第一四四食 旭日真昼と決意のお誘い②


「あ、あのな真昼まひる、なにをどう勘違いしたら俺が出家しゅっけすることになるんだよ……」

「ううっ……だ、だってぇ……!」


 呆れ顔のお兄さんに、私は恥ずかしすぎて消えてしまいたい気持ちをどうにかこらえていました。正座している膝の上でぎゅっと握り締めている両拳がぷるぷる震えているのが目に入ります。

 そんな私の前に、冷たいオレンジジュースが入ったガラスコップがコトリと置かれました。


「それに出家することになったとしても、その時はちゃんと真昼に話してから行くって」

「!? や、やっぱりお兄さん、出家の予定が……!?」

「いやねえよ。もしもの話だって」

「……分かりました。じゃあお兄さんが出家する日が来るまでに私、お赤飯せきはんの炊き方を覚えておきますね……」

「だからしねえよ。出家の門出かどでを祝おうとするな」


 お坊さんへの道案内を終えた後、私たちはそのままお兄さんの部屋まで帰ってきました。普段ならお夕飯を作る時間になるまでは自分の部屋で過ごすのですが……今日は別です。そのことについてお兄さんがなにも聞いてこないのは、お兄さんも今朝のことを気にしてくれているからか、それとも……?


「……? な、なんだ? 俺の顔をじっと見たりして……」

「ふぇっ!? い、いいいいえ別になにもっ!? みっ、見ず知らずのお坊さんに道を教えてあげるなんて、やっぱりお兄さんは優しいなと思いましてっ!?」

「はあ? い、いやあのお坊さん、このご時世に紙の地図持ってキョロキョロしてたから困ってるんじゃないかと思っただけだよ。あれがスマホの地図マップアプリ開いてるオッサンとかだったら声掛けてねえって」


 そう言ってお兄さんは「なにを言い出すかと思えば」と笑いますが……きっと世の中の多くの人は、あのお坊さんが同じように困っていても見て見ぬふりをするんじゃないでしょうか。私だって、「あのー、すみません」と尋ねられたならともかく、自分から「どうかしましたか?」と話し掛けられる自信はありません。

 思えば、私と初めて会った日もそうでした。家の鍵をくしてドアの前でうずくまっていた私に、お兄さんは同じように優しく声を掛けてくれたのです。


「(やっぱり優しい人だなあ、お兄さん……)」


 自然と頬が緩みます。私はきっと、この人のそういうところに――


「あー……そ、それはそうと、今日は悪かったな、真昼」

「え?」


 頬をきながら唐突に謝ってきたお兄さんに、私は思考を中断してぱちくりとまばたきをしました。


「ほら、今朝俺、真昼のこと怒らせちゃっただろ?」

「あっ……い、いえっ、あれは……!」

「本当にごめんな。正直に言うと、どうして真昼があんなに怒ったのか、まだよく分かってないんだけど……普段滅多に怒らない君があんな風に飛び出して行くくらいだ、自分でも気付かないうちになにか君に失礼なことをしちゃったんだよな?」

「そっ、そうじゃなくてっ……あうっ……!?」


 よほど真剣に考えてくれていたのでしょう、とても真面目なトーンで話すお兄さんに、私はあたふたと両手を振り回すことしか出来ません。ど、どうしましょう……こんなに真剣な顔をしているお兄さんに「お兄さんが私の気持ちに気付いてくれないことが悲しくて、ムシャクシャしてやりました」なんて、死んでも言えません。

 でもこのままではお兄さんの方が悪者だったということになってしまいます。本当は私のワガママのせいなのに……そんなの、絶対に嫌でした。


「あっ、あのお兄さんっ!」

「うおっ!? お、おう、なんだ?」


 いきなりカッ、と目を見開いて声を上げた私に驚きながらも、自分が悪いと思い込んでしまっているからか、お兄さんはすぐに話を聞く姿勢を整えてくれます。む、胸が痛い……。


「その……け、今朝のことはお兄さんはなにも悪くなくてですねっ!? むしろ謝らなきゃいけないのは私の方で……ほ、本当にごめんなさいっ!?」

「は? い、いやいや、なんでそうな――」

「それでですねっ!?」

「ハイッ!?」


 くわっ、と大声で言葉を遮った私に気圧けおされたように、お兄さんがピシィッ! とその場でのポーズをとります。……す、すみませんお兄さん、でも今、その話を深く掘り下げられるのは困るんです。

 代わりに私は鞄の中から一枚のプリント用紙を取り出すと、精一杯の贖罪しょくざいの気持ちを込めつつ、それを両手で差し出しました。


「こ、これっ――受け取ってくださいっ!?」


 なんかラブレターを渡してるみたいだ――と頭の冷静な部分で考えてしまって顔が熱くなる私。そしてお兄さんは「これは……?」と呟きつつ、私の手から用紙を受け取ります。


「〝文化祭のご案内〟……?」

「は、はいっ! まだ少し先なんですけど、どうしてもお兄さんに来てほしくて……!」

「は、はあ」


 このタイミングでこんなことを言い出した私にお兄さんは少し戸惑った様子でしたが、しかしすぐにプリントの内容に目を通してくれました。


「へえ、高等部は一日開催なんだな……真昼のクラスはなにやるんだ?」

「え、えっと、食べ物の屋台をやることになりました。一年生は体育館とかは使えないそうなので」

「はあ? そりゃまた旧態依然きゅうたいいぜんな……今時珍しいよな、そういう露骨な年功序列って」

「あはは、亜紀あきちゃんも同じこと言ってました。……え、えっと、それで……」

「ん、ああ。もちろん行かせてもらうよ。たしか体育祭の時にも約束したもんな」

「や、やった! ありがとうございますっ!」


 約束を覚えていてくれたことに心の中で感激しつつ、私はとんっ、と胸を叩いてみせます。


「お兄さんに楽しんでもらえるように、絶対すごい出し物にしてみせますからっ! 今日のお詫びも兼ねてっ!」

「あ、なるほど、そういうことか」


 謎のタイミングで文化祭にお誘いした私に得心いったように頷いてから、眉尻を下げて苦笑するお兄さん。


「お詫びって言われてもあんまりピンとこないんだけど……でも分かった。それじゃあ楽しみにしてるからな?」

「はいっ!」


 そんなお兄さんに、私はにっこりと微笑みを返すのでした。

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