第198話

「……まず、はじめにお伝えしておかなければならないことがあります。この話は今回の件について、貴方の心理状態とは関係ありません。また、私も医者として、貴方に対する医療行為として、これを今言うべきか判断に困りました。けれど、医者としての倫理と、貴方がこれから先の人生を歩んでいくために、知っておくべきことだと感じ、今回の一件について浅からぬことだと――つまり、貴方の身にそれが起こったときに、どうなるのか、知っておくべきだと思うからお話しします」


 何を言っているのか分からなかった。


 俺は、廸子に付き添われて、阪内にあるかかりつけのメンタルクリニックに、急いでやって来ただけだった。


 職業訓練校の教官から言われ、動けない俺を見かねた廸子と親父が、車と電車で俺を運んで、ようやくやって来ただけだった。


 俺はここで、おそらくまた、就労不能の診察を受ける。

 そして、しばらくの静養を言われることになる。

 あるいは、入院を言い渡されることだろう。


 そんなことを予想していた。


 そして、ようやくこの未来の見えない絶望の底に背中を打って、復活への浮上を始めるのだろう。


 情けないことに、いろいろな人の力を借りながら。

 子供ができるというのに、へろへろになりながら。


 そう思える程度には回復していた。


 幸せあるいは不幸せは、まるでその時を選ばないように突然に急転する。


 それを知っていたのに。


「豊田さん、それと幼馴染みさん――いえ、今は奥さんですか。よく聞いてください。豊田さんが飲まれている抗不安薬は二つありますが、そのどちらも、服用している方に集中力の低下と眠気を誘発する副作用があります。薬局での処方箋にも記載されていると思うのですが、このお薬を服用される場合、原則」


 車の運転は禁止されています。


 主治医は冷たい顔で俺に言った。


 今まで俺に対して、とりとめのない話を聞き、薬を処方するだけだったと思っていた目の前の医者が、やっぱり医者なのだと自覚した瞬間だった。


 彼は、患者と、そして自分の医療行為に責任を持っている。

 社会的な責任を持とうとしている。

 そうでなければ、俺にこんなことを告げはしないだろう。


 彼はただ、俺に心を楽にする薬を与え、俺という患者をカモにしている悪徳医などではなかったのだ。

 ちゃんと俺のことを考えていてくれていたのだ。


「今回の件、貴方は事故に直接的な関係はありませんでしたが、加害者・被害者になった場合、道路交通法第66条に抵触します。これは仮定の話でも、悲観的な観測でもなく事実です。加害者であれば、最悪の場合で危険運転致死罪、被害者であっても集中力の減退が過失の割合に加味されることがあります」


「……それじゃ、先生は僕に車を運転するなとおっしゃりたいんですか。無茶言わないでください。田舎で、車も運転せずにどうやって生活していけばいいんです」


 先生は目頭を押さえた。

 俺の言葉に呆れているのではない。

 何かもっと深いものに絶望しているように俺には見えた。


 おそらく。

 彼はきっと、こんなことを何度も色んな人に告げてきたのだろう。


 俺のように、田舎に帰った人間に。

 車社会に戻らざるを得なかった人間に。


「もちろんこれは法制度の不備として長らく論じられてきています。けれども、現状これが精神病患者の置かれている状況なのです。医者も、その辺りを考えて、患者が抗不安剤を服用開始する前後に、車の運転を控えるように注意をします。現実的に、車社会の田舎において、車を使わず生活することは不可能です。私たちは、薬の危険性を充分に周知させた上で、法のグレーゾーンに貴方たちを置くことしかできません。車社会で生きる事を選んだ貴方たちの行動について、その判断も含めて自己責任として委ねることしかできないのです。豊田さん、貴方の場合、この薬の投薬を開始した際、まだこちらで療養をしていました。車にも乗っておられませんでした。なので、この話をすることもなく、薬に対する理解もないまま車に乗られていたんだと思います。これは私の落ち度です、申し訳ございません」


