現実に吠える


 温みが、滴る。遅れて悪寒が、背筋を駆けた。血とともに溢れた冷や汗が、風圧で吹き飛ぶ。


「――――っ!?」


 視界が高速で流れて、荒ぶって止まる。頑丈な鎧越しでも、肺の中身が押し出されるほどの、威力。

 だが、垣間見た『現実』だけは、回避できた。


「本当に頑丈ですねえ。さっきの、盾か」


 宝戟についた血を払い落とすように振るって、ゆっくり、ゴリマッチョは佳人に近付く。


「痛ってえ……」


 腹部を押さえ、佳人は呟いた。けっして致命傷じゃない。それでも、彼女にとっては、人生の中でも随一の、大怪我だった。血が、どくどくと溢れる。


 この瞬間、彼女はひどく後悔した。ゲームをやり込んだゲーム脳の彼女には、その、現実的な痛みは、どこか遠い世界のものだった。攻撃される。すると、HPヒットポイントが削られる。彼女の世界に対する認識は、それだけのものだった。


 だが、あまりに当然のことだが、刃物で肉体を切られると、痛い。幼いころから頑丈だった佳人である。ゆえに、そんな当然のことに気付く機会が、なかった。


 だから、ひどく後悔した。傷付いた腹部を押さえ、そこに流れる血に、無意識に手を沈める。引き抜いて、眼前に。そうしてようやく、ここが『現実』だと理解する。


「なんじゃこりゃぁぁああ――――!!」


 腹の底からの感想を、叫んだ。


        *


 痛ってえ。痛え。痛すぎる。痛い痛い。痛い痛い痛い痛い。痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い――――!!


「痛い。痛い……。痛いよう、『お父様』」


 ぽろぽろと、目から雫が、こぼれた。続いて、体中に纏った硬質化した皮膚の鎧も、ぼろぼろと、崩れ、剥がれ落ちる。


「……? なんですかあ? 戦意喪失ですかあ?」


 戦意を――戦衣をキャストオフする佳人を見て、ゴリマッチョはいぶかしそうに眉をしかめる。

 高いところから睨み下ろすゴリマッチョに、「ひいっ!」と、佳人はおかしな声を上げた。


「やだ……。なんでハルカがこんな目に……? 痛いのやだ。いやだ。死にたくない。死にたくないよ……」


「なあに言ってんですかあ? ノイローゼか?」


 三叉に分かれた戟の矛先を、向ける。弱々しく怯える様子に見えても、ゴリマッチョはまだ、警戒を解いていない。

 だが、佳人から上がる声は、やはり、「ひいっ!」だった。


「なんなの、ここ。誰なの、お兄さん。なんでハルカ、おっきくなってるの?」


「…………」


 自身の両腕を見て、佳人はそう言った。まだ警戒は解けないが、ゴリマッチョも、戟を引く。


「覚えてねえんですか、ガキ」


「なにを……? ハルカはずっと、お屋敷にいて……。カナタとシュウと……『お父様』は? なんで誰もいないの?」


「ちっ」


 ゴリマッチョは、舌打ちをする。その苛立ちに、やはり佳人は、小さく震えた。


「『異本』だな」


 小さく、呟く。それから落胆して、気疲れして、結局、『憤怒』した。自業自得ではあれど、見るも無残に衣服の乱れた佳人から、視線を逸らす。警戒を、解いた。


「出て行け」


 ゴリマッチョは端的に、そう言った。部屋の出入扉を指さす。


「おまえの兄弟ならそのへんにいるだろ。これじゃボクが変態みたいだ。迷惑だから、出て行ってくれますかねえ」


 おずおずと、佳人は立ち上がる。怯えているのか、あるいは、成長した身体・・・・・・に慣れないのか、足を震わせながら。

 それでもなんとか歩を進める佳人を見て、ゴリマッチョは嘆息した。荒々しくソファに腰を下ろす。


「おい」


 扉に手をかけかけた佳人は、ゴリマッチョの声に両肩を上げた。


「は、はい」


「そのへんのコートを、適当に持って行け。まだ外は、冷えるでしょう」


「…………」


 佳人は、言われるままにコートを選び、それを羽織る。その衣擦れで、また少し傷口が、痛んだ。


「痛いよう……痛いよう……」


 けっして致命傷ではない痛みでも、子どもには重傷だ。その傷が『死』に達するものかどうか、彼女たちには理解できないから、大袈裟に騒ぎ立てる。そんな『子ども』の姿を見て、ゴリマッチョは頭を掻いた。

