第288話 葵の視点 気にするのは異性だからじゃない!
「あ」
天気は曇り。今日から和馬君も春休みに入ったことで、より一層彼と仕事ができる時間が増えたことに嬉しく感じる私は間が抜けた声を漏らしてしまった。
「ゴク......ゴク......」
「......。」
気づくのが遅かった。
これから育てていく葉物野菜に、和馬君とビニールトンネルを被せるという仕事は、中腰の姿勢でずっと作業をしていたから腰が痛くなった。大きく伸びをして身体を解そうと両腕持ち上げた際に視界に水筒が入って気づいた。
あれ、私なんで彼に渡したはずの黒い水筒を持っているのだろうと。
もしかして
「ぷはー! 最高!」
「っ?!」
振り向いたときには遅かった。
彼に黒い方の水筒を渡そうと思ったけど、彼は私に背を向けて、私の飲みかけの水筒に口を付けていた。
「マジですか......」
「?」
私の漏れてしまった声を彼が聞いて振り向くが、それと同時に私は後ろを向き、彼に背を向けてしまった。
まさかあんなに躊躇なく人の水筒に口を付けるて......。和馬君だって渡された水筒が私のだって気づいているはず。
和馬君も水色の水筒が私のだって気づいているはず。それでも飲むとは......。
あ、あんまり間接キスとか気にしないタイプなのかも。
それとも私のことを―――
「顔赤いですよ。大丈夫―――」
「あ、ああー! わ、わわわ私急な仕事思い出しちゃった! ごめんね! 終わったら迎えに来るから!」
「え、あ、はい」
私の顔を覗き込んで声をかけてきた彼に、半ば強引に残りの仕事を押し付けて私はこの場を去ることにした。
べ、別に彼を意識しているとかじゃないから。
ただ単に私向きの仕事じゃないってわかっただけだから。
逃げたわけじゃないから。
「......また喉乾いちゃった」
私はまだ中身の減っていない黒い水筒の蓋を開けて飲み始めた。暑いと感じたから喉が渇いたわけで、決して緊張とかじゃない。
ないったらない。
そう胸中呟きながら私は軽トラで自宅へ戻った。
*****
「あら、葵。泣き虫さんと一緒に仕事していたんじゃなかったの?」
「え、あ、その、置いてきた」
「“置いてきた”?」
家に戻ったら中庭で母さんと遭遇した。両親には今日は和馬君と仕事すると伝えていたっけ。そんな彼を置いてくるとか何がしたんだろ私。
母さんの両手には先程収穫したと思しきサニーレタスの入った
「また泣き虫さんにセクハラでもされたのかしらぁ?」
「そ、そうじゃないけど......」
「?」
いやまぁ、間接キスってセクハラに入るのかな?
というか、母さんは私が和馬君にセクハラされて怒ったから帰ってきたと思ってるのかな。セクハラが大前提とか少しだけ彼に同情しちゃう。
前科があるから仕方ないか。
「あ、そうそう。ちゃんと聞いたのかしらあ?」
「?」
「ほら、遅くなっちゃったけど、泣き虫さんは今日から春休みじゃない? さすがに今日からうちに泊まり込みは彼に急で申し訳ないから、明日以降で住み込みバイトができるか誘うって話だったでしょう?」
そ、そうだった。うちで住み込みバイトするか、今日一緒に仕事する私が聞こうと皆には言っていたっけ。
ちなみにそのことについて今まで彼を誘わなかったのは、夏休み、冬休み共に中村家から誘っているため遠慮しただけだ。
変に意地を張ったとも言う。
なんというか、和馬君が住み込みバイトをしたいなら彼から話してくるかなって期待しちゃったんだよね。それも家族全員。
結果として春休みに入ったのに彼はそんなこと一言も言わなかったので、仕方なくこちらから誘う次第である。
「彼をどうしても誘わなきゃ駄目?」
「ど、どうしたのぉ、急に。忙しいことには変わりないから手伝ってほしいって気持ちもあるけど、やっぱりアレじゃない?」
「“アレ”?」
「アレよ、アレ。......寂しいというか、一緒の方が楽しいじゃない?」
「......。」
「私もそうだけど、あの人も『息子ができたみたい』って言うくらい彼が働いてくれることを喜んでいるし」
う、うちも大概だね。ここまで毒されるとは。
それに対してなんなの、あの可愛くない後輩は。両親がそんな気持ちでいることを知らずに受け身に徹しちゃってさ。
尻尾振って「泊めてください。働かせてください」も言えないの。
「......。」
「もしかしてまだ聞いてない?」
「わ、忘れてた」
「そう? なら後で聞いといてぇ」
そう言って母さんはサニーレタスを保冷庫へと持って行った。一通り収穫が終わったらそれらの野菜を商品にするために選果など手入れをしなければならない。
うちは個人営業の直売店で生計のほとんどを立てているから、生産から販売まで一貫して行うので休む暇が無く、忙しい日々を送っている。
「うん。そろそろ落ち着いたし、和馬君を迎えに行こうかな。時間的にお仕事は終わっているだろうし」
こうして意味無く家に帰ってきた私は、バイトで働いてくれている後輩を迎えに再び畑に向かうのであった。
******
「すみませんでしたぁあぁああぁああ!」
「ちょちょちょ! 何ッ?! どうしたの?!」
何事ッ?!
