第一八二食 うたたねハイツと変わりゆく関係③

「さてと……それじゃあ私はそろそろ帰るわ」

「えっ、も、もう?」


 真昼まひるが作ってくれた朝食を三人で食べ――ちなみにお母さんは「少しは上達したじゃない」と感心していた――、まだぎこちない少女をまじえて三人でちょっとした話をしたあたりで、真昼母は左腕の腕時計に目を通してから言った。時刻はまだ朝一〇時前なのだが……。


沖楽市むこうまでは時間がかかるからね。それに、あなたたちの二人きりの時間を邪魔するのも悪いし」

「お、お母さんっ!」


 からかわれた娘が真っ赤な顔で声を上げるも、母親は「おほほほ」と唇に手を当てて笑うばかりだ。一方の俺は笑うに笑えず、絶妙な気まずさを覚えて口をもにょもにょさせる。


「――ゆうくん」

「は、はい?」


 おふざけから一転、声を変調させた真昼母がこちらに向き直ったのを見て、思わず背筋せすじを伸ばす俺。すると彼女はずっと浮かべていた微笑を消し、やがてゆっくりと頭を下げてきた。


「真昼の――娘のことを、どうかよろしくお願いします」

「!」

「あなたたち二人の関係がこれからどんな風に変わっていくのかは私にも分からないけれど……少なくともこの子は良き隣人として、あなたのことを誰よりも信頼しています」

「……」


 俺は気付かれないように、そっと真昼の表情を見る。彼女は自分のために頭を下げる母親に驚きつつ、その言葉を肯定するように静かに首を振った。


「この子の気持ちにこたえてあげてくださいとは言えません。でもせめて――せめて今まで通り、この子のそばに居てあげてください」

「……はい」


 俺がゆっくり頷いて返すと、真昼母は頭を上げて「ありがとう」と小さく笑う。そして今度は自分の隣へと目を向ける。


「それから――真昼」

「は、はい」


 なにを言われるんだろう、という感情がありありと浮かぶ娘に対し、母親は真面目な顔で言った。


「相変わらず、部屋が汚いわね」

「ほっといてよっ!?」

「だって本当に汚いんだもの。あれが自分の娘の部屋だなんて、お母さん悲しいわ。なによ、あの服の山は?」

「全部お母さんが送ってくれたやつだよねぇっ!? わ、私何回も『こんなに要らない』って言ってるのに!?」

「お友だちが『真昼ちゃんに』ってくれるんだから仕方ないでしょ? 着ないなら着ないで、古着屋で売るなりフリーマーケットに出すなりしなさい。そもそもあなたは昔からお洒落しゃれに無頓着すぎるのよ。昨日も文化祭だから上手にお化粧してるなって思ってたのに、アレ全部亜紀あきちゃんにやってもらったんですって?」

「亜紀ちゃんほんとどこまで喋っちゃってるの!?」


 真昼が嘆くのを見て、俺は自然とダブルピースをしているゆるふわ系少女の姿を頭の中で思い浮かべてしまった。

 そして真昼母は小さく息を吐いてから、「いい、真昼?」と続ける。


「お洋服やお化粧はともかく、身嗜みだしなみには常に気を配りなさい。夕くんに『可愛い』って思ってもらいたいでしょ?」

「!」

「うっ……」


 母娘おやこから一斉に見られ、思わず喉の奥でうめく。そんな話を目の前でされても、いったいどういう反応をすればいいのやら……真昼も恥ずかしかったのか、すぐにサッと顔をそむけてしまう。

 そんな俺たち二人を見てどこか満足げな表情をすると、母親はゆっくりその場で立ち上がった。


「それじゃあ言いたいことも言ったし、もう行くわね」

「あ……じゃあ駅まで――」

「ふふ、ありがとう、夕くん。でも大丈夫だから」


 文化祭の疲れを気にしてくれているのか、それとも別の理由ゆえか。見送りをしようとした俺の申し出をやんわりと断り、彼女は真昼の部屋で軽く身支度みじたくを整えてからうたたねハイツを出る。ならばせめてもと、俺と真昼もアパートの出入り口までり立った。


