年経っても変わっていない。どこか嬉しそうに青い瞳が輝いて見えるのは、きっと気のせいだろう。
「ミハイル殿下――いえ、今は陛下でしたね。陛下自らこのような場所に足を運ばれるとは、なにを考えているのですか」
アルミラは王殺しの罪で追われている身だ。そんな危険人物と直接会うのはもちろんだが、ここは王が足を運んでいい娼館ではない。
高級娼館であれば、褒められたことではないが遊びの範疇として済ませることができるかもしれないが、アルミラが働いているのは下級寄りの中級娼館だ。
行き交う人の多いこの町にはミハイルの顔を知る者もいる。庶民向けの娼館に立ち寄ったことが広まるのは、いささか外聞が悪い。
「言っただろう。君に会うためだと」
だが当のミハイルはそんなことは気にしてはいないのか、真っ直ぐにアルミラを見つめながら答えた。
向けられる眼差しに、アルミラは引きつりそうになる口元を笑みの形に留める。
「あなたが直接いらっしゃる必要があるとは思えません。兵や騎士を使えば済むことでしょう。あるいは、レオン殿下をよこしてもよろしかったのでは?」
王弟であるレオンも、庶民向けの娼館に出入りしているという噂が立てば評判が落ちるかもしれないが、レオンの評判は何年も前から地を這っているので、今さら気にするほどの評判はない。
なにしろ、我儘傲慢横暴で有名な男だ。そこに娼館通いが入ったところで、色ボケしたのだろうと思われる程度で済むかもしれない。
「私が直接会いたかったからね。それに、レオンは……あまりこういうところは好まないから」
「それにしては彼らしき人物が客として来ていたそうですが……私の勘違いでしたか」
つい先ほど聞いたばかりの話を思い出し、アルミラは肩をすくめた。
顔がよく不満そうで、貴族のような見た目。しかも娼館に来ておきながら「汚らわしい」と言い放つ理不尽さ――アルミラの知る人物で一番該当しそうなのがレオンだった。
「少し無理を言って頼んだんだよ。私がしらみつぶしに探すわけにはいかないし、レオンには移動手段があるからね。……でも、その様子だとなにかしてしまったのかな?」
「汚らわしいとおっしゃったそうですよ。人選を誤ったのでは?」
「不快な思いをさせてしまったのなら謝るよ」
「私に謝られてもどうしようもできませんが……陛下に頭を下げさせるわけにはいきませんので、お気になさらないでください」
王が娼婦に――しかも弟のために頭を下げるというのは、国の威信にも関わる。
他国や貴族に対して示しがつかなくなるので、ここは日常の一幕として処理するのが一番だろう。
それに失礼な客というものはいくらでもいる。レオンもその一人だった、ということにしておけば済む話だ。
(話を聞いたところ、指一本触れなかったそうだからな。そういう意味では上客だったかもしれないし……気にするほどのことでもないだろう)
気を取りなおすように、アルミラの視線が室内を一周する。この部屋を使う目的が目的なので、大きな寝台が一つと酒瓶の置かれた棚。そして、寝台の近くには小さな机が置かれている。
他にも香の入った箱やら小物やらが置かれてはいるが、それを使うことはないだろうと視線を外した。
「陛下を立たせておくわけにもいきませんので、どうぞお掛けください」
そう言ってアルミラの手が示したのは寝台だ。そこしか座れるような場所がなかったので、アルミラとしては当然の選択をしたつもりだったのだが、ミハイルは視線をさまよわせながらぎこちない笑みを浮かべた。
「女性を立たせて私だけ座るわけにはいかないよ」
「……それでは、私は床に座りますので、陛下は寝台をお使いください」
「女性を床に座らせるわけにはいかないよ」
「……では私も寝台に、ということでしょうか? それはやめておいたほうがよろしいのでは」
アルミラの身分が今どうなっているのかは、アルミラ自身にもわからない。だが罪人として追われているはずの身だ。少なくとも、王と対等に接していい身分ではないだろう。
「いや、そういうわけでは……! そうだ、じゃあ、二人とも床に座ろう。うん、それがいい」
わずかに頬を赤らめたミハイルが床を指すと、アルミラは「そういうわけにはいきません」と首を横に振った。
アルミラは貴族として育った女性だ。王を床に座らせるような教育は受けていない。
「あなたは王になったのですよ。お立場をお考えください」
「それはわかっている、けど……一緒に寝台に、というのは……」
もごもごとミハイルが言いよどむと、アルミラは眉をひそめて堪えきれなかった溜息を零した。
(……なにを考えているのか、は考えたくはないな)
ミハイルが王になってから二年が経ち、年も二十になっている。
まさかその年で、女性と寝台にという響きだけでうろたえているとは思いたくなかった。
「わかりました。では、長話にならないのでしたら立ったままでも結構です」
「あ、ああ。ありがとう」
もはやどちらの身分が上なのかわからなくなりそうなやり取りの後、仕切り直すようにミハイルが咳払いを一つ落とした。
「君には色々聞きたいことがある……答えてくれるかな?」
「答えられる範囲であれば」
答えられない範囲のほうが多いことは伏せて、アルミラは神妙な顔で頷いた。
「コゼット様とフェイがどこに行ったのか教えてほしい」
「知りません」
そして嘘をつかないとも言っていないので、神妙な顔のまま嘘を吐く。
(フェイ様は……今頃尻に敷かれているだろうな)
最後に会ったときのコゼットは色々混乱しているようだったが、今は色々落ち着いて持ち前の我儘を発揮させていることだろう。
コゼットは生粋のお嬢様だ。働いたこともなければ、自炊や家事をしたこともない。
アルミラはこき使われているであろうフェイを想像し、ミハイルに気づかれないように小さく微笑んだ。
「……コゼット様の日記が見つかった」
「そうですか。それはなによりです」
「コゼット様は、私のことを……母上のことをどう思っていたのか、君は知ってる?」
「知りません」
気に入っていたようだ、と教えるのは簡単だ。
(だけど、コゼット様は望まないだろうな)
だがそれを教えたところで、どうにもならない。
(あの人はこの国を嫌っているから、戻る気もないだろうし)
アルミラが罪人として追われている今、コゼットとフェイが逃げる必要はなかった。
だがそれでもこの国に留まることをしなかったのは、コゼットがそれを希望したからに他ならない。
コゼットに戻る気がない以上、ここでなにを言ったとしてもコゼットとミハイルが和解するようなことにはならない。
「……君は、その……」
次の質問はなんだろうかとアルミラが思考をミハイルに戻すと、ミハイルはなぜか頬を赤らめ、もじもじと指先をいじっていた。
「私のことを、どう思ってる?」
「答えられません」
アルミラが間髪入れず返した瞬間、ミハイルの頬が引きつった。
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