第352話 妹は雑に扱ってはいけない
「兄さん、これから私と農機具のメンテナンスを行います」
「お、おう」
「どうしたんですか? せっかく不出来な兄の面倒を妹が見てあげるというのに」
い、いやだって千沙とは色々あったし......。正直、お兄ちゃん、お前のこと怖くてしょうがないよ。
先程まで葵さんとのナス畑でした作業が終わり、今度は中村家の農機具が保管されている倉庫で千沙と仕事することになった。
うちの妹は作業着姿で、珍しく家業を手伝うらしい。そんでもってこのタイミングでだ。
おかげでバイト野郎は気が気でない。
「その、こんなことを聞くのもなんだが、許してくれるのか?」
「はい? なんのことですか?」
「ほら、えっと、この前の件のことだよ」
「はて、私にはさっぱり......」
こ、こいつ......。
千沙は髭なんてありもしない下顎をわざとらしく擦ってみせる。
「あ! もしかして兄さんが一時の気の迷いで私以外の女の子と付き合っている件ですか?」
「......。」
“一時の気の迷い”ではないな。うん。思わず黙り込んでしまった俺は、こんな話題なんか口にしなきゃよかったと軽く後悔している。
千沙は屈託のない笑顔を俺に向け、自身の標準的な胸に手を当てて言う。
「私は寛大ですからね。兄さんが浮気していてもそう腹を立てません」
“浮気”なんてしてません。本命です。
「きっとその女と私を比べてどっちが優れているか品定めしていることでしょうし、結果はもう目に見えて私の方を最終的に選ぶと決まっています」
その、どの基準で優れているのか判断すればいいのかわからないけど、悠莉ちゃんはお前より性格の良い子だぞ。少なくとも“妹絶対論”で精神的に兄を追い詰めたりしない。
それにおっぱいの大きさも千沙より優れている。ごめん。
「それに妹をあまりに失望させすぎると罰当たりますよ」
妹は神か仏ですかね。
「できるだけ早く目が覚めるのを待っています」
できるだけ早く正気に戻ってくれるのを待っています。
黙ったままの俺はこれ以上聞きたくもない千沙の演説を中断させ、彼女にこれから行う仕事の説明をしてもらうよう催促した。
まぁ、先週のように理不尽な目にあわされないだけマシと捉えよう。
「先程も言いましたように、今回のお仕事は農機具のメンテナンスです」
「農機具と言ってもたくさんあるだろ。どれに手を付けるんだ」
千沙は顎に手を当てて考える素振りを俺に見せた。ここ、倉庫兼作業場では中村家が所有する農機具が数多く保管されている。
鎌や鍬など手作業で遣われる農機具はもちろんのこと、消毒や殺虫剤、除草剤等を散布する背負式噴霧器や草刈り機、ハンマーナイフモアなど農作業することにおいて必要な器具がここにあるのだ。
「なるたけ多くです」
「はぁ」
「付け加えるなら“時間が許す限り”、ですね。本当は全部見て回りたいですが、これから使う頻度が多くなりそうなものから順に手入れをしていきます」
「なるほど」
“時間が許す限り”という千沙の意見には賛成だが、それなら俺がこの仕事に携わるのはいかがなものだろうか。
だって俺は農機具に関して素人同然だし、千沙の足を引っ張るに決まっている。俺を指導するのに時間を使って、千沙が作業する時間が減ってしまうのは効率的とは言えない気がする。
そのことに関して俺は疑問に思ったので千沙に聞くことにした。
「え? ああ、簡単ですよ。見直させるためです」
「どういうこと?」
千沙がゴホンっと軽く咳払いして、人差し指を立てて語りだす。
「いいですか、兄さんはなぜか私以外の女と交際しています」
「な、“なぜか”じゃなくて、俺は告白されて......」
「お黙りです!」
「いッ?!」
“お黙りです”という変わった叱られ方をした俺は、千沙が手にしていたモンキーレンチで肩を思いっきり殴打された。
ちょ、モンキーレンチで人殴んなよ。俺の肩に筋肉がついてなかったら大怪我だぞ。
「お、おま、モンキーレンチは危ないだろ」
「安心してください。寸法を数ミリと小さめに調整しています」
「どういう理屈? 寸法小さくしてもモンキーレンチ自体の大きさは変わらないからダメージは小さくならないよ?」
「兄さんが私を怒らせなければいいだけの話です」
うちの妹は思ったより過激派だ。
「で、話を戻しますが、兄さんには私の良いところを今まで以上に見てもらいます」
「は、はぁ」
「私の頼れて格好良いところ、可愛くてしょうがないところ、犯したいくらいエロいところなど色々と魅せつけて兄さんに振り向いてもらいます」
すごい本音出た。ちょ、やめてよ、そういうの。もう俺には心に決めた人が居るんだって。
「そのためにはもっと兄さんと長い時間一緒に居て、そういう感情を芽生えさせる必要があります」
「ありません。あのね、千沙には本当に悪いことしたと思うけど、俺はもう悠莉ちゃんとやっていく――」
「お黙りです!!」
「あぶなッ?!」
俺は千沙が手にしていたモンキーレンチの横薙ぎを下にしゃがんで躱した。
「ちょ、なんで避けるんですか。躾にならないじゃないですか」
「避けるよ?! 今度のは肩じゃなくて側頭部だったもん。筋肉の無い箇所は致命傷になりうるもん!」
「ふん」
パシパシとモンキーレンチで手を叩く千沙はまるで女王様だ。未だしゃがんだままの俺を見下しているのも様になっている。
もうヤだ。怖い。おうち帰りたい。
