第179話

 職業訓練への参加に伴ってクリニックの受診日を平日から休日に変えた。

 転院も考えたが、俺が精神的に不安定になった時から付き合いのある先生と別れることは、新しい生活におけるストレス因になるだろうと考えられた。


 なので、あえて落ち着くまでの間は阪内の病院に通うことを選択した。


「どうですか、豊田さん職業訓練の方は?」


「そうですね。まぁ、まったく新しい分野でついていくのが精一杯です。身体を動かす職種なのも相まってしんどいですね。これまでの怠惰が尾を引いてます」


「そうですか。まぁ、長いことお休みしてましたから。けど、幼馴染みさんなんかと会話はしてらっしゃったんでしょう? あと、図書館通いも?」


「それとこれとはやっぱ別です。とても疲れます。とはいえ、仕事じゃもっとそんなこと言ってられないんでしょうけど」


「豊田さんの悪いところはその真面目な所ですよ。仕事はあくまでお金を貰いに行くところなんですから、そこまで生真面目になる必要はありません。もっと力を抜いていきましょう。でないと、また潰れてしまいますよ」


「……そうですね」


 さて、他に相談しておきたいことはありませんか、と、担当医は俺に尋ねた。


 頭の中にずっと、相談するべきか悩んでいたことがある。

 それを聞くべきか悩んでいたことがある。

 けれども、それは本当に聞くべきことなのか――。


 それについての判断は、誰かに委ねるべきことではない。

 そんな疑念もまた、俺の中にあった。


 このとき、ギリギリのせめぎ合いで、結局後者が競り勝った。

 これはもう逃げてはいけないことなのだと。

 俺が飲み込まなければいけないことなのだと結論づけた。


「いえ、大丈夫です」


「……そうですか。では、お薬については、いつも通りということで」


「はい」


 いつも通りの診察は、いつも通りのやりとりを経て、いつも通りに終わる。社会復帰に向けて頑張りましょう。決まり文句を唱えて、俺と主治医は別れた。


 心療内科に通う中で、何度となく考えたことはある。

 このやりとりに果たして意味はあるのだろうかと。


 毎度、紋切り型の答えが返ってくるこの診察に治療の効果があるのか。

 実質、俺は薬をもらいにここに来ているだけではないのか。


 けれどもそれを考え出すと、また、同じ事を繰り返すのではないかとも。


 少なくとも、主治医は俺の病状の善し悪しを一度は見抜き、社会復帰が時期尚早であることを言い当てている。


 頭を振って、疑念を振り払う。

 彼を疑ってなんになるのだろう。


 俺はただ、この病と愚直に向き合うしかないのだ。

 廸子のためにも、彼女のお腹の中の子のためにも。


 はやくまともにならなくてはいけない。


 止まっている暇はない。

 迷っている暇はない。

 寄り道はもうできないのだ。


「ありがとうございました」


 そう言って俺は診察室を出た。

 担当医は何も言ってはくれない。


◇ ◇ ◇ ◇


「すまねえな陽介。俺、今ちょっと仕事で九州の方に行っていてさ、会うのちょっと難しいわ」


「……そっか。松田ちゃん、暇してんなら一緒に食事でもと思ったけれど、なんか忙しそうだね。というか、最近玉椿に顔を出さないとこからそこはお察しか」


「察しろ察しろ。お前ねえ、俺も結構なんだかんだで生きていくのにいっぱいいっぱいなのよ。働かざる者食うべからずって奴なのよ」


「やめて!! その昔からある理論だと俺は餓死してしまう!!」


「だったら働け!! いや、働こうとしてんだっけか? なんにしても、就労許可はでたんだってな。おめでとさん」


 クリニックのある最寄り駅のホームで、電車を待っている間に俺は松田ちゃんに電話をかけた。なんでかなんて分からない、気がついたら電話をかけていた。


 会いたいというのは本当である。

 ここ最近、玉椿に顔を出さなくなった友人の顔を、せっかくなので見ておきたかった。彼が元気にしているのか気になったし、積もる話もたくさん合った。

 なんだかんだで、俺は松田ちゃんのことを信頼している。


 梅田に出て、阪急に乗り換えるにしても、そのままJRで移動するにしても、神戸はそう遠くない。一時間もせず着く距離である。


 コーヒーでも飲みながらバカな話でもしたい。

 そうしたら、ここ数日の気鬱もよくなる。

 そう思ったが、いかんせん、松田ちゃんが神戸にいない。


