第69話
「……すげぇ」
「……部屋」
これでも全国津々浦々、出張やら旅行やらでぶらぶらしてきた俺である。
ホテルの類には泊まり慣れている。
だが、こんな豪華な部屋に通されたのは初めてだ。
入って上がり口の襖を開くやすぐ、正面の窓から有馬温泉の街並みを見下ろせる。
高層階。そこから見下ろす深い緑の有馬の景色は実に目に優しい。
畳は少しも日に焼けた感じがない。
漆喰もまたつい最近塗りなおしたとばかりに綺麗な色合い。
けれども欄間には確かな歳月の経過を感じさせる深みがしみ込んでいる。
床の間にもまた、皿なり掛け軸なり華のいけられた花瓶なり、高級感のある飾り物が多数並んでいる、そんな部屋を見て俺は口から魂が抜けそうになった。
漆塗りの大テーブルにはちょこなんと、茶うけと急須と湯飲みが。
すると、つついと俺たちの横を抜けて、見た目小学生女将さんこと九十九ちゃんが、湯飲みにお茶を注いでウェルカムドリンクを淹れた。
この手慣れた所作。
女将というのはまず間違いないだろう。
俺と廸子の前に差し出される湯気立ち昇る玉露のお茶。
さぁどうぞとばかりに、机の端に座り込んで彼女は俺と廸子の着座を待つ。
荷物をとりあえず床に下ろし、促されるままにテーブルへと座ると、俺たちはお茶を啜った。
うん――うまい。
「京都は一保堂の玉露でございます」
「うへぇ、また、大層な所のお茶をお使いになられて」
「陽介、陽介、なにそこ。聞いたことないんだけれど。福寿園とかじゃないの?」
「京都の市内の人が飲むお茶だよ。福寿園とか、上林春松本店とかそういうのより、こっちの方が愛されてる――って言われている」
らしい。
あんまり正確な知識じゃないのはご愛敬。
前の会社で上司だった先輩からまた聞きした話だからに他ならない。
一次ソースとしては、その先輩はちゃらんぽらんだったので、あんまり信用することができない。なんといっても、いい歳して役の一つも持っていなかった男だからなぁ。そりゃ、言葉の重みが軽いよ。
けどまぁ、飲んでみりゃいいお茶なんてすぐ分かる。
急須から注がれた鮮やかな緑の液体を飲み干せばなるほど甘露。渋さの中に甘みがある。これまで飲んだことのない上等な茶のうまみが口に広がる中、すぐさま俺は茶うけに手を伸ばした。
そんな仕草を、じっと――九十九ちゃんは見ている。
なにやら品定めをするようなそんな目で俺を見ている。
なんなのだろう、そのガン見は。
思わず、高級なお茶でテンションが上がったのに、現実に引き戻されてしまった。
あの、とちょっと文句を言ってやろうかと思った瞬間――。
「陽介、これ、めっちゃ美味しい!! なにこれ、薄いせんべいなのに、すっごい甘い!! でけえ絲印(いといん)煎餅みたいだ!!」
「元祖三森本店の炭酸煎餅でございます」
「炭酸煎餅!? なになに、どのあたりが炭酸なの!! ははっ、ちょと意味がわかんねー!!」
はぁ、と、ため息を吐く九十九ちゃん。
廸子のはしゃぎぶりに呆れているのは明らかだ。
方や歳のわりにしっかりとした女将さん。
方や普段しっかりとしているけれど、今日はオフモードはっちゃけヤンキー娘。
こりゃ相性悪いわなというものであった。
まったく、と、小さくごちるのが聞こえる。
それを庇ってやることは、残念ながら幼馴染の俺でもちょっと難しかった。
「えっと、案内どうもありがとうございます。あとは自分でどうにかしますので」
「そうですか。とはいえ、まだ説明していないことがあるのですが」
「あー、大丈夫です、大丈夫。別にお化けが出るとか、夜何時までに戻らないと玄関が閉まるとか、そういうのでなければ全然気にしませんから」
「そうですか。まぁ、当ホテルはそのようなことはございません。夜間もスタッフが待機しておりますので、安心して夜の有馬温泉をお楽しみください」
夜の有馬温泉。
その言葉を発すると共に、少女の顔がなんだか軽蔑の色を帯びる。
うぅん。
夜遅くまで女を連れ歩いてなにするつもりだと言外に言われているな。
この少女の視線はちょっと効く。