「……先生が、謝るようなことじゃ」


「その上で、あえて言わせていただきます」


 豊田さん、貴方は今、運転して良い状態ではありません。


 それは、俺に玉椿町で生きていくことを諦めろという死刑宣告であった。

 同時に、再生への道がすべて閉ざされる、人生の死刑宣告であった。


 身体から力が抜けそうになった所を、廸子に支えられる。

 俺のことを心配そうに見つめる彼女の顔を、俺は、まともに正面から見ることはできなかった。


◇ ◇ ◇ ◇


「……お義父さん、駅まで迎えに来てくれるって。事情も説明した。しばらく、外出にはお義父さんが付き添ってくれるってさ」


「……ごめんな、廸子。お前、こんなことしてる場合じゃないのに」


 近鉄なんば駅のホーム。

 鳥羽行きの特急列車を待ちながら、俺は廸子に謝った。


 気がつけば五ヶ月目に入り、お腹の膨らみがいよいよ目立つようになってきた彼女は、俺の顔をのぞき込んでそれから手に指を絡めてきた。


 きつく彼女は俺の指先を締め付ける。

 しっかりしろよという激励か、それとも俺を逃がさないという思いからか。

 なんにしても、俺にはその痛みが、とてつもなく辛かった。


 妻にこんな顔をさせてしまう、情けない自分が、とても許せなかった。


 そもそも、どうして、俺はあの時、竹岡さんに駆け寄ったのだ。

 他の人たちと同じように、遠巻きに覗いていればよかったのだ。

 彼の人生に、どうしてこんなにも、深く俺は引きずり込まれているのだろう。


 俺には守るべき妻も、子供も、家族もいるというのに。


 なのに、どうして。


 いや、分かっているんだ。

 その答えは、とっくの昔に分かっている。


 俺は、竹岡さんの人生に、自分の人生を重ねていた。


 俺と同じように、就職に苦労して、人生に躓き、薬こそ飲んではいないけれど、怠惰と惰性と諦観を胸に、運命に流され生きる彼に、将来の自分を重ねていたのだ。


 だから彼が死んだときに、自分が死ぬような恐ろしさを感じた。

 彼の死に、自らの未来の結末、その一端を見た気がしたのだ。


 そして今、俺はその死に確実に引っ張られている。


「……電車、来たな」


「……あぁ」


「駅弁とか買うべきだったかな。あ、勿体ないか。家で、九十九ちゃんが何か作ってくれているだろうし」


「家に帰って食べよう。今日のことの報告もあるし」


「……うん!!」


 廸子のために、俺はちょっとだけ元気を出して嘘を吐いた。

 ようやくなんとか歩けるくらいまで回復した俺は、もはや出がらしのようになってしまった気力を振り絞って、彼女に笑顔を向けた。


 並んで、橙色をした近鉄特急へと乗り込む。

 平日のそれは空いていて、窓側の席に廸子を、通路側の席に俺を乗せて、ゆっくりと南に向かって走り出した。


 地下を抜けて、薄暗い大阪の町を走り出す橙色の近鉄特急。

 過ぎ去る景色を眺めながら、廸子はまた俺の手を握る。


「大丈夫だよ、陽介。車の運転ができなくても、もし、何かあったとしても、アタシは味方だから。アタシも、爺ちゃんも、おじさんたちも、千寿サンも、美香さんたちだっているんだから。だから、何も、心配しないで」