「じゃあね、真昼。また向こうに着いたら連絡するわ」

「うん、待ってるよ」

「それから夕くん、真昼はまだ一八歳未満こどもだから、出来ればはこの子がもう少し大人になってから――」

「お母さんッッッ!!」

「おほほほっ、またね~!」


 最後にとんでもないことを言い残して、旭日明あさひめいは上品かつ高らかに笑いながら去っていった。……どこまでも掴めない人だったな……。

 俺が遠い目をしながらも彼女の背中が見えなくなるまで見送ると、隣でいかり任せに両拳を振り上げていた隣人の少女が赤い顔のままこちらを見てきた。


「ご、ごめんなさいお兄さん。お母さん、昨日からお友だちと夜通しお酒を飲んでたらしくて……」

「ああ、やっぱり酔ってたんだな、あの人……」


 顔色には出ていなかったあたり、青葉あおばと違って酒には強いのだろうか? というか見た目だけじゃなく、やってることまで大学生と変わらないのか……良くも悪くも若すぎる。うちの母親とは大違いだった。


「……」

「……」


 ……き、気まずい。お母さんがいても若干気まずかったくらいのに、完全な二人きりになると余計に気まずい。「もう逃げない」と言っていたはず真昼もどうしていいのか分からないらしく、おどおどと顔を上げたりうつむけたりするばかりだ。まあお母さんも言っていたが、人間が「昨日の今日でハイ、変わりました!」といかないのはある種当然のことなのかもしれない。

 とはいえ、もちろんこのままというわけにはいかないだろう。果たしてどうしたものか……と考えかけた俺の脳裏に、つい先ほど言われたばかりの言葉がふとよみがえる。


『せめて今まで通り、この子のそばに居てあげて――』


「(……そうか、そうだよな)」


 俺は心の中で呟き、そしていまだ落ち着かない少女を見下みおろした。


「えっと……ま、真昼」

「は、ひゃいっ!?」


 声を掛けただけでびくんっ、と肩を跳ねさせる真昼。若干おびえているようにも見える反応に心がダメージをうが、つとめて気にしていないフリをしておく。


「……久し振りに、一緒に料理でもするか?」

「!」

「ほ、ほら、ここのところ真昼、文化祭の準備とかで忙しくしてただろ? だからその……た、たまにはどうかなと思ってさ」


 目を見開いた彼女に、やや早口で付け加える俺。なんだか、中学生が意中の女の子を遊びに誘うような言い方になってしまった気がする……しかし。


「――はいっ!」


 真昼が浮かべたの満面の笑みを見ると、そんな気恥きはずかしさなどあっさり霧散むさんしていった。胸の中に残るのは、隣人の少女に対する穏やかな感情だけだ。


「じゃあじゃあっ、この後一緒にお買い物に行きましょう! そして今日こそビーフストロガノフを作るんです!」

「いや難易度。前々から思ってたけど、君はやたらと外国の難しい料理にチャレンジしようとするきらいがあるね」

「大丈夫です! だって私、文化祭であんなに美味しいたこ焼きを作れるようになりましたし!」

「たぶんだけどその技術スキル、ビーフストロガノフにかすところないけどな」

「そんなあっ!?」


 コロコロと表情を変える彼女に、俺はそっと胸を撫で下ろす。

 俺たちの関係はこれから変わりゆくだろう。けれど同時に、これまで積み重ねてきた変わらないものだってきっとあるはずだ。

 俺と真昼のすべてが別の何かに差し替えられたわけではない――そんな当たり前のことをようやく理解した俺は、ぴょこぴょこと嬉しそうに歩き出した少女の後に続き、うたたねハイツの中へと入っていった。

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