第115話 始まりの日
それから数刻後、はじまりの森の深部に剣士と少女はやってきていた。
どちらが先にと競うように早歩きで、最後はもはや走りながら。
「先輩、疲れてると思いますし、ゆっくりでいいですよ……!?」
「いやいや、長時間地中で待機していた貴様の方が余程だろう。私達のことは気にせずゆっくりと羽を伸ばすがいい」
肩を押し合いながら、2人は走る。
このはじまりの森の深部には、レイジが釣りに勤しんでいた場所よりも遙かに強力な魔物が生息している。
しかし、呑気な会話をしている2人に、それらが襲いかかる気配はない。
その理由を、彼女たちはよく知っていた。
「あっ」
「む」
森を深く進んだ先、少し開けた場所に、“彼”はいた。
五年前のあの日から戻ることのなかった白髪に月明かりを移しながら、ぼーっと空を見上げ黄昏ている。
「「ただいま」」
トーンは違えど、まったく同時に同じ言葉を口にする2人。
反射的にむっと顔を見合わせるが、すぐに彼へと視線を戻す。
「おかえり、先輩。姉弟子も」
彼はそんな2人を見て、微笑んだ。
「むう。てっきり私達の登場に感極まって、抱きついてくるかと思っていたが」
「いきなり現れたならそうしたかもな。でも、会話が聞こえてたから。気持ちを整理するには十分だ」
彼はそう、少し疲れを感じさせる苦笑を浮かべる。
「ありがとう、2人とも。俺のわがままに付き合ってくれて」
「別に構わないよ。あたしたちもやりたくてやったんだし」
「その通りだ。ところで、あの盗賊どものボスはどうした?」
「斬った」
剣士の疑問に、彼は淡々と答える。
「斬って、埋めた。ただの自己満足だけど」
そう言う彼の“両手”は土で汚れている。
おそらく自らの手で地面を掘り起こしたのだろう。
「随分と緩いな。自分の名前を騙った悪党に」
「悪党といったら、世間一般に俺達もそうなりそうだけど。それに、よくある名前だ——ハースト、なんて」
その名は彼の想像よりも遙かに大きく、広く世界に知れ渡ってしまった。
おそらく、彼の名を騙る者も盗賊だけには止まらないだろう。
ジル=ハースト。
最も若い伝説と持て囃される彼が、本当は生きているなどと、世界中の殆どの人は知らないのだから。
「ジルくん……」
深いため息と共に吐き出されたジルの弱音に、少女——ポシェ=モントールはきゅっと表情を歪めた。
「また力を使ったのか」
対し、剣士——フレア=バーミリオンはそんなことを聞く。淡々としてはいるが、しかし、その顔には確かに心配が浮かんでいた。
「ああ」
ジルはそう頷きつつ、自身の右腕を見る。
「大丈夫? なにか、反動とかは出てない?」
「ええ。好調です。ここのところ、制御も上手くいっていますし、もう大丈夫かと」
ジルはそう言いながら、右手を開いたり、閉じたりしてみせる。
かつての戦いで切り飛ばされた利き腕は、まるで何事もなかったかのようにそこに存在している。
しかし、それは決して"当然"のものではない。
それを知るポシェとフレアの表情は複雑そうに歪んでいた。
「見てたよ。あの盗賊がセシルさんを刺そうとしたのを、君が止めたのを」
「間一髪でしたね。まさか、あの男にそれほどの胆力が備わっていたとは」
ジルはそう苦笑する。
セシルへと振り下ろされたハーストの短剣――それを止めたのは、遠く離れたこの場所にいたジルの右腕だった。
もしもその干渉をしなければ確実に、セシルは筋書き通り、すでにこの世を去っていただろう。
「顔色が良くないな」
「え?」
「右腕を使った影響か。それともあの盗賊を殺し、わざわざ自分の手で埋めたことに関係があるのか」
フレアはずいずいジルとの距離を詰め、彼の頬へ手を添え、撫でる。
「私は貴様の姉弟子であり、姉だ。家族には隠し事をするな」
「隠し事なんて」
「するな」
ぐい、とフレアがジルの頬を抓る。
長い間孤独に生き、人と触れ合うことを知らなかった彼女のその冗談のような仕草は、不器用に確かな痛みをジルへと伝える。
(まぁ、この5年で随分マシにはなったけれど……)
頬が千切れそうな痛みを感じながら、しかし、ジルは頭の中でどこか他人事のように考えていた。
しかし、いくら彼が肉体的な痛みに思考を乱されないといって、フレアの苛立ちにも鈍感なわけではない。
フレアも、ポシェも、決して彼を責めているのではなく、ただ心配しているのだ。
「いいや、本当に大丈夫だ。むしろ清々しい気分なんだ。ようやく始まったんだから」
ジルはそう本心から微笑んだ。
そう、これは始まりにすぎない。その始まりを、彼――いや、彼らだけが知っている。
今日、この日。
世界の終焉と、それに抗う勇者達の物語が始まったのを。
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