いや、なんもしないんだけれどもさ。
廸子相手に外でそういう――ことはしないと思うんだけれどさ。
「上の方にある公園ではそのようなカップルも」
「女将さん、それよりもおすすめのお土産とかないかな!! いや、俺も有馬温泉来るの久しぶりだからさ!! なんかおすすめとかあったら教えてほしいな!!」
強引に話を逸らす。
すると、廸子が何を焦ってんだと、言葉の意味を測りかねる感じに俺を見てきたのだった。ちょっと、いったい誰のために必死になっていると思ってんだ。
けれども、それを言ったらいろいろとおしまい。
俺はぐっと我慢した。
というかこの小学生女将なんちゅーセクハラをかましてくれるのだ。本当に見た目通りの年齢なのか。実は、合法ロリで結構な年齢とかそういうんじゃないのか。
俺が話題を逸らしたのも分かっているのだろう。少し意地悪そうな顔をしてから、彼女は咳払いをして目を瞑って俺に言う。
「そうでございますね。色々とありますが、やはり先ほどお食べになられた炭酸煎餅が最適ではないでしょうか。あとは、有馬サイダーでございますかね」
「サイダー!! そっか、それで炭酸煎餅なのか!! 本当に名物なんだな!!」
「有馬の湯は炭酸泉でして、その昔は毒水と恐れられていたのです。ですが、西洋文化との接触により、それが飲めるものであると分かり、明治の頃にこれを居留地の外国人の方々に販売したのが有馬サイダーのはじまりと言われています」
「へぇ、そんな歴史があるんだ」
「日本サイダー発症の地とも言われているのですよ。ですがまぁ、こちらについては、お土産にとなると、ちょっと適した品とは言えませんね」
だわなぁ。
サイダーなんてのはきんきんに冷えているから美味しい訳で、温くなったのを持って帰って来られてもというものである。家の冷蔵庫で冷やせばというのもあるが、情緒もへったくれもない。
それにガラス瓶だ。
ひょんな拍子に割れてしまっては大惨事。
兵庫から三重の大移動。そんなアクシデントが起こらないとは言い切れない。
残念、と、少し口を噤んだのは廸子である。
「爺ちゃん、酒が飲めなくなっちまったからな。サイダーだったら飲ませてあげられるから、喜ぶかなとおもったんだけれど」
「いや、どうなんだろう。逆に我慢できなくなって、酒飲ませてとか言いだすかもよ誠一郎さん」
廸子の奴め。
ここに来ても爺ちゃんが大事か。
まぁ、そうだよな。唯一の身内なんだから。
この旅行だって、出発する直前までいろいろと心配していたくらいなんだから。まぁ、あの様子ならば、1日2日家を空けたところで、どうにかなるとは思えないけれどもさ。普通に生活できているんだもの。
ほんと、予後観察ってなんなんだろうね。
とか思っていると。
ずるり、と、なんだか聞きなれない音がした。
はてなんだろうかと音のした方を見ると、それまで正しい姿勢で背筋を伸ばしていた女将――九十九ちゃんが体勢を崩していた。
なんだろう、かしこまり過ぎて足でも痺れたのだろうか。
それにしては顔が蒼白だ。
「……し、失礼な質問ですが、か、神原さまの御身内はなにか重大な病気かなにかにかかっておいでで?」
「え、あぁ。祖父が先年、ちょっと肺がんを患いまして。まぁ、そこからいろいろあって、今予後観察中なんですよ」
「……そうでしたか。いえ、すみません、ぶしつけなことを聞きました」
本当にね。
そんなの別に客に聞くことじゃないだろう。
というか、廸子の爺さんの何が気になったって言うんだ。
ほんと、よく分からない旅館と女将だな――。
そんなことを考えている俺たちの前で、九十九ちゃんは立ち上がると。
「それでは有馬温泉をお楽しみください。あぁ、お食事は六時半からとなっておりますので。それまでにお戻りくださいませ」
とだけ申し付けると、ふらふらとした足取りで俺たちの前から姿を消した。
ふむ――。
「やっぱ、足痺れてたのかな?」
「かな。着物って窮屈そうだものなぁ」
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