億情


 1989年、十二月。イタリア、エミリア=ロマーニャ州、ボローニャ県。

 ボローニャ大学。


 あれから、半月が過ぎた。その間、若女の中に取り憑いた存在は、一度として彼女の身体を乗っ取ることがなかった。彼女自身、その存在はもう、己が身体を離れたと言っていた。その役目を、終えたからと。

 それゆえに、彼らたち落ちこぼれの学級にも、ひとときの平穏が戻ってきていた。それまでと変わらぬ、忙しなくも楽しく、また、惰性に漫然と進む、平穏が。


「うっぷ……。だめだ、もう入らん」


 五人でついたテーブルの、その半分以上を占拠した子女が言って、突っ伏す。何人前あるか解らない食事の、その抜け殻が、カチャカチャと互いにぶつかり合い、乾いた音を立てる。


「……食べ過ぎですよ、リオさん。いつものことですけど。その細い体の、どこに入ってるんですか」


 呆れたように、しかし慣れた様子で、才女が言った。


「ゲロゲーロ」


「吐くなよ、リオ」


 慣れもあるのだろうが、特段に心配したふうもなく、淡白に若男が言った。「モチのロン」と、辛そうに子女は片腕を上げて応える。


「大喰いは体にも、頭にも悪い。だから嬢ちゃんはいつも、わけの解らないことばかり言ってるんだねえ」


 美男が、いやみったらしく言った。自身の言に則り、まだまだ食い盛りの男子にしては、だいぶ控えめな食事を終えたのち、優雅にコーヒーを傾けながら。


「わけワカメとは失礼な」


「わけワカメとは言ってねえ」


「サーカスに売り飛ばすぞ」


「やってみろ。嬢ちゃんのこともサーカスのやつらに宣伝しといてやる。無限に食える、大食い女子ってな」


「ぶっとびー」


 とはいえ、苦しそうにテーブルに伏したままの子女だ。それ以上彼女も、美男も、つまらない言い合いをやめた。


「まあまあ、食べられるときはいっぱいいっぱい、食べたらいいじゃない。空腹だと機嫌も悪くなっちゃうよ。ほら、ぶーくん。一口分けたげる」


 白い髪を揺らして、若女が美男に、フォークを向けた。それから逃げるように美男は、わずかに腰を引いた。それから、ややと間をおき、「もう腹八分だ」と断る。他の誰よりも減っていない、彼女の皿の上を、ちらりと見て。


 食が細くなった。もとより小食気味な若女だったが、それがさらに顕著に、そうなった。元気もなくなったように思う。明るい性格は健在だが、以前とはやはり、違う。あんなことがあったのだ、それも仕方のないことかもしれない。それにけっして、ふさぎ込んでいるということもない。もとより明るすぎる性格だ。それを思えば、ほどよくちょうどいい――ちょうどよく明るい女性になったとも言える。

 そう思う。彼女の友人、この場にいる誰もが、それを感じていた。だが、言葉にはしない。若女が、すべて終わったことのように振る舞っているから。あの、人知を超えた存在との邂逅を、なかったことのようにすら生活しているから。


「そうだ、りーちゃん」


 美男に向けたフォークを咥えて、若女は思い出したように声を上げる。子女はまだ苦しそうに、唸り声と片腕だけを上げて、それに応えた。


「このあとこのあと、ちょっと時間あるかな」


 俯けた首を捻って、子女は若女と目を合わせる。若女が子女を個人的に誘うなど、珍しいことだった。しかして、社交的な彼女だ。そういうことも、ないでもない。

 わずかな違和感がそこにはあったけれども、だがそれを、なにかの前兆だと感じた者など、おそらく誰も、いなかった。


        *


「どしたー、フアたん」


 子女が問う。動けないほどの苦しみこそなくなったが、次いで訪れる、異常な睡魔と戦いながら、あくびを漏らして。


「りーちゃん」


「こんなところで、うち、絞められんの?」


 冗談めかして、子女は言う。


 場所は、屋上だった。彼女たちが所属するボローニャ大学の座学棟、そのひとつの、屋上。彼女たち以外には誰もいない、強風吹きすさぶ、屋上だ。


 首を絞められるようなジェスチャをして、子女はおどける。だが、苦笑を誘ったその行動は、わずかに空いた間に、不穏感を増長させていく。


「……この世界は――」


 諸手を広げて、空を飛ぶように、あるいは、天をも抱擁するように、若女は言った。踊るようにくるりと、一度、ターンする。


「りーちゃんには、どう見える」


 背を向けた若女は、遅れてまとまる白髪の、わずかなスリットから一瞬、子女を窺い見る。その瞳と、子女は瞬間、目を合わせた。一瞬の出来事だ、だから、感覚はあてにできない。それでもそこに、日常とは違うなにかを、子女は感じた。