「心配なんてしてないさ。ただちょっと、驚いているだけだよ」


 疲れた、とは、言えなかった。

 もう何もかもに疲れているとは廸子に対して言えなかった。


 やっと廸子と一緒になれた。

 思いがけず子供だって出来た。

 守るべき家族ができて、そのためにこれから生きていくつもりだった。


 けれども、その生きていくための手段を。

 あの玉椿町で、皆に支えられて生きていく未来を。


 俺は今日、根本から奪われた。


 幸せと不幸せはいつだって気まぐれにそのあり方を変える。


 昨日までの幸せは、唐突に俺を縛る鎖になる。

 あの、幸せな玉椿での日々は、その中で生きていけないという現実を突きつけられた今、ただの劇薬に成り果てた。


 車を運転できない。

 したとして、万が一にも事故を起こせば、贖えぬ罪を背負う。

 そんな俺に、いったいどうしてこの先、生きていくことができる。


 廸子と、子供と、親父とお袋と、姉貴とちぃちゃんと、誠一郎さんと九十九ちゃん。その生活を破壊するかもしれない爆弾を抱えて、俺に生きていけるのか。


 仮に車を必要としない職業に就いたとしよう。

 そんな仕事は限られている。


 内職、テレワーク、自営業。

 どれもこれも不安定な収入を余儀なくされる。

 生まれてくる子供と廸子に、どれくらいの迷惑をかけることになる。

 家族に借金を頼み込むことになるのだぞ。


 最悪、都会に出るという手もある。

 けれど、いったい俺のような、仕事人としての落伍者を、雇うような会社があるのだろうか。


 職業訓練校も途中で逃げ出したような人間に。

 薬でかろうじて生にしがみついている男に。

 家族を養うということにここまでの恐怖を感じている男に。


 いったい何ができるのか。


 考えれば、考えるほど、思考は深みへと落ち込んでいく。


 ただ――。


「陽介? 大丈夫? やっぱり、まだ、気分悪い?」


「……大丈夫だよ」


 罪のない、廸子と彼女のお腹の子供だけは、巻き込むことが出来ない。

 彼女たちを俺のこのどうしようもない感情に巻き込んではいけない。


 それだけは、弱り切って、摩耗しきって、どうしようもない状態の俺でも理解できた。そこだけは守り切らなければならない一線だと、俺は感じていた。


 ふぁ、と、廸子があくびをする。

 すぐにごめんと彼女は俺に謝ってきた。


「こんな時なのに、あくびなんて。ダメだな、看護師時代に鍛えたんだけどな」


「いいよ、もう、後は家まで行くだけだから。電車の中くらい寝てなよ」


「……大丈夫?」


 顔をのぞき込まれる。

 不安な顔だった。

 起きたら、居なくなっているんじゃないか、どこかに行ってしまうんじゃないか、そんなことを考えているのがすぐに分かった。


 廸子は分かりやすいんだ。

 いつだって、彼女の考えていることは分かる。

 

 だから、俺は、さっき彼女がしたように、その手を強く握り返す。


「大丈夫。起きるまで、ずっと手を繋いでるから。ずっと一緒にいるから」


 そう言うと、ようやく、彼女は、安心したように頷いて、静かに瞳を瞑った。


◇ ◇ ◇ ◇


 俺が処方して貰っている薬は三つある。


 二つは先に述べたように抗不安剤。


 そして、残り一つは、どうしても眠ることができない俺のために、処方して貰った睡眠導入剤である。


 効き目はよくない。

 俺の身体が慣れたのか、それとも、薬との相性が悪いのかは分からない。

 その効果について、常々疑問に思っていた。


 先生が言うには、作業中にもかかわらず急に眠る危険性があるので、絶対に間違えて飲まないことだそうだ。


 それを、粉末にして味の濃いカフェオレの中に混入すると、俺はなんば駅を出発する前、ホームで待っていた廸子に飲ませた。

 お腹の子に、悪い影響を与えるのではないか。

 ギリギリまで悩んで、結局、彼女に飲ませた。


 その効果がようやく現れた。


 大和高田を告げるアナウンスが電車の中に満ちる。


 頭の上から降り注ぐ、軽快な近鉄電車の到着音。

 それを聞きながら、廸子が起きないように、そっと俺は指先を離した。


 最後に――本当に最後に、俺は彼女のお腹を撫でた。


 ごめんな、ひどいお父さんで。


「お母さんと、元気に生きてくれよ。それだけで、俺は幸せなんだから」


 俺は、妻と子供に最後の別れを告げて、近鉄特急の座席から立ち上がった。そして、大和高田の駅に停車しようと減速する電車の中を、ゆっくりと歩いて出入り口の方に向かった。


 人が自殺するのは絶望の淵にある時ではない。


 絶望の淵を俯瞰する冷静さが戻った瞬間だ。


 自殺という重たい行為を、実行する気力が身体に満ちたときだ。


 かつて、俺はそう、リワークのセミナーで教えられた。


 はたしてそれは事実のように思う。


 このおそらく逃げ出すことのかなわない、地獄のような日常の果てに、唯一の安息を得る方法があるとするならばこれしかないだろう。

 あの日の、竹岡さんの言葉が、頭の中に木霊する。


『……よかったよ、高い生命保険賭けておいて』


 幸いなことに、俺の命には二千万の価値はある。

 それだけあればきっと、廸子も、お腹の子も、幸せに暮らしていけるだろう。


 ごめんな、廸子。


 ごめんな。


 弱い夫で、ごめん。


 大和高田のアナウンス。

 降りる者は少なくて、乗ってくる者の姿も少ない。

 ゆっくりと内側に開いた乗車口。


 列になっている僅かな乗客を眺めながら、俺は人生を終わらせるための一歩を踏み出した。


 踏み出そうとした。


「あい、ちょっとすみません。すみませんね、急いでるんです、ごめんなさいね」


 彼は、突然、俺の前に現れた。


 俺の胸ぐらを掴んで、後ろに並んでいる乗客の間を縫って。


 そして、そのまま、乗車口の近くにあった、トイレの中に俺を連れ込むと、挨拶代わりに一発と、俺の下腹部に強烈なジャブを入れた。


 物理的な痛みに、身体がしびれる中、目の前の男は笑う。


 白いスーツ。

 白い中折れ帽子。

 前時代的な美的センスを持ったそいつは。


「よう、陽介。久しぶりだな。元気にしてたか」


「……松田ちゃん!?」


 俺の友達だった。


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