「なんですか、『悠莉ちゃんとヤッてイクッ!』って。よく妹を前にそんなことが言えますね」
「よく男の前でそんな誤解語弊言えるよね」
「前も言いましたが、兄さんの“初もの”は全て私のものです。逆も然りです」
逆も然りとか言うなよ......。重いって。
それに今は口に出来ないけど、千沙が俺のファーストキスを手に入れたと勘違いしているよね。違うよ? お前の妹に奪われたんだよ? 俺の価値の無いファーストキスは。
それにお前とのは事故だし、陽菜の場合はあいつから来たからな。
だからなんというか、その、ごめん。
「まぁ、こんなことしていては仕事が始まらないのでそろそろ動きたいのですが、兄さんには私が教えたことをやってもらいます」
「わかった」
そう言って千沙は近くの農機具、小型のハンマーナイフモアの所まで向かった。
その際、手にはガソリンが入ったと思しき携行缶をよっこらせと持ち上げて運んだ。
「兄さんにしてもらいたいのはエンジンオイルの交換と燃料の補充、各種可動部に潤滑油の投与をし、最後に試しにエンジンをかけてもらいます」
「ほうほう」
「オイル交換はわかりますか?」
「たしか古いオイルを出し切ってから新しいのを補充するんだろ?」
「はい。さすが私の将来の兄ンセです」
なんだ、“兄ンセ”って。フィアンセみたいに言うな。
ちなみに燃料の補充は先程千沙が手にしていた携行缶の中にガソリンが入っているのでそれをハンマーナイフモアの燃料タンクに入れるのだ。
各種可動部に潤滑油を投与するのは金属部分のことである。ハンマーナイフモアに至ってはクラッチやシフトレバー等にワイヤーを使用しているのでその辺が錆ていたり、もしくは機械の摩耗や錆を防止するために潤滑油は必要となる。
それら一連の作業をやるのが俺に与えられた仕事らしい。
「その間、私はプラグ点検やタイヤに空気を入れたり、内部のベルトの調子などを見ます」
「一つの農機具を手分けしてメンテするんだな」
「そうです。わからないところがあったら聞いてください」
俺らは手始めにハンマーナイフモアから整備し始めた。先程の狂ったように“妹絶対論”を説く千沙とは思えないほど、今の彼女は俺に優しく、素直に頼れる職場の先輩として活躍してくれたのであった。
*****
「さて、これで一通りハンマーナイフモアのメンテは終わりましたね」
「ああ、意外と時間かかったな」
あれから千沙とハンマーナイフモアのメンテを行ったのだが、予定していたよりも時間がかかってしまい、気づけば30分以上使っていたのだ。
たった一台の農機具に、だ。
こりゃあ時間の許す限りって言っても、そんな多くの台数見れないな。
無論、時間がかかった原因はメンテナンス作業に不慣れな俺のせいでもあると自覚している。
「では最後にエンジンをかけてください」
「おう」
千沙はそう言ってこの場から少しだけ離れていった。
ハンマーナイフモアのメンテナンスは終わり、最後にエンジンを始動させる。俺たちがしていた作業に問題が無ければこれで動くはずだ。
俺はスイッチをオンにして、スターターロープを手にした。後はこのロープを引っ張るだけ。それでエンジンがかかる。
勢いよく引っ張ろうとした俺に、
「ところで、兄さんに一つ聞いておきたいことがあるのですが」
千沙が話しかけてきた。
「どうした?」
「今までの仕事......私との共同作業を振り返って改心しましたか?」
「......。」
ま、またその話か......。というか、今日一緒に作業したからって心変わるわけないだろ。
「何度も言うが、俺は悠莉ちゃんとやっていくつもりだ。千沙も魅力的だが、俺にはもう心に決めた彼女が居るんだ」
「......そうですか」
「悪いな」
半ば飽き飽きとした俺は雑な謝罪をしてエンジンをかけるべく、スターターロープを思いっきり引っ張った。
そして次の瞬間――
「んぐッ?!」
――俺の下腹部に不意打ちとも言える重い一撃が入った。
な、なんだ?!
俺はあまりに痛さに四つん這いになって、今しがた食らった攻撃の原因を探った。
俺の下腹部にダメージを与えたのはなんとハンマーナイフモアのハンドル部分。エンジンをかけようとした農機具だ。
「な、なんで急にバックして......」
そんな俺の疑問は、俺の下に軽やかなステップで駆けつけてきた妹が解決してくれた。
「大丈夫ですかぁ? 兄さーん」
この上ないくらい、うっざい顔して。
「き、貴様ぁ、ハンマーナイフモアに何をした」
「え、私は何もしてませんよ? ただの兄さんの不注意です」
「ふ、“不注意”だと?」
千沙は四つん這いになっている俺の背中を擦るのを止め、ハンマーナイフモアの下に行き、とある部分を指差した。
「シフトレバーが
「......。」
くそ。俺は下腹部の痛みに悶ながら地面を殴りつけた。
そう、農機具に関わらず、エンジンをかけるときはクラッチを切るかシフトレバーを
今回は
千沙の言う通り、俺の不注意だ。気づいていればこんなことにはならない。
ならないんだけどッ!!
「痛そうですね? ところで兄さんは覚えていますか? 妹を雑に扱うと罰が当たるって話」
「......。」
「まさにこのことですね!」
お前、最初っから知ってただろッ!!
わざとらしくも俺の傍に寄って煽ってくる妹に若干の殺意が湧いた兄であった。
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