最後の宝石


 その貴人。空を見つめ、虚を揺蕩う。


「もあああぁぁぁぁ――――」


 いったい、いつからそうしていたのか。あるいは、最初からそうしていたのか。

 ともすれば、『その地』すら、彼がそこに居座るよりのちに、生まれ出でて、成り立ったのかもしれない。


「――あ、あ、あ、あ、ああぁぁぁぁ――――」


 目を擦る。視界の異常に嫌悪し、目を凝らす。ぐっ……と、凝する。再度、瞼の違和感を拭った。

 ――朧、だ。夢と幻と、いまにも消えてしまいそうだ。


 ぼう――――っと、かすれて、曖昧に、滲んでいる。

 いるのか、いないのか。そう疑問に思うほどに、かの貴人は、存在を確立していなかった。


「――ぁぁぁぁ……っっぁっ。…………足り、、、、ね、え――っ――――」


 〇〇〇が、足りねえ。


 そう聞こえたかと思うと、彼は、まるで最初からそうだったかのように、ふっと、消えた。


 ――――――――


 醜男ぶおとこは、その、贅肉に歪んだ表情を、さらにみよがしに引き攣らせ、語り始めた。


あれ・・は、科学者我々の基準から言えば、埒外の存在だ」


 これから壮大な証明でも始めようというのか、醜男は、ふと表情をやわらげ、不敵な顔付きに変貌する。


「考えてもみろ。科学者は、世界という教材を与えられ、それを観察し、こねくり回し、法則をつまびらかにする。そういう存在だ。幸いにも、この世界教材は、人類の手に余る。我々は安心して、己が持てる全力でもって、理の究明に邁進できる。目に見える世界は、途方もなく広がり、謎に満ち、こんなわずかの人生など、ただの暇潰しのように経過させてくれる」


 その規模の大きさに気付いた――いや、再確認したのか、そこで彼は、上気しつつあった心情を、どうやら、立て直したようだった。


「――だが、それはあくまで、世界の枠組みの中での話だ。この手で触れ、目で見、しかと感知できる範疇でのこと。……あんな、認識できない存在など、この私が、扱うようなものではない」


 ふう。と、一息を深く吐くと、『話は終わりだ。とっとと下がれ』、とでも言いたげに、醜男は背を向けてしまった。


 ――――――――


「ああ……」


 と、令嬢は遠い目をしてしまった。「なんと言えばいいかしら」。そう言うと、言葉通りに、苦い顔をする。


「かの御仁は、……ええ、まあ、個性的な方だわ。磊落というか、豪胆というか。とにもかくにも、幼かったあたくしの印象としては、『なにものにも捉われていない』、といったところね」


 口にするたびに、なにかを思い出したのか、柔らかい口調にシフトしていく。しかして、それがポジティブなようには、どうにも響かなかった。


「あたくしとしては、彼自身の記憶よりも、彼を追っかける使用人たちの阿鼻叫喚のほうが、記憶に鮮明だわ。他人事ながら、大変ねえ、と、目を細めた覚えがある。けれども彼は、自らの言動ひとつで、どれだけ周囲が迷惑をこうむるか、なんとも解っていない様子だった。……いいえ、そんなことなんて、どうでもよかったのでしょうね。ご自身のことですら、どうとも思案していないようでしたし。……生きるも死ぬも、それすらも、どうとも」


 え? と、令嬢は、聞き返すというよりは、ただ露骨に嫌悪感を表明するように、語調を上げた。


「そんな彼が、唯一、興味を示すもの? ……さあ? それがなんだっていうのかしら? まったくもって、言っている意味が解らないわ。あたくしが――あたくしが、……この、あたくしが……っ…………。……失礼。なんでも……どうということも、ありませんわ。あんな者に、このあたくしが、どう辱めを受けようと。そんなこと、そんなこと、そんなこと――――」


 徐々に、声は憔悴し、誰かに語るものから、自らに言い聞かせるようなものに、沈んでいった。


 ――――――――


 愛銃の手入れをしながら、射手はそっけなく言った。


「ノーコメント」


 そもそも俺、そいつを目視したことねえし。と、ただ、それだけ。


 ――――――――


 それは、彼が狂人に敗れる以前。さらには、その肉体を、異世界からの来訪者に憑依され、乗っ取られる以前のこと。


「ケラ・モアロード・クォーツ侯爵ですか」


 希代の貴騎士、ベリアドール・ジェイス・ダイヤモンド公爵は、朗らかな相好を崩さないままに、そう言った。


「ええ、よく存じています。……ああ、とはいえ、特段に、侯爵閣下個人を存じているわけではありません。ただ、お家柄、多少ならざるお付き合いをさせていただいている。それゆえの、侯爵閣下かくあるべしという、お役目を知っている。そして、そのお役目をまっとうするに、今代のクォーツ侯爵は、不向きであるというだけのこと。私が閣下を存じ上げているというのは、そういう意味合いです」


 とは言うが、その表情は微塵も揺らがず、温厚に穏やかだ。だから、言意としてやや、非難するような響きが含まれていても、それが、彼の心意と合致しているかは、推し量れなかった。


「もちろん、わずかばかりとはいえ交流の機会を得て、ごくごく少なくとも、言葉を交わす幸運にも恵まれましたから、閣下個人をまったく知らぬというわけでもない。しかし、知れば知るほどに難解な御仁でした。同じ言語を操っているのに、意思疎通が図れていたのかと問われれば、首を振るしかありません。彼を理解するのは、あの、揺蕩う雲を掴もうと試みると同義です」


 貴騎士は、無意識だったのだろうか? かの貴人を呼ぶための言葉選びを、この段になって誤った。そしてそのまま、それ以降はさすがに意識してのことだろう。やや距離間の縮まった三人称で、彼を呼ぶのだった。


ですから・・・・、私は彼に好感を持っています。何者にも――肩書にも、身分にも、世界にも、無遠慮に相対できる。――いえ、彼はきっと、そんなもの歯牙にもかけていない。そうまでして己が『個』を押し通せる。その『強さ』に、騎士を名乗る者の端くれとして、素直に、敬意を抱いています」


 す――と。そこでようやく、貴騎士は、表情らしい表情を浮かべた。愛想良く、なにをも見えていないほどに閉じられた瞼が、かすかに、その奥に煌めく虹彩を解放した。


 灰色――いや、しろがねだ。よく研がれた切っ先のように、鋭く相手を射すくめる、煌白の刃。


「雲を、掴む、か……」


 誰にも聞こえない声量で、自らのうちに飲み込むように、貴騎士は呟く。


「是非に……いつか……」


 正しさをわずかに外れたいびつで、彼は、口角を、上げた。


 ――――――――


 その貴人は、ただ、ぽかんと、空を見ていた。いや、見えてなどいないのかもしれない。少なくとも、なにかを見ようとはしていないだろう。


 その瞳は――真っ赤に染まった瞳は、自らの外にあるものを、なにひとつ映していない。映しているのは、己が内面。その心に鮮明に残る、過去の、光景だ。


「もあああああぁぁぁぁ――――」


 彼がかつて見たものの中で、もっとも美しく、もっとも、神秘的な景色。まさしく文字通り、神が秘めたもうた、この世界の、財宝。


「ぱっ!」


 そういえば、いったい何年、こうしていただろうか? まばたきをするのすら、数か月ぶりに感じた。


「あれま」


 ゆるりと、左、右、と、見回す。そうこうしているうちに、たぶん、数日経った。


「んあああぁぁぁぁ――。……だる」


 己が年齢も、もはや数えていないのだろう。少年のような幼稚さで、彼は、ぱたりと後ろに倒れた。くああ……。と、伸びをする。




「また会いたいなあ……ノラ」




 んしょ。と、貴人は立ち上がった。それにもやはり、数日を要したわけだが、……はてさて、はたして――。


 ……これはいったい、どれだけ以前の、物語だろうか??



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