ドーンヴィル、それぞれの初冬8

 いつものように空いた時間で写生をして、夕食の支度に間に合うようにクローディは帰宅をした。家の中には肉と野菜の煮えるよい香りが漂っている。昨日の晩とほぼ同じメニューではあるが、一般家庭とはこういうものである。毎日違う料理が何種類も食卓を飾るのは金持ちの家だけである。

 パンを温める準備をしていると母のエミリが話しかけてきた。


「そうそう、明日はグランストンまであなたも一緒に付いてきてちょうだい」

「わたしも?」


 エミリはたまに隣の町へ赴くことがあるが、余分に人を連れて行くとその分乗合馬車の乗車賃がかかることもありよほどのことが無い限り一人で出かけるのである。驚いたクローディをちらりと横目で見たエミリは「これからはあなたにお使いを頼むこともあるでしょうから」とだけ言った。クローディは自分の年が十六であることを思い出した。家の用事を頼まれる場面もどんどん増えていくのだろう。いつもと変わらない夕食のはずなのに、隣町に行くという予定が加わっただけでどこか違った風に食卓が見えてクローディは内心苦笑をした。


 翌日は曇り空だった。ドーンヴィルの町からグランストンまでは馬車で三時間ほどである。列車の駅があるというだけでグランストンという町は自分の生まれ育ったドーンヴィルより幾段にも賑やかだ。そしてドーンヴィルには無い店も多くある。銀行もそのうちの一つである。小さな両替所ならあるのだが、アルメートで信用のおける大きな規模の銀行の支店がグランストンにまで行かないとないのだ。クローディは初めて入る銀行の独特な威圧感に慄いた。エミリは慣れた様子で入口の係員に話しかけ順番待ちのための札を受け取った。カウンターの前には牢屋のような格子が設えられている。その向こう側には白いシャツにベストという銀行員たちがせわしなく動き回っている。


 ぼうっとしているとエミリに「恥ずかしいからこちらに来なさい」と手招きされた。クローディは自分だけ浮いているような気がして慌てて母の隣に着席をした。

「これからはあなただって銀行を使うことになるんだから。よく見ておきなさい」と言われ、クローディはそういう場面を想像する。しかしいまいちピンとこない、というかそういう場面は十中八九結婚をした後になると思う。


 結婚。舌の上で結婚という単語を乗せてみる。声には出さない。隣の、母のようになるというのか。エミリは落ち着き払った態度で椅子の背もたれに体を預けている。小さな町で生まれ育ち、父と結婚をした母。クローディは意識を別のものに逸らそうとして、母を通り越した壁に視線を吸い寄せられた。銀行の壁には絵画が飾られている。風景画である。クローディは立ち上がった。


「クローディ」

「あの絵、見てくる」

 見咎めたエミリに、クローディは簡潔に答えた。


 絵は油絵ではなく水彩画だった。べったりとした厚塗りではなくさらりとした薄塗りでどこかの庭園の草花が描かれている。青空の青色にアレットの瞳の色が重なる。じっと眺めているとエミリが呼びに来た。順番が回ってきたのだ。クローディは母の隣で、彼女が行員と話をしたり書類を書いたり小切手を差し出したりしているのをぼんやりと眺めた。


 グランストンまで足を延ばすからには済ませておきたい用事というものがたくさんあるのだろう。エミリの足取りに迷いはない。せっかくだから貸本屋に寄ってみたいとか雑貨店を覗きたいとか言い出せる雰囲気ではない。しかし、次に訪れた店でクローディはとても驚いた。その店は服地商で、エミリはクローディの夜会用のドレスのための服地を注文したからである。


「お母さん、どうして」

 接客係がいくつかの布見本を持ってきてクローディに見せる傍ら、それだけを問うた。

「あなたも次の四月で十七になるでしょう。マカルとも相談して、そろそろ一着きちんとしたドレスが必要だってことになったのよ」


 簡潔だがものすごくわかりやすかった。マカルとは父の名前である。母の説明を聞いた接客係の女は声を高くして「年頃になられたのですから夜会用のドレスは必要でございますわね」と話に入ってきた。


 エミリは接客係の女に頷いた。それから値段と服地の質とを鑑みて、女と母が相談に入る。クローディ用のドレスだというのに決定権は自分には無いらしい。お金を出すのは父なのだから仕方が無いのか。