畑に着いたら急に和馬君が頭を地面に押し付けて、土下座して謝ってきた。汚れることなんて御構い無しと言った勢いである。
「自分は葵さんの水筒に口を付けてしまいましたッ!」
「っ?!」
「キモいことしてすみませんッ! 反省していますッ!」
「わ、わわわかったから! とりあえず顔上げて?! 汚れるよ?!」
「あとご馳走でしたッ! 美味しかったですッ!」
「反省してないよね?!」
火に油を注ぐようなことを言って......。
そう......。彼は私に勝手にした間接キスがバレて怒ってどっかに行ったと思っちゃったんだ。それはなんというか、申し訳ないことをしたな。
そもそも私が間違えて彼に渡したことが原因なんだし。
「私にも非があったんだし、気にしてないから。ね?」
「葵さんがそう言うなら......」
「はい、これでこの話はお終い!」
「わかりました」
それに間接キスなんて実害ないし、別にそこまで嫌う理由にはならないから過度に反応すること自体おかしい話なんだよ。
そう考えると馬鹿みたいに思える。大学生になろうって言う私が間接キスごときで慌てふためくなんてあっちゃいけないんだ。
大人の余裕を見せなきゃ。
あ、そうだ。和馬君に住み込みバイトを誘うんだった。
「......。」
「どうしました?」
いや、ここは先輩上司としてあくまで“一つの提案”として言おう。
“誘う”じゃない。“提案”だ。
こっちが頼んでいるみたいに捉えられても困るし、和馬君はもうちょっと“媚び”ってものを売ってきてもいいと思う。
「今日から春休みでしょ? 予定は決まってるの?」
「いえ。特に」
ああー、“提案”って言っているのに、“住み込みバイト”のワードすら口にできない......。
「......。」
「? 特にありませんが」
「そ、そう。で?」
「え? あ、いや特にはありませんので......。ええ、はい」
最後の『ええ、はい』がちょっとイラっと来た!
特に無いんだったら住み込みバイトの一択でしょ?!
私に懇願してよ?!
尻尾振って?!
「ふ、ふーん?」
「あ、でもしたいことはありました」
「っ?! だよね!」
ほら! あるんだったら変な意地張ってないで言ってよ! 中村家で働かせてくださいって!
上目遣いでッ!!
「実は以前、葵さんに言われたことに挑戦しようと思いまして」
「え、なんのこと?」
「コンタクトを買おうかと。高校生二年生からイメチェンしてみたくて」
「ああ、なるほど」
「ですから予定が空いた日には眼科に行って処方箋を貰ったり、販売店に行こうかと」
すっごい昔に彼にそんなこと言ったっけ。たしか和馬君と一緒に初めて仕事したときのことかな。そろそろ一年経つなぁ。
和馬君は普段メガネだからコンタクトに変えただけでもすごいイメチェンに繋がると思う。それは楽しみだね。
っていうか、そんなことよりも“住み込みバイト”の話!!
「他は?」
「え?」
「......。」
全然言い出さない彼に私は痺れを切らし、自分でもわかるくらいに頬を膨らませてしまった。もう面倒だからこちらから誘おうかと考えていた。
が、
「はは。すみません。本来、こちらからお願いするべきことなんですよね」
「ほぇ?」
和馬君が急に頭を下げてきた。綺麗なお辞儀である。
「春休みも今までと同じように、自分を中村家で働かせてください」
待ちに待った言葉が彼の口から出てきた。
急なことだけど、次第に私は優越感を抱いてしまい、ついニヤけてしまう。
「ふ、ふぅーん? しょうがないなぁ」
「迷惑をかけないよう、努力しますので自分を使ってください。居心地の良い中村家の団欒が好きです」
勝った! 今日は勝った気がする!!
何にかはわからないけど!
「ふふ。こちらこそよろしくお願いします」
「いやぁ、この春休みが楽しみですね」
「それはどうかな? 少なくとも私はたくさん扱き使っちゃお」
「はは。自分に毎朝コーヒーを淹れてくれるなら構いませんよ」
「コーヒー好きなの? それくらいなら別にいいけど」
「......葵さんには少し早かったプロ――セクハラでしたね」
“少し早かったプロセクハラ”って何。セクハラにプロとかあるの?
時々彼が言うことって理解できないんだよね。内容がセクハラなら大した意味は無いんだろうけど。
こうして私たちはこの春休みについてどう過ごすのか、話し合いながら帰宅するのであった。
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