第三三〇食 うたたねハイツとバレンタイン


 青葉あおばと話した日から飛ぶように時間は過ぎ去り――二月一四日、バレンタインデー当日。

 大学から帰った俺は、うたたねハイツの廊下を歩きながらモヤモヤと物思いにふけっていた。


「(結局、真昼まひるからチョコは貰えなかったな……)」


 思い出すのは今朝、バレンタインのことなど覚えてもいないかのような様子で朝食を頬張っていた恋人の姿だ。青葉とあんな話をしたこともあり、「今年は人生初のバレンタインチョコを貰えるかもしれない」と淡い期待を抱いていた俺だったが……残念なことに、それは見通しの甘い願望に過ぎなかったようである。


「(……まあ、よくよく考えりゃバレンタインなんてしき風習だしな、うん。女の子側が一方的にチョコレートを渡さなきゃいけないとか不平等だし、そもそもバレンタインにチョコを贈るのは日本だけだし、外国じゃお互いに日頃の感謝を伝え合う日に過ぎないし!)」


 二週間前とほぼ同じ言い訳をしつつツカツカと階段を上がる俺。我ながら情けない現実逃避だ。何をどう解釈したところで、自分が〝恋人が居るのにバレンタインチョコが貰えない男〟である事実はなにも変わらないというのに。

 さっさと部屋に入って月末に差し迫った試験の準備でも進めよう――心の涙をすすり、俺が二〇五号室の前を通り過ぎようとした、その時だった。


「へぶあっ!?」

「ふぇっ? ……あっ」


 ちょうどそのタイミングで勢いよくドアが開かれ、鼻頭に硬い扉が直撃。ただでさえ冬の外気に冷やされて防御力が低下しているところにこれは痛い。不細工ぶさいくな悲鳴を上げて後ろに倒れ込む俺の耳に、聞き慣れた少女の声が入ってくる。


「ごっ、ごごごめんなさいお兄さんっ!? ま、まさかそこに居るとは思わなくて……大丈夫ですかっ!?」

「お、おう、大丈夫だ……だけど真昼、外開きのドアを開けるときはもう少し気を付けような、から……」


 二度とこんな悲しい事故が起きないように、という気持ちを込めて注意しつつ顔を上げると、少女・真昼は心底申し訳なさそうな表情でこちらへ手を伸ばしてきた。そして彼女の細い指先が、俺の鼻を優しく撫でる。


「本当にごめんなさい、痛かったですよね……」

「(か、顔が近い……っ!?)」


 尻餅をついている俺を覗き込むような体勢のため、我が恋人の花のかんばせがものすごく近くに感じられる。もちろん真昼にそんなつもりは一切ないだろうが……この状況では痛みなど感じている暇もない。一瞬のうちにどこか遠くへ飛んでいってしまった。


「そ、それよりどうしたんだよ真昼? そんなに慌てて出て来て」


 アパートの廊下でいつまでも至近距離で見つめ合っているわけにもいかないので、俺はヨロヨロと立ち上がりながら少女に問う。すると彼女は「あ、はいっ!」と満面の笑顔を咲かせて言った。


「お兄さん、お話ししたいことがあるので、少しだけ私の部屋に来てもらってもいいですか?」

「……? うん、別にいいけど」


 手招きをする彼女に言われるがまま、俺は二〇五号室の敷居しきいまたぐ。以前までのような汚部屋おべやにリバウンドすることもなく清潔さを保っている奥の部屋に通されると、その対面にちょこんと真昼が正座した。


「それで、話ってなんだ?」

「ふっふっふっ……じゃーんっ! コレのお話しでーす!」

「!」


 効果音とともに俺の前に差し出されたのは、少しだけいびつ包装ラッピングが施された四方一五センチ弱の小箱だ。桃色の紙に赤いハートマークがこれでもかというほど並んでいるその包みを見れば、いくらニブい俺でもコレがなんなのか、すぐに察しがつく。


「ば……バレンタインチョコ!? 真昼、用意してくれたのか!」

「えへへ……はいっ! 今日の日のために、千歳ちとせさんと雪穂ゆきほちゃんと一緒に一生懸命練習して作ったんですよ!」

「え……ち、千歳?」


 冬島ふゆしまさんは青葉あおばがいるので分かるが、なぜここで千歳の名前が出てくるのか。むしろ一番バレンタインチョコと縁遠そうなのに。少しだけ追及してみたくなったものの、しかしそれはぐっと我慢しておく。今は他に、もっと優先すべきことがあるだろう。


「……真昼、開けてもいいか?」

「もちろんっ! 見てみてください!」

「それじゃあ失礼して……」


 許可を得た俺は、包装紙を破ったりしないように最新の注意を払いつつラッピングを解いていく。そして中から現れた白い箱のふたをゆっくりと開いてみると――


『夕くんへ いつもありがとう 大好きだよ』


 ――白のデコペンでそう書かれた、大きなハート型のチョコレートが目に飛び込んできた。


「本当は生チョコとかトリュフにしようか迷ったんですけど、実際に作ってみるとあんまり『バレンタイン!』って感じがしなくて……だからすっごくシンプルですけど、ハートのチョコにしてみました! どうですか、お兄さんっ!」

「……ッ!」

「ってうえぇっ!? な、泣いてるっ!? どっ、どどどうしたんですかお兄さんっ!?」

「い、いや、ごめん……なんか感動して……!」


 人生初のバレンタインチョコを前に感極まってしまい、俺は思わず溢れ出しそうになる涙をどうにかこらえる。たしかに真昼の言う通りとてもシンプルなチョコレートなのだが……しかしだからこそ心を打たれてしまった。

「ただでさえ不器用なこの子が、デコペンでここまで綺麗な文字を書けるようになるまでどれくらい練習したんだろう」とか、「『生チョコやトリュフを実際に作ってみると』って、いったいいつから今日のために頑張ってくれていたんだろう」など、この小箱一つを作り上げるために真昼がついやしてくれた労力を思うほど、後から後から涙が込み上げてくる。どうやら中央の大きなチョコレートの周囲にもサイズの違うハートがいくつも散りばめられていて、その一つ一つに異なるデコレーションが施されているようだ――視界がかすんでいるせいで、今はよく見えなかったが。


「……ありがとう、真昼。めちゃくちゃ嬉しいよ」

「えへへ、そうですか? 喜んでもらえたならよかったで――」

「それと悪いんだけど、ちょっとだけ抱き締めさせてもらっていいか?」

「!? どど、どうしたんですか急に!?」

「いや、なんかもう感動しすぎて……この感動を誰かと共有したい。」

「なんですかそれ!? いえっ、お兄さんがしたいなら私はウェルカムですけどっ……ああっ、でもやっぱりちょっと待ってください、心の準備が――」

「真昼ーーーッ!」

「んぎゃあああああ@☆※□&△@∵○%っ!?」


 ――バレンタイン当日の午後、うたたねハイツ二〇五号室内。

 初チョコの感動のあまり正面から女子高生を抱き締める男と、全力の抱擁ほうようを受けて顔が爆発しそうなほど真っ赤に染まっている少女の姿がそこにあった。

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