 本当に、残念である。


 駅のベンチに腰掛けて、大阪の町並みを眺めながら俺は電話を続ける。


 昼前。

 照りつけるような太陽の光は、玉椿と違って黒色のコンクリートをもろに熱して、逃げ場のない熱気を作り出す。

 蝉とは違う騒がしさに揺れる世界。

 それを眺め降ろしながら、俺はもうちょっといいかいと松田ちゃんに尋ねた。


「なんだよさみしがり屋かよ。どうした、なんかあったのか」


「いやうん。こういうの、誰に相談するのがいいのか分からないんだけれ」


「あ、俺、そういう仕事してるから、別途料金発生しちゃうけれど、よろしくて?」


「いいじゃん、友達じゃんよ。ちょっとくらい、友達の悩みを聞いてくれてもいいじゃないのよ。というか、冷たいな松田ちゃん、冷たい」


「人生とは厳しいのだ。たとえ友達といえども情け容赦は無用というもの。って、流石に可哀想か。なんだ言ってみろ。自慢か、惚気か、それともお悩み相談か。仕事中だけれども、暇してるから言ってみそ」


「……廸子とSEXしちゃって」


 ぶっと、向こうでコーヒーを吹き出す音が聞こえた。


 松田ちゃんが盛大にコーヒーを吐き出し、その白色のスーツを台無しにするのが目に浮かんだ。これは、ちょっと言うタイミングを間違えたな。


 というか、そんな驚くようなことか。


「……お前ねえ、今はまだお昼前でございますよ。さかってんじゃないのよ、こんな朝っぱらから、彼女といたしたいたしてないって」


「いや、ごめん、松田ちゃんがコーヒー飲んでるとは思わなくて」


「そりゃ悪い。俺も会話に専念するべきだったと後悔しているよ。ただお前、それをいちいち俺に報告するかね。俺はいったいお前のなんだってんだ」


 友達じゃないの。

 いや、友達にそんなこと、いちいち報告するのは変か。


 前にもっと酷いことを相談した思い出があるけれども、やっぱり変なのかね。

 まぁ、言ってしまえば俺と廸子の間に何があろうと、それは松田ちゃんの人生には関係のないことだからな。そんなの相談されても困るか。


「なるほど、つまり惚気か。ついに幼馴染みちゃんを抱いたっていう惚気か。はいはい、あの狭い町じゃ下世話な話はできんよね。どこに耳があるか分からん」


「いや、そういうことじゃなくてね」


「陽介、お前が童貞なのは、別に今更説明されなくてもよーく分かっている。そして、初めての経験の喜びに打ち震えているのもよーく分かる。やっぱりねぇ、素人と玄人じゃ本質的なものが違う訳でね、こう、金銭関係抜きにした男女の営みというものは、なかなか言葉に表しにくい幸福感があるもんですよ」


「だからさ、そういうことが言いたいんじゃなくてさ」


「俺もまぁ、そんなに経験がある方じゃないけどさ。ある方じゃないっていうのはあれだよ、素人ってことだよ。俺はこう、危険な仕事をしているからさ。そりゃ女性関係についてはシビアに考えるっていうかさ。万が一にも家庭を持っちゃうようなことがあれば、それで行動に制限が――」


 電車が、止まった。

 俺が座っているホームで、電車が止まった。


 休日の駅のホームには、そこそこの人がなだれ込んでくる。


 家族連れ、カップル、休日出勤のサラリーマン。

 そんな人の波が、俺の横をすり抜けていく。


 それはきっと、電話の向こうの松田ちゃんにも伝わっただろう。


 ここで、ごめん電車が来たと切るべきなのだろうとは思った。

 思ったけれど、俺の脚はそこから上がらず、スマホを握る手は震えていた。


 それは、たぶん、松田ちゃんが振った話題が、あまりにタイムリーだったから。いや、全然違うけれど、それでも、弱い心の俺には同じように思えたから。


 人々の足音が遠ざかる――。


「……陽介? お前、大丈夫か?」


「……大丈夫だよ。ごめん、くだらねー話してたら、電車逃しちゃったよ」


「くだらないって。アンタがはじめたんでしょーよ。まったく。ちゃんとゴム着けろよ。お前、マジでその状態で子供なんてこさえたら、人生詰んじまうぞ」


 そうかもね、松田ちゃん。


 結局、その日、俺は誰にも何も相談できないまま、玉椿町に戻った。

 この処し方の分からない心の内を、誰にもさらけ出さないまま。


 さらけ出す勇気さえ、俺にはなかったのだ。


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