29.もう戻れない

 黒崎さんの話を聞いて一週間、僕はどうしたいのか、どうしたらいいのか考えていた。


 そばにいて見守るだけなら、トラストスタッフの一般の派遣部門に就職するというのもありだ。諜報とは関係なく同じ会社に就職する。派遣斡旋の部門じゃなくて社内コンピュータのメンテとかでもいい。そこで得られたちょっとした情報を紗由奈に提供するのでも助けになるはずだし、そういうのがなくても、とにかく身近にいられる。


 諜報の仕事が向いてないならせめてそういう感じで行けるんじゃないか、と心が固まりつつあった。


 けど、その日、紗由奈を見て、そんな考えはぶっ飛んだ。


 大学のゼミで顔を合わせた彼女の右手首に包帯が巻かれてた。服の下からちらっと見えただけだけど、すぐに気づいてしまった。


「それ、どうしたの?」


 僕が聞くと、紗由奈は一瞬、げっ、て感じの顔になった。


「よく気づいたねぇ。ちょっとひねっちゃって」


 あはは、と笑う彼女は、大したことないから心配いらないよ、と言う。

 怪我の具合はそうなんだろう。けど何をしててひねっちゃったのかが問題だ。


「仕事で?」

「あ、えっと、うん」


 わざと明るく笑ってるけど、それ笑いごとじゃないし。

 仕事でってことは危ない目にあってたってことだろ?


「笑ってる場合じゃないだろっ。なんで仕事中なんだ? サポートは? 危なくないように下準備とかあるんだろっ?」


 語気が荒くなるのが自分でも判る。


「ちょっ、ともくん、落ち着いて」


 なんで紗由奈はそんな冷静なんだよ。こういうの慣れっこだっていうのか?

 頭にかっと熱が集まるのを感じた。


「落ち着いてなんかいられない。大切な人が怪我したんだぞっ! 僕が代わりたいぐらいだ!」


 拳を作って紗由奈に訴えた。力が入りすぎて涙が浮かんでくる。

 紗由奈は驚き顔で、でもすぐに赤くなってもじもじとしだした。


「ともくん……、嬉しいけど、ちょっと恥ずかしい……」


 言われて、視線に気づいた。

 うわっ。ゼミの連中にニヤニヤされてるっ。


「あ、ご、ごめん……」


 さっきまでアツくなってた頭が別の意味で熱くなって背中に変な汗が流れた僕は、みんなの目から逃れようと小さく縮こまった。

 当然、そんなので逃れられるわけないんだけど。


「おまえら、ラブラブだよなぁ。同じゼミなのがうらやましい」


 松本がニヤりながら寄ってきた。


「水瀬さんの前で緩みっぱなしのおまえに言われたくない」

「そんなに緩んでないと思うけど」

「いや、ゆるゆるだ」


 ここだけは譲れないぞ。


「そうだねぇ。二人ともすごくいい顔でほほえましいよね」


 ほら、紗由奈もこう言ってる。


「ドヤ顔するなよ。おまえらに言われてもなーって感じだ」


 それからしばらく、どっちがニヤけてるかとかそんな話で盛り上がった。




 このことをきっかけに僕の気持ちは固まった。

 やっぱり僕は紗由奈のそばにいたい。

 離れてるところで怪我なんかされるよりは、そばにいてサポートしたい。


 僕に何ができるのか判らないし、できるかどうかも判らない。

 諜報部に関わる仕事をするってことは、今までみたいな生活には戻れないんだろうけれど。


 それでもいい。


 その日のうちに黒崎さんにお話がしたいとメールを出した。

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