蠱毒の書


「どうした、シンファ」


 怪訝な声に、才女の気は戻される。『先生マエストロ』の声は、ここに来てからずっと、ひとりだけ蚊帳の外で、ぼうっとしていた若女に向けられていた。


「…………」


 その彼女が、『先生マエストロ』の声に触発されたように、ふと、動き出す。いつも騒がしい彼女には似つかわしくなく、ただ押し黙って、まっすぐと、歩みを進めた。向かう先は、発掘されたばかりの、貴重な、石碑にだ。


「まあ、おまえらもちゃんと見ておけ。これが時代の最先端だ。こんな機会滅多にねえ――」


先生マエストロ』の言葉にも、一切の反応もなく、……そのまま躊躇なく、若女は透明なケースの、その蓋を、開けた。


「おい、シン――」


『人間よ。なんじ、その業を繰り返すか……』


 若女の声は、『先生マエストロ』の声を、その場の誰もの動きをも、とどめた。彼女の、本来のものとは違う、低い、声が。


 その超越的な態度のまま、自然と、若女はケースの中から、石碑を持ち上げた。じっ、と、それを見る。その長い時間を、その場の誰もが、動けずに静観していた。その貴重な出土品に、当然と触れてなどいけない。そんなことなど解り切っているはずの、『先生マエストロ』ですら。


『然り。時の酩酊も、果たして須臾の変容に過ぎぬ。人間。未だ永劫の罪過の中、その存在を留めて――』


「うっさいわボケええええぇぇぇぇ!!」


 声は変わり、若女は、彼女らしい形相へ回帰する。して、そのまま――。


 その貴重な石碑を、地面に叩きつけた。


        *


 はあ……はあ……。肩で息をする若女を、だいぶんと長いこと見つめて、それからようやく、我に返る。


「うおおおおぉぉぉぉ――!!」


 最初に動いたのは、『先生マエストロ』だった。叩きつけられてもなんとか、毀損の様子がない石碑を、怖ろしい速度で拾い、適切かつ素早く、なんでもないようにそれを、元のケースに戻した。


「なにかありましたかっ!」


 物音を聞きつけ、勢いよく戻ってくる研究者。


「「「「うおおおおぉぉぉぉ……なんでもありませええええぇぇぇぇんんっ!!」」」」


 声をそろえて、生徒たちは叫ぶ。その両腕を大きく広げて、研究者の視界を遮りながら。


「そ、そうですか、それならいいのですが。……いやしかし、そちらの生徒さんは!」


「「「「えっ!?」」」」


 シンクロして、生徒たちはそちらを見る。バレた!? そう、背筋を冷やして。


 しかし、そこで起きていたのは、しごくまっとうな、非常事態。


「し――」


 若男が第一に、声を上げる。


「シンファっっ!!」


 気を失い、倒れた恋人へ、駆け寄った。


        *


 キャンプに備え付けてあった、簡易ベッドへ寝かせてもらい、若女はやがて、意識を取り戻した。


「なにがあった。シンファ」


 枕元の椅子に腰かけ、『先生マエストロ』が問う。


「ね、寝てない寝てない! 起きてますよー、『先生マエストロ』!」


 若女は寝惚けているのか、両手で頭を抱え、丸くなった。

 ややとそうしていたが、やがて、彼女はおそるおそると殻から外を、覗き見る。そこには、あきれた様子の仲間たちがいた。


「体は、異常ないようだな」


先生マエストロ』は言って、ちらりと、後ろにいた生徒たちのうち、若男に目配せした。若男は、小さく息を吐き、上がっていた肩を落とす。


「よかった……シンファさん、よかった……」


 才女が、泣きそうな顔で、彼女に寄り添う。その手を握り、小さく、くずおれた。


「えっ、ゾイちゃん? 待ってこれ、ゾイちゃん? なになに、どっきり企画!?」


 やけに素直に可愛らしい才女を見て、若女はうろたえた。意外とこういう、素直な行動に対しては、弱い彼女であった。


「どっきりはこっちの感情です。バカやるのは、健常なときだけにしといてください」


「待って待って、バカって言ったよ、この子」


 悪態をつこうが、若女は、状況を把握し始めていたのだろう。才女の頭を、少しだけ、優しく撫でた。


「で、なにがあったの?」


 困った視線を、『先生マエストロ』へ、それから、恋人の方へ、向ける。


 なにか、なにかを理解しかけている。自分がどうなったのか、そして、どうなるのか・・・・・・、それを。


 しかし、そんなことを捨て置いて、笑顔で、若女は問うた。世界は、まだ、優しさで満ち溢れていると、そう、信じて。


 はあ。と、その場のほとんどの者が同時に吐き出した二酸化炭素により、呆れは、若女に伝わった。


「だからそれは、こっちのセリフだ」


 若男が、みなを代弁して、言った。


        *


 意識は戻ろうとも、まだ、休ませておくべきだろう。研究者のはからいもあり、若女はまだ少し、簡易ベッドで寝かせてもらうこととなった。心身の異常は――元来のもの以外は――ないようであるので、彼女を残し、全員が退出する。今回の目的である石碑の調査に、戻ったのだ。


 なにが、あったんだろうな……。ひとり、若女は考えた。


 あの石碑を見たときから、精神が、半分抜け出したような感覚があった。浮遊感、とでもいうのか。知っている感覚に照らし合わせるなら、まどろみ、に、近い。眠りに落ちる前の、半醒半睡の、感覚。まるで自分が自分ではないような、まるで、自分が世界そのものであるような、まどろみ。


 精神に、心に、自分より大きな存在が割り込んでくるような、極限まで安らいだ、恐怖。じいん、と、下腹部が疼く。それはたしかに、そういう感覚・・・・・・にも、近いかもしれない。


 若女は、気付き始めた。その、存在のことを――。


「大丈夫ですか?」


 ふと、思考に、湿った声が混じった。だから、『だいじょうぶだいじょうぶ』と、声を上げようとする。……声は、出ない。


「薬は効いてますか? 力を入れてみましょう。腕、握れますか?」


「あ……あ……?」


 言葉は、体裁を失っている。だるくて気付かなかったが、どうやら、腕を握ることもできないようだ。若女はそう、把握した。

 そうなっている状況に、悪意の介入など、想定などしないままに。


「うん。よく効いているみたいです。よかった。出来合いのもので代用したので、心配していたのですよ」


 言って、研究者は若女の枕元に、椅子に、腰を下ろした。そのまま、自然な動作で、若女の手を握る。


「脈は……正常ですね。ちょっと心音も確認します。失礼しますね」


 医学にも精通しているのだろうか? 医者のようなことを言い、自然と、布団をめくる。そのまま、研究者は、若女のシャツの、そのボタンに手をかけた。首元からひとつひとつ、外していく。


「うー、うぅ……?」


 若女は、特段に悪意を感じていなかった。当然だ。彼女は、人の悪意に鈍い。

 世界は、愛に満ちている。そうとさえ、信じて疑わないような、馬鹿だったのだ。


「へへ……はあ……はぁ……。こんなシリアくんだりまで派遣されて、辟易してたところだったが、こぉんな役得も、あるもんだな……」


 下卑た表情にも、荒い息にも、だらしなく開かれた口元にも、若女は、疑問だけを傾げただけだ。だいぶだいぶ、意識遠いなあ……。と。


 半分までのボタンが外された。そのときである。


「なにやってんですか、この変態っ!!」


 小柄な才女が、見事な空中回し蹴りとともに、乱入した。「ぼげいっ!!」。小気味よい悲鳴を上げて、研究者は飛んでいく。ずざざざざざぁ! むき出しの地面に頬を擦りつけ、悲痛な表情だ。

 そんな可哀そうな表情を見て、ふんっ! と、才女は胸を張った。すでにたわわに膨らんだ、その胸を。


「あ、わわわわ! シンねえさん! 服っ! 服ううううぅぅ!!」


 遠い世界で、なんだか、騒いでるなあ。

 夢見心地に、若女は思った。


 ……シンねえさん、か。嬉しい、嬉しいなあ。とか、思いながら。



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