第184話

 エロ漫画なんて読んでたら妊娠検査薬の使い方なんて男でも分かる。


 湯上がり。

 二人でシャワーで汗を流して、やらしいこともせずにバスローブに着替えると、俺たちはベッドの上に腰掛けてそのパッケージを開いた。

 簡単に使い方を説明してから、折りたたまれた取り扱い説明書を指さしで確認する。既にいろいろとテンパっている廸子にはこれくらいのフォローが必要だった。


「……なんだか、こう、変な感じだな。いやらしいっていうか、なんていうか」


「そうだよな、使い方がやらしいよな、これ」


「……うぅっ」


「今日はなんていうか乙女モード全開だな廸子」


「しかたないだろぉ。こんなのさぁ、アタシ、初めてなんだから」


 耳先まで顔を真っ赤にする廸子。

 絶妙な色気を発揮する純白のバスローブに包まれた彼女が首を振れば、金色の髪から新鮮なシャンプーの香りが放たれる。


 かわいらしい、と、素直に思える仕草。

 だが、乾いた作り笑いしか俺にはできなかった。


 もし、その気配を廸子に悟られてしまっていたら。

 考えるだけ怖気がする。


 きっとそれは、男として見限られる行いだ。


「……と言う訳で、廸子さん、あとはご自分で頑張ってください」


「うぅっ、こればっかりは、やっぱ一人だよな」


 良い感じにシャワーの熱が抜けた所で彼女をトイレへと送り出す。

 妊娠検査キットを持って個室に入った廸子。


 ばたりという音を立てて戸が閉まったのを確認する。

 少しだけ緊張の糸がほぐれたのだろう、俺は自然に頭を抱えていた。


 覚悟は決めてきたはずではなかったのか。

 内なる正しい自分が問いかけてくる。

 もちろん、そのつもりだったさ。


 けれども、自分が父親になるというプレッシャーに、悩まぬ男がいるだろうか。あるいは、なんの憂いもなく彼女を嫁として迎え入れることができる、順風満帆な人生を送っている人間がどれほどいるだろう。


 俺は、弱い男だ。

 定職にもついておらず、今後つけるかもわからない。

 目の前の彼女を、守る守ると口では言いながら、力のない情けない男だ。


 情けないだけならまだいい。

 結果として、もう引き返せない場所まで来ておいて、こうして心の中で後ろめたい懺悔と打算をしている男なのだ。


 どうして、平気でいられるものか。


 けれども不安は俺の幼馴染み――子供をお腹に宿している廸子の方が大きい。

 彼女が抱いている、これからの人生への不安、そして、お腹に宿った生命に対する責任感の方が、俺の感傷などよりよっぽど深刻だろう。


 だから彼女の前で、弱気を見せてはいけない。


 薬も、今日は抜いてきた。


 普段ならば昼に飲むべき抗不安剤を抜いて現実に直面する。

 というか、もう薬なんて効かないだろう。


 気持ちを軽くすることなんてできない。

 これから生まれてくる生命に対しての感情を、薬でごまかすことなんてことは最大の冒涜であるように感じた。


 もっとも、薬を一錠抜いたくらいでどうこうなるはずない。

 不安症に対する治療は、慢性的に患者を薬漬けにすることで刺激から守ることであり、それは日々の投薬によって完成する。自分の行為は、ただ、廸子とそのお腹の子に対する自己満足以外のなにものでもなかった。


 トイレの、扉が開く。

 廸子が濡れたそれを手に持って、俺の方へと近づいてきた。


 恥ずかしそうなのは仕方ない。

 確かに、それは異性に対して差し出すのに勇気の要る道具だった。


 判定結果を現わす、丸い窓を眺める。

 傾けると結果がおかしくなると説明書で読んで、俺たちはそれを限りなく水平な、ベッド横にある机の上に置いて眺めた。


 スタンドの光に照らされた白色の棒。


 その判定窓に――ゆっくりと黒い筋が入る。

 横にある、終了の窓にも筋が入る。


 それは、もはや疑いようの余地がないほどはっきりとしたもので、いっそ、俺の不安を打ち砕くほどの明瞭な結果だった。


 廸子が動く。

 俺の顔を見ようとしたのだ。

 すぐさま俺は顔を造った。


 笑顔は、ちゃんと練習しておいた。

 彼女に見られても問題のない笑顔を。


「……陽介」


「……やったな廸子」


 何か言いたそうな廸子の口を無理矢理塞いで、そのまままベッドへと押し倒す。

 こんな場所なのに、お腹に子供がいることを思えばそんなことはできない。なにより、不安が頭に押し寄せて、俺の下半身は正常な男性機能を失っていた。


 その代償とばかりに、俺は廸子の身体を強く抱きしめた。

 そして、情熱的なキスを求めた。


 舌を絡めて、歯茎がこすれるほどにむさぼり、唇を味わう。

 意図して作られた熱狂に、ひとしきりの折り合いをつけた俺たちは、抱き合ったまましばし見つめ合った。


 廸子の眦から一条の涙が流れる。

 なぜ泣くのか。


 それを問うのに間が空いてしまったのは、痛恨の極みであった。


「陽介、あのな。無理、しなくても」


「無理な訳があるかよ。お前、俺は嬉しいんだよ。よく考えてみろよ、俺たちもういい歳なんだぞ。これから結婚して、家庭を持ったとしても、子供なんて授かれるかどうかわからない。なのに、こんなの、幸せ以外のなんだっていうんだよ」


「……そうだけれど」


「廸子。何も心配するな。俺も男だ、親になったからにはちゃんとする。いや、親になる前からちゃんとしなくちゃだけどさ。けど、お前とお腹の中の子供を幸せにできるよう、筋は通すし仕事もどうにかするよ。だから、な、安心してくれ」


 本当に安心したいのはどっちだろうか。

 廸子ではなく、俺なんじゃないのか。


 そういう安心した生活を築けるのだと信じたいだけじゃないのか。


 俺の未来に、そんな保障は少しもないのに。

 今まさに、この現状がその証拠。口だけ、何も築けずどうにもできなかったからこそ、こんなことになっているというのに。


 けれども、彼女たちのために。

 愛する二人のために。

 俺は父親になくてはならない。


 泣き言など言っている場合ではない。

 俺は、彼女たちを幸せにしなくてはならない。

 その義務を、もう負ってしまったのだ。


 逃げることは許されない。

 逃げてはいけない。


 そして、この覚悟を廸子に悟られてはならない。

 どこまでも、俺は、この暗い感情を隠し通さなくてはならない。

 でなければ、どうして目の前の彼女が幸せになれるのか。


 こんな未来を思い描いていなかったと嘆く姿を見せつけられ、相手がどんな顔をするのか。どう絶望するのか。

 想像できないほどに俺の頭は幸福にできていない。


「……陽介」


「一緒に生活しているから、もう気づいているかもしれないけれど、まずは誠一郎さんに挨拶しに行こう。それから、親父達にもちゃんと話をしよう。役所に書類を出すのもすぐやろう。俺、確か来週、職業訓練休みだったはずだからさ、その日に」


「……うん」


 廸子が、ようやく安心したように、俺の胸に顔を埋めてきた。

 背中に回した腕で、強く俺を抱き留めてくる。


 繋がれないさみしさを表面積で補うように、俺の身体にしがみついた幼馴染みは、再び顔を上げると熱っぽい顔をして瞳を潤ませる。


 いいんだよね、と、彼女は囁く。


「いいんだよね、この子を産んでも。いいんだよね、私たち、結婚しても」


「いいに決まっているだろ。なに言ってんだよ廸子」


 廸子。

 もし、俺が、そこで、待ってくれなんて言ったらどうするんだ。

 

 俺たちの間には、決してもう、修復できない溝ができてしまうだろう。 

 なによりも、お腹の子供にいったいなんの罪があって、俺のエゴに付き合わせなくちゃならないんだ。そんなことは、いくら俺でも許せない。


 いくら俺でもできない。


 優しく、俺は廸子の腹を撫でる。

 ガウンの隙間から、ゆっくりと手を忍び込ませて、臍のくぼみを確認しながら指先を這わせると、廸子は恥ずかしそうに瞳を閉じた。

 耳が赤く染まるのを眺めて、俺はまた何を求めるように廸子の唇を貪った。


 求めているのは、許しか。

 安息か。

 愛か。


 どうしたいのか分からない。

 けれど、どうすればいいのかは分かる。


 ただその、分かることに従って、俺は男として父として振る舞った。

 豊田陽介としての何かが壊れていく音を聞きながら、それでも目の前の幸せを守りたくて、精一杯、自分には過ぎたそれを演じた。


 それはこれからも続くことになるだろう。

 この幸せを守ろうとする限り。


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