 その非日常を払拭するように、若女は振り向いた。真正面から子女に向き合い、笑顔を――普段通りの笑顔を、突き付ける。


「この世界は、すてき? りーちゃんにとって、世界は尊いもの?」


「うちは――」


「あるいは、りーちゃんのお母さんにとっては、どうだっただろう? なりたい自分になるために、障害があるこの世界ははたして、はたしてはたして、正しい形だったのかな?」


「うちはね、フアたん」


 ううん。眠気を振り払うように、大きく首を振って、子女は若女を、強く見る。


「うちはね、聖女じゃない。うちらはね、この世界に落ちこぼれた、ただの、人間。……うちを最初に選んだ理由はなんとなく察しがつくよ。一番、御しやすいと思ったんでしょ。フアたんとの関係性も、比較的、希薄だし。ねえ、イシちゃん・・・・・


 そこにまだ、いるんでしょ? そう、子女は若女を、その奥底を、指さす。

 俯けた表情は、白い髪に阻まれて、よく見えない。だが、若女の口元は、小さく、笑った。


        *


 次に目覚めたのは、白い部屋だった。機械音が鼓動を刻む、清潔で無機質な、白い部屋。


「起きたか、シンファ」


 若男が、読んでいたらしい本を閉じて、声をかけた。


「リュウくん」


「貧血だそうだ。そういえば最近、あまり食べていない様子だったな」


「リュウくん?」


 若女は、人の感情の機微に対して、やけに鋭敏だった。それが、普段の恋人とは違う雰囲気を、即座に感じ取る。


「点滴が終わるまでは動くな。特段に身体に異常はないが、いちおう医者を呼んでくる」


「リュウくん……?」


 再三の呼びかけにも応えずに、若男はそそくさと、逃げるように行ってしまった。「動くな」という言葉への返答ができていない。だから、動きたくても動けない。そう思って、若女は目を閉じる。気を失うまえの記憶を、無意識に手繰る。


