第183話

 運命の日は唐突にやってこない。

 軍靴で人生という名の道を乱暴に踏みならして徐々に近づいてくる。


 そもそも、妊娠初期の状況で極端に体調を崩していた廸子が、次の生理がくるまでの約一ヶ月を無事に過ごせるはずがなかった。


 彼女の身体の調子にまったく頭を巡らせることができなかった俺は、自分自身の浅慮さにほとほと嫌気がさした。

 日ごとやつれていく廸子を車に乗せ、時に途中で停車して彼女が嘔吐するのを眺める無力感は、確実に俺の心をむしばんだ。


「ごめんね、陽介」


「あやまることなんてなんもないよ。むしろ、頑張っているお前に、なんもしてやれなくて、俺の方がごめんなさいだ」


「……うん」


 立てるかと尋ねて廸子の身体を引き起こす。

 子供一人増えたはずの身体は妙に軽く、この場限りではなく、彼女が日常生活の中で苦しんでいることが窺えた。


 慰めることくらいしかできない。

 そんな自分が恨めしい。


 いっそ、彼女の苦しさを俺が代わってられたなら。

 そんな非現実的なことまで頭を過る。

 もっとも、そんなナーバスな思考は、目の前の幼馴染みをこれ以上不安の縁に立たせないために、秘めるべきことだった。


 こんな調子だから、最近、バイトのシフトの時刻に遅れることも多い。


「……廸ちゃん、最近ちょっと遅刻が多いぞ?」


「すみません千寿さん」


「あー、姉貴、ごめん。俺がちょっと途中で調子崩しちゃってさ、立ちションしてたらこんなことなっちゃっ――てててててて!!」


「小学生みたいなことをしてるんじゃない!!」


 コブラツイスト。

 ぎりぎりぎりとキメられた関節が悲鳴を上げる。

 必死にマミミーマートの床をタップしてババアの身体から逃れると、俺は何すんだよと抗議した。


 ふざけながらも、俺を見るババアの視線につい考えてしまう。

 その視線は、どういうことなのだろう、妙な気遣いに満ちている気がした。

 廸子の身体のことに気がついているのだろうか。


 ババアもなんだかんだでお母さんだ。

 彼女からすれば、廸子の調子が悪いことくらい察しがつくのではないか。

 そしてその調子の悪さがどういう類いのものなのかも分かるのではないか。


「まぁ、いいがな。しかし、最近夜の方のシフトもちょっと少なくなってきている。大丈夫なのか廸ちゃん? こんな調子で、生活していけるのか?」


「あぁ、それは、大丈夫です。問題のない範囲でやってますので」


「九十九ちゃんも増えて大変なんじゃないのか?」


 こちらを痛めつけたことなど忘れて世間話に興じ出すババアと廸子。

 この様子なら、まぁ、妙な流れになることはあるまい。

 俺は二人を信じると、マミミーマートを出て車に乗り込んだ。


 時刻は八時過ぎ。

 職業訓練の開始時刻に、遅れるかもしれないという頃だった。


 まぁ、遅刻しても、多少であれば許される。

 今日は座学だったし問題なかろう。


 こんな調子で本当にいいのか。

 頭の片隅に浮かんだ疑問を俺は一旦、記憶という名の抽斗の奥にしまった。


◇ ◇ ◇ ◇


 夕方。

 いつもよりちょっと速く俺はマミミーマートに入ると廸子を拾う。何も知らない夏子ちゃんに挨拶をして、それじゃぁあとはよろしくとレジを任せると、廸子と二人して峠を走る。


 そのまま廸子の家に向かわない。

 今日は、どうしても確認しなくてはいけないことがあった。


「……大丈夫か? 気持ち悪くないか?」


「お昼控えめにしたから、なんとかって感じかな。日に日に食べられるものが少なくなってきて、そっちの方がちょっとしんどい」


「ちゃんと食べろよ、って、そんなのお前が一番分かってるよな。なんかこう、食べやすいものとか町で買ってこようか」


「大丈夫。今日でいろいろはっきりするから」


 生理予定日から二ヶ月と一週間。

 俺のグローブボックスには、まだまだ半分も使っていないコンドームと、妊娠検査薬が入っていた。


 向かうところは玉椿町のラブホテル。

 俺たちが初めて一線を越えた、ミント・パート2であった。


 まだ、夜のとばりが降りていない玉椿の山道。

 対向車線および後ろに車がいないことに留意してその駐車場に入る。

 平日だというのにそこそこ賑わっている。

 駐車場は八割方車で埋まっていた。


 これで部屋まで埋まっていたらどうしようかと思ったが、幸いにも三部屋が空いており、その中には、俺たちの思い出の部屋もあった。


 逡巡する間もなく、俺たちはその部屋を選ぶ。

 二ヶ月前より手慣れた感じに廸子をエレベーターにエスコートして、俺たちは部屋のある階へと向かった。


 ちょっとした重力、気圧の変化にも、廸子は顔をゆがめる。

 人の目ももうない。俺は彼女を後ろから抱きしめると、そのお腹の中にで眠っている新たな生命を、慈しむように手を添える。

 廸子が、不安な表情をしてこちらを振り返る。


「大丈夫。何も心配することなんてないから」


「……陽介」


 何が大丈夫だというのだろう。

 自分が無責任な口だけ野郎だというのは、ここ数十年、社会に出てから嫌というほど思い知ってきた。

 だが、今日ほど空虚にこの言葉を吐き出したことを後悔したことはない。


 俺たちは問題だらけだ。


 無職、現在職業訓練中、精神系の病気持ちの甲斐性なし男。

 正社員でこそあるが、コンビニ勤務という不安定な仕事をしている女。


 家族に頼れるモノはなく、女には介護をしなくてはいけない祖父がいる。男には出戻ってきた姉がいる。女との新生活を支援する余力は、男の親類にはない。


 こんな状態で結婚できるのか。

 愛があればなんて言葉で現実を誤魔化すことはできる。

 けれども、そんなおためごかしの先にお腹の子の幸せは存在するのか。


 あまりに無責任。

 もし目の前に自分がいたら、汚い言葉で罵倒している。

 お前はいよいよ現実を直視することさえもできなくなってしまったのか。

 情けない。


 けれども本当に情けないのは、現実を直視せず、愛という大義名分で自分を誤魔化して、幼馴染みに無責任に優しい言葉をはき続けることだ。


 どうにかなってしまいそうだ。


「……陽介。あのさ」


「結婚式はしばらく無理だから、どっかに旅行に行こう。姉貴に言ったら、遊びすぎだって怒られそうだけれど、まぁ、それは俺が関節キメられてなんとかする」


「アタシも心配でいろいろ調べたんだ。そのさ、アタシ達にとって何が幸せなのかって。やっぱり」


「そうだ。美香さんと実嗣さんの新居を探すときに、町役場の人からいろいろ聞いたんだよ。二人暮らしするにはいい物件が結構あってさ。玉椿町、下手な都会よりよっぽど安い家賃で家が借りられるぜ」


「……陽介」


「まぁ、俺が就職しないと借りられないだろうけれどさ。けど、親子三人で、広い家で暮らしたいよな。庭付きのさ、縁側があるような、そんな家でさ」


 それを廸子の口から言わせたくなかった。

 いくら自分たちの生活のためとはいえ、そんな言葉を彼女に言わせたくない。


 これだけが俺の矜持だった。

 もはや、何もできない。

 生死のギリギリの縁に立っていて、脚を滑らせればまた深い精神の闇の中に転げ落ちそうな俺が、彼女に言ってやれることはこれくらいだった。


 エレベーターの扉が開く。

 カードキーを持って、目的の部屋の前まで移動する。


 荷物をベッドの脇に置いて、ふぅと一息を吐く。


 暑い日だった。

 ちょっと駐車場を歩いただけだなのに、汗ばんで衣類が身体にまとわりつく。


「気持ち悪いだろう、まず、シャワーを浴びよう」


「……うん」


 それが、俺たちの未来を遠ざけるために無意識に出た言葉なのか。

 それとも本心で廸子のことを気遣って出た言葉なのか。

 笑っているだけで精一杯の俺には、もう何も分からなかった。


 遅かれ、速かれ、今日、すべては判明する。

 今日、いろいろなことが明らかになる。


 そして、おそらく、廸子が妊娠していても、していなくても。


 俺が彼女にとってふさわしい男なのかどうか、それすらも明らかになる。


 身体の中で冷たい感情がうごめいているのが分かった。

 そんな感情が許されるのか、俺には分からない。


 大人になることこをこの歳まで逃げてきた俺には、それが分からない。

 ただ、一つ、言えることは。


 俺は廸子も、廸子の子供も失いたくない。


 自分が人間としてふがいないばかりにそれを失うのを恐れている。


 それだけは間違いなかった。

 間違いないと思いたかった。


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