第三二七食 家森夕とバレンタインの話


「ねえゆう、もうすぐの季節だね」

「? アレ?」


 大学内のカフェスペースでいてしまった一時限コマ分の時間を潰していた時、不意に青葉あおばが深刻そうな顔でそう言ってきた。俺はカフェモカのカップを口に運びつつ、「あー」とさも理解したかのように発声する。


「はいはい、アレのことか。いやー、怖いよなアレ。俺も毎年『もうすぐアレの季節だなあ』って思うんだよなアレ」

「その言い方絶対分かってないよねえ!? 指示代名詞アレしか言ってないじゃないか!」

「わ、分かってるって。アレだろ、アレ……あ、もしかして節分せつぶんか!?」

「違うよ! なにが悲しくてこんなところで節分の話しなきゃなんないのさ! もっと大きなイベントがあるじゃん、二月には!?」

「二月のビッグイベント……針供養はりくよう?」

「どこがビッグイベント!? 今の時代マイナーもいいとこだよそれ!? そうじゃなくて二月の中旬くらいにあるでしょ、大事なイベントが!」

「中旬……大事……確定申告?」

「いやたしかに二月中旬にある大事なイベントかもしれないけどさあ!? それも大学生わたしたちにはほぼ無縁じゃん! というか夕、絶対わざとやってるでしょ!?」


 とぼけたことばかり言う俺に青葉が机をバシバシ叩き、皿の上に乗ったティーカップたちがカチャカチャと音を立てた。普段は俺が彼女に振り回される場面の方が多いため、なんだか少し新鮮である。

 もちろんこれだけヒントを出されれば、誰だって嫌でも正答こたえが分かるだろう。二月中旬にあるビッグイベント、それは――


「バレンタイン、だろ? それがどうしたんだよ」

「どうしたんだよって……え? なにさその興味なさげなテンション? 少なくともキミたち男にとっては楽しみなイベントじゃないの?」

「……はあ」


 何も分かっていないイケメン女子大生様に、俺は露骨に大きな溜め息を吐く。


「お前さ、もしかして男なら誰しもバレンタインにチョコが貰えるとでも思ってんのか? ログインボーナスじゃねえんだぞ」

雪穂ゆきほみたいなたとめてよ。……もしかしてキミ、これまでの人生でチョコ貰ったことないのかい?」

「ねえよ。子どもの頃に母さんから貰ったことはあるけど、それ以外はマジでゼロだ」

「うわあ……かわいそう」

「おいあわれむんじゃねえよ。いっそ馬鹿にされた方がマシだわ」

「二〇年間生きてきて一度もバレンタインにチョコ貰えないなんてかわいそうだね、ぷぷっ!」

「どっちにしろムカつくな、コイツ……しかも結局『かわいそう』っつってんじゃねえか」


 さらに腹立たしいのがこの女は去年、同性の友人やら学部の先輩やらから結構な数のチョコレートを受け取っていたということ。まあ世の中には義理チョコだの友チョコだのもあるわけだから、意外と女の方がチョコ獲得数が多かったりするのかもしれないが……。


「そういえば最近は〝自分チョコ〟とかも流行はやってるらしいよ。自分で自分にチョコ買って食べるってやつ」

「そういうのは女の子がやるから流行るんだろ。男がバレンタインに同じ事してたら悲しいだけだわ」

「あはは、まあね。あ、でも雪穂が言うには男が男にチョコを贈ることもあるんだって。〝強敵ともチョコ〟とかなんとか」

「ええ……? い、いや、女同士の友チョコが許されるんだから別におかしくはない、のか……?」

「もしかしたら夕も今年は男の子から貰えるかもしれないよ? ほら、ゼミの連中とか」


 そう言われ、なんとなく頭の中でその状況を想像してみる。ハート柄の包みを手にしたむさ苦しい野郎どもが、アハハウフフと笑いながらこちらに向かって猛烈な勢いで駆けてくる図――……控えめに言って、地獄以外の何物でもない。

 ブンブンとかぶりを振って気色悪いイメージを消去デリートし、口直しにカフェモカを含んだ俺はさっさと話を戻すことにした。


「それで? バレンタインがどうしたって?」

「ああ、うん」


 青葉は最初と同じように表情を引き締め、頷く。


「実はバレンタイン、どうしようかと迷っててさ。私と雪穂、どっちも女の子でしょ? だから私もバレンタインにチョコを渡すべきなのか、それとも雪穂からチョコをもらってホワイトデーにお返しをするべきなのか、どっちが正しいんだろうって思って……」

「あー……言われてみれば、どうなんだろうな」


 そもそも〝バレンタインデーに女性が男性にチョコレートを贈る〟という風習は日本独自のもの。外国におけるバレンタインは〝愛情を伝える日〟という認識こそ共通だが、贈り物はチョコレートよりもカードや花束が一般的。性差も特に関係なく、互いに感謝の気持ちを伝え合う日だったはずだ。当然、〝バレンタインのお返しをする日〟であるホワイトデーも日本ならではの文化である。


「……そう考えると、『どっちが正しいのか』って考えること自体がおかしいのかもな。外国にならうならチョコレートを贈り合うのがよさそうだけど」

「うーん……でも雪穂にバレンタインの醍醐味だいごみを味わわせてあげたいとも思うんだよねえ。ほら、チョコレートを渡してからホワイトデーまでの一ヶ月間って、すごく大事だと思わない?」

「そんなこと俺に聞かれても……」


 たしかに女の子からすればチョコを渡した男からどんなお返しが貰えるか、と考えるだけでもソワソワしそうなものだが……俺は誰かにチョコを渡したことはもちろん、受け取った経験すらないのだから答えようもない。「そうなんじゃないっすかね」なんて適当な返事をしたくもない。

 俺が口元をもごもごさせていると、それを見た青葉はふっと頬を緩ませた。


「バレンタインまでまだ日もあるし、もうちょっと考えてみることにするよ。でも夕はいいよね、バレンタインをただ楽しみに待つだけだし」

「なんだよそれ、イヤミか? はいはい、どうせ俺にとってバレンタインはただの平日ですよー」

「……? 何寝惚ねぼけたこと言ってんのさ。去年まではともかく、今年は絶対に一つ貰えるでしょ?」

「……あ」


 そこで俺はようやく思い至った――いつも周りが浮き立つだけだったつまらないバレンタインデーも、今年はそうではないということに。

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