 ――世界とか、どうでもいいし。好きにすれば――


 苦しそうに、子女が言う。眠そうに、瞼は落ちかけていた。


 ――たしかに世界は残酷だ。この世界は、なにひとつ正しくない――


 自虐的に、口元を歪める。世界に落ちこぼれた彼女は、『世界』に対して、反逆の笑みを浮かべた。


 ――だけど、そこそこ楽しいんだ。地を這ううちらは、それなりに、好き勝手楽しく、やってんだ――


 苦しみを引き剥がそうとする腕を、向けてくる。なにかを振り払うように。なにかを、取り戻そうとするように。


 ――だから、出て行け。うちらの大切な、楽しい楽しい友達を、返せ!――


 ブツリ――。と、脳内に映った記憶は、途切れた。


 なにが起きたのか、それはまだ、解らない。

 だが、自分が――自分のこの腕が、なにかをしたと理解して――


 若女は、点滴の針を、引き抜いた。


        *


「動くなと言ったろう」


 肩で息をして、それでも、平静を装った様子で、若男は言った。


「…………」


 強風にかき消されたかのように、若女の声は、届かない。


 彼女の記憶と同様の、屋上だった。そこから見える景色は違っていても、しかしやはり、他には誰も、その場にいない。

 世界を睥睨するように、若女は街を、見下ろしていた。強い風に、真っ白な髪を揺らしながら。


「……リオなら大過ない。おまえが気に病むことでもない。解るな?」


 声が届くところまで、慎重に若男は進む。かき消されないように、ちゃんと伝わるように、声を、張り上げる。


「ねえ、リュウくん」


 病室でのやり取りと同様に、若女は、彼を呼ぶ。


「ああ」


 今度は即座に、彼は応えた。言葉を離さなければ――言葉を話していれば、引き止めていられると思ったから。


「この世界は、すてき?」


 世界の縁で、くるりとターンして、若女は問うた。なにかを諦めたような、なにかを覚悟したような、満面の笑みを、湛えて。

 世界を飛ぶように、世界を包むように、諸手を広げている。


 瞬間、ためらう。けれど、言葉を続けなければ、いけない。そう、若男は思った。


「俺は、おまえと出会えたこの世界を、愛している。なにもかもうまくはいかないこの世界だが、それでも、おまえとともになら、生きていける」


 だから、行くな。そう、若男は、手を伸ばす。


「私も、リュウくん」


 広げた両腕を背中に隠して、若女は言った。差し伸べられた手を、拒むように。


「この世界が好き。あなたと出会えた、この世界が好き。ゾイちゃんは可愛いし、ぶーくんは世話が焼けるし、『先生マエストロ』は、ちょっとうるさいけど――」


 笑顔を消して、うつむいて、若女は、唇を噛み締めた。


「りーちゃんが、大切。大切大切、なの。みんなが大好きで、大切なの。あなたを愛してる。あなたと出会えた、この世界を、私も、愛してる」


 だから。

 顔を上げた、その表情を見て、若男は即座に、駆け出した。


「だから、ばいばい」


 若女は、後ろへ飛ぶ。

 世界の――屋上の縁から、外へ飛ぶ。この世界を、愛するすべてを、救うために。


        *


 若男は、馬鹿ではない。むしろ、一般的な同世代の者たちよりも、よほど頭は回る。

 だから、その高階層から落下して、普通の人体が生き残れるなどとは、露ほども思っていないし、理解もしていた。


「シンファっ!!」


 それでも、彼は彼女を、追った。世界から落ちこぼれる彼女を追って、ともに、行った。

 屋上から、飛び降りた。


「…………」


 後悔したのは、数秒先に死ぬからではない。

 愛する恋人の表情が、にやりと、人類を嘲るように、笑っていたからだ。


『守るべき世界を持つ者は、脆弱である』


「貴、様っ……!」


『案ぜずとも、これにて楔は刺し終えた。これで我も、わざわざ現出する必要を喪失する』


「なにを――!?」


 言葉は、それ以上続かない。

 順当な自然落下の結果、人体の死に相当する結末が、訪れたから。


        *


 天を仰げば、それは、快晴の青空だった。


「リュウくんっ!!」


 それもつかの間、美しい世界は、それ以上に美しい彼女に覆われる。影が差した表情に、大粒の涙が溢れて。


「ばかばかっ! リュウくんのばかっ!! リュウくんが死んだら、私、どうすればいいのっ!!」


 自身の胸にうずくまる彼女。その白い頭を見て、若男は、複雑な気持ちを抱いた。


 生きている。それに、さきほどの会話。恋人の中に残っていた、存在。その、意図。――意思。


 思考を巡らせるが、さしもの若男も、気が動転していた。それに、じわじわと胸に広がる液体が、肌寒い。


「それは、俺のセリフだ」


 彼女の頭を、撫でる。色が変わっても艶やかで、繊細に心地よい、髪の感触を感じる。


 ――楔。彼女の中の存在は、そう言った。楔は刺し終えた。その意味を、若男はなんとなく、理解する。それは、若女にとっては辛いことだろうか。しかし、若男や、彼女を好く友人たちにとっては、不幸中の幸いでもある。だから、なにもできない不甲斐なさこそ拭えないが、とりあえずは若男も、安堵しておいた。


 ――――――――


「よくも、よくもやってくれたわね、イシちゃん」


 ある夜。まどろみの底で、若女は、その存在と、対面した。


「リュウくんまで巻き込むなんて、もう絶対、絶対絶対、許さない」


『これで汝は、『死』という解放すらも、選択できなくなった』


「イシちゃんが私の足を止めなければ、リュウくんが間に合うまでもなく、私は――私とあなたは、死ねてた」


『故に、我が汝らを救った。次はない。ゆめゆめ忘れぬよう』


 自分と同じ姿をした何者かは、悪びれもせず――というより、感情すらない様子で、そう、言った。


「…………」


『思い知ったようだ。汝が『死』は、汝が想定するよりよほど、汝が大切な者たちを道連れとする。早まった真似は慎むことだ。この身体は、未だ、必要である』


「私は、諦めない。私は、愛する世界を守ることを、諦めない」


 あんな。あんな結末・・など、絶対に、認めない。

 いつか、中の存在と心を通わせたとき知ってしまった世界の結末を想起して、そう、決意を口にした。


『大過なし。我は我の存在意義を。汝は汝の自由意思を。どちらが結実しようが、それはたかだか、ひとつの『因果』だ』


 この存在は、ただの、『意思』だ。心もない、感情もない。そう、若女にも理解できている。

 それでも、ただの世界のプログラムでしかなくとも、きっとこの世のあまねくすべてには、心があるはずだ。言葉が交わせるならば、ないはずの心だって、生まれるはずだ。そう、彼女は、信じた。


 ただ、道が違うだけ。互いの損得が、ぶつかり合っているだけ。善性も悪性も、そこにはない。いつかきっと、解り合えるときはくる。そう、愚直に、彼女は信じていた。


 その力は、世界をすべて、あまねく受容する、埒外のもの。

 神の域にまで到達する、寛大と慈愛の、心。


 だから、彼女には狭すぎたのだ。

 こんな小さな、箱庭では。


 ――――――――


 はてさて、こうして、彼女たちの物語、その第二幕は、終演となる。

 それでは舞台を戻して、『暴食』の先を見てみよう。


 生きるということは、食うことだ。

 そして、必要以上に喰らうことは、そのものそのまま――




 生きたい、と、願うこと。




 たとえ死んでも、まだ生きたいと、望みを世界に、とどめることなのだ。



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