逃亡劇
とにかく――爆走、していた。
「うおおおぉぉぉぉ――――!! なんじゃありゃああぁぁ――――!!」
背後から、いまにもぼろぼろになったコートの端にでも、掴みかかってきそうな至近にまで這い寄られ、男は、ただ叫んだ。
天狗や
「まさしく百鬼夜行、ね。想像していたよりも騒々しいけれど。……だから言ったでしょ、先に行って、って。あと、勝てるわけない、って」
後ろ向きに、ステップを踏みながら余裕そうに走り、少女は言った。ときおり、敵の攻撃をいなしながら。あるいは、出鼻をくじくように牽制しながら。
「なにを余裕かまして言ってんだ! それと、そんな余裕あんなら先に行け! 逃げろ!」
「いやよ。ハクとヤフユが死ぬじゃない」
「さらっと怖えこと言うんじゃねえ!」
「事実よ。息が切れようと足がもげようと、そのまま走りなさい。本当に、冗談じゃないのよ?」
真剣に、集中を切らさず、淡々と言う少女の言葉に、男はセリフを飲み込んだ。しゃべっている場合でもない。と、理解する。とにかくいまは、逃げるしか……ないのだと。
「だが、逃げ続けて、どうなる? この施設を抜けりゃなんとかなんのか? あるいは、あの化物たち、時間経過で消えんのか?」
かの妖怪の、あの『異本』の力は、男も一度、目にしたことがある。確かにあらゆる化物を具象化させ操れる強力な性能も持っているが、その効果継続時間には限りがあったはずだ。
「…………」
その自問のような問いに、少女は答えない。答えられない。
少女の慧眼から見ても、確かにあの化物の使役は、時間的制約があった。しかし、とうに老いさらばえていたころならともかく、いまの――おそらく全盛期であろうあの妖怪であれば、当然、年老いたころよりよほどその継続時間は伸びているだろう。それがいったい、どれだけの時間なのか。それは、少女の目をもってしても、読み取れなかったのだ。一時間か、二時間か……あるいは、数日、もつのかも――。
それでも、たとえば、具象化した化物たちをいくらか切り伏せ、消滅させてしまえば、数は減らせるだろう。仮に減った分をさらに具象化しなおしたりなどしたなら、それはそれで、妖怪本体の体力を削れるだろうし、そうすれば、全体的な百鬼夜行の継続時間を減らすことにも繋がるかもしれない。
だが、一体一体の魑魅魍魎にはなんとか勝てるにしても、あれだけの集団で、一斉に攻め立てられては、それも容易ではない。そのうえ、『
「はあ……はあ……」
そこまで考えて、現実に回帰する。紳士の、荒い息遣いに。
「大丈夫? ヤフユ」
「はあ……ああ……」
応えるが、しかし、だいぶ堪えている。紳士は、特段に肉体的に頑強ではない。いや、むしろ、どちらかといえば虚弱な方だ。いくら気合を入れようと、そう長く走り続けてはいられないだろう。
どこかで、決断するしかない。そう、少女は、思う。しかも、紳士の体力が切れる――そう長くない、時間のうちに。
*
「ぐはあっ……」
足がもつれ、ふいに、紳士は転倒した。
「ヤフユ!」
「行ってくれ!」
少女が瞬間、それに気を取られるが、それにかぶるように即、紳士がそれを止めた。有無をも言わさぬ、強い口調で。
確かに、彼には強靭な肉体がない。頭も、さしてよくはない。それでも、そういう人間を、ずっと見て――目指して、生きてきたのだ。力がなくとも、頭が悪くても、誰にも負けずに、格好よく生きる若者を――。
『箱庭百貨店』を、取り出す。一瞬の、思考。
高速移動の身体強化系『異本』、『インドラの少女』。……だめだ。必要以上の体力を消費するかの『異本』では、一時しのぎにしかならない。動きを止める干渉系、『ベルフェゴールの歯車』。……触れた相手にしか利かないうえに、そもそも、具象化として生み出された化物たちに利くかも解らない。空間生成の『
ならば。と、決断する。一秒にも満たない熟考の果てに、最適解を、導き出す。
「『
爆散の『異本』。それは、己が肉体を原料にする代わり、特定の指定物のみに被害をもたらす