 どうにも、もやもやする気持ちを、彼はすべて、怒りに変換する。


 そして、いつかのことを、思い出していた。


 ――――――――


 ゴリマッチョ――WBO『特級執行官』、コードネーム『ランスロット』。本名、ライル・コンスタンティンは、とあるイギリス貴族の次男として生を受けた。


 イギリス貴族といっても、『宝石の一族』とは違って、現代ではさして特権を持っているわけでもない。それでも、先祖代々に受け継がれた資産は膨大。あるいは、古くからの交流も、古式ゆかしいしきたりも、多く残る家庭であった。


 その家に生を受けた彼は、現代では意味も、意義も失いつつあった慣習に、いつも苛立っていた。そんなもの、馬鹿みたいに漫然とこなしていれば平和であったろう。そしてそれだけで、彼はなに不自由なく生涯を、つつがなく優雅に生きることができたはずだ。


 だが、彼は残念ながら、頭が良かった。物事も、人間も、ただ古いだけで尊ばれる。それをこなして、意味もない会話に興じるふりをする。その裏に隠れた、名家同士の腹の探り合いや、見栄の張り合いに巻き込まれる。そんなすべてに、もはや価値などない。それに気付くことなど、聡明な彼には容易だった。だが、気付こうとも、その役割からは逃れられない。その現実に、彼は徐々に、『憤怒』を溜めていった。


 そんな日々を送っていた彼は、ある日、父親や兄弟たちと、とある茶会に参加した。とはいっても、まだ幼子であるゴリマッチョたちは、名家の主である父親たちの邪魔にならぬよう、最低限の挨拶を済ませたのちは自由に、ただ遊んでいることとなった。

 遊び、とはいえ、将来は名家を継ぐ者たちの談合だ。そこで隙を見せるわけにはいかない。特にその日は、ある、よほど貴い名家も参加することとなっていたので、なおのこと。と、そのように、父親からも言い含められていた。当然と彼は、それについてもまたわずかに、『憤怒』を溜めたのである。


 子どもたちは子どもたちで、名家の子たちが代々たしなんできたという遊戯に興じさせられた。彼らは彼らで、父親たちの真似でもしているのか、くだらないところで腹を探り合っては、見栄を張り合う。その滑稽さに歪む顔を抑え切れなくなったゴリマッチョは、雉を撃ってきます、と、席を辞去したのである。

 手洗いには、行った。だが、子どもたちの遊戯には戻る気にもなれず、その広い屋敷で迷ったことにでもしようと、さまよった。そして、最終的には裏庭に出て、黄昏ていたのである。


「つっまんねえな」


 呟く。嘆息というには荒々しく、空へ向かって息を吐いた。息苦しいタキシードの、首元を緩める。

 グルルルルルル――。ふと、唸り声が、聞こえた。


「なんだ、……番犬か?」


 ブル・マスティフ。主人に忠実で、警戒心が強い。イギリス貴族の所有地や猟場などを守るのに、古くから飼われている犬種だ。

 その強さや勇敢さ、警戒心の強さを、幼いゴリマッチョは理解していた。だが、彼はおそろしく冷静だった。冷静に、冷ややかで、そして、残忍に、苛立っていた。


「こりゃ、父上に叱られるなあ」


 血の付いたタキシードを見て、冷ややかに言う。番犬の血がついた、自身を見て。


 殺す。ということがどういうものかは、なんとなく、理解していた。もちろん、そんな経験をしたのは、それがはじめてであった。しかし、たいした感慨は湧いてこない。


 ――このとき、彼は確信した。


 ボクは、普通じゃないんだ。と。



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