 しかしクローディにだって好みというものはあるわけで。娘らしい華やかな色がいいと言えば「若いうちしか着られない色よりもこっちのほうがいいに決まっているでしょう」とエミリに一蹴された。いや、けれどもちょっと年より臭くない、と言えば女二人に睨まれた。理不尽である。結局は女三人でああでもないこうでもないと言い合い、ドレスの色は緑色と決まった。そのあとはドレスの意匠でやはり時間を要し、出来上がりの日程をエミリが紙にメモをして店を後にした。早朝に家を出たのに服地商を出た頃にはすっかり昼を跨いでいた。


 昼食と取るために入った食堂でクローディは「どうして急にドレスなのよ」と息巻いた。そんな素振り一度だって見せたことが無いのに。


「さっきも話したでしょう」

「そうだけど」


 クローディはやや不貞腐れる。ドレスは嬉しいが先に言っておいてほしかった。そうしたらもっと考える時間もあったのに。普段絵ばかり描いてはいるが、年頃の娘らしくドレスへの憧れだってあるのだ。それも夜会用のドレスである。


「今度ウォーラム家で舞踏会を開くそうなの。あなたも連れて行きますから」

「えぇ!」


 町長の家で毎年暮れになると舞踏会(といっても田舎町なので飲み会とほぼ変わらない)が開かれる。町役場で働いている父は当然招待されていて、いつも母を連れて子供たちは留守番なのだが。


「なにを驚いているの。今年はアマンダも出席なさるし、あなたも連れてきて構わないとウォーラム夫人がおっしゃっていたわ」


 淡々と連絡事項を伝える銀行員のような顔をしているエミリを前にクローディの頭の方が真っ白になる。ドレスに夜会。とても信じられない。自分がもうそんな年なのか、と指折り自分の年齢を数えてみる。確かに十六だった。

 食事が運ばれてきて、せっかくの外食だというのになにかが喉につっかえているように感じてしまう。


「あなた、絵ばかり描いていないでもうちょっと刺繍や裁縫に精を出しなさい。絵なんか描いても主婦の役には立たないんだから。ドレスだって、刺繍を刺し直すだけで見違えるんだから、少しでも上達をしておかないと今後困るのはあなたなのよ」


 着るものを仕立てるにはお金がかかる。だからクローディのような家では基本的なところを服地商お抱えの仕立て屋に仕立ててもらい最後の仕上げは家に持ち帰って自分たちで行うことの方が多い。裁縫技術は必須ともいえる。クローディは家でちまちま縫物をするよりも外に出て動物の絵を描いている方が好きな質だったから、あまり優秀な生徒とは言えない。そこもエミリの不満点なのだ。せっかくだから刺繍糸をいくつか見繕って帰りましょうか、とエミリが話を進めていく。この後、母の旧知の人間に挨拶に立ち寄るとのことだ。


「せっかくだからわたしも貸本屋に寄りたいんだけど」

 ドレスを頼んで仕上がった品を取りに来ることは確定をしている。だったら本を借りても差しさわりが無いはずだ。

「そうねえ。まあ、いいでしょう」


 食堂を出た親子は父の行きつけの貸本屋に向かって本を選んだ。クローディは読書家ではないが、代わり映えの無い日常で、少しだけ変化があることは歓迎である。グランストンで一番大きな貸本屋はそれなりの種類をそろえていて、ロルテーム語以外にもフランデール語の本も置いてある。


(そういえばアレット様はフラデニア王国出身なんだっけ)


 ということはクローディの前ではロルテーム語を話していても母国語はフランデール語である。クローディは試しにフランデール語の本を一冊抜き取ってみた。ぱらぱらと項をめくるがさっぱり分からない。文字は同じなのだが、綴りも言葉もほぼ違う。近しい単語はあるのだが、習ったことのない言語だから頭に入ってこない。いい家の子供たちは家庭教師から外国語を学ぶものである。移民国家のアルメートでは母国語がロルテーム語以外という人間も少なくない。


 そういえば父マカルもフランデール語はそれなりにできるはす。弟には学ばせようとしていたっけ、と思い出してクローディは苦い顔になった。町でそれなりの家に生まれても女に学は必要ないと結論付けられる。それが田舎町ではごく日常なのだ。クローディは手に持った本を書架に戻して、自分でも読むことのできるロルテーム語で書かれた本を一冊選んで母と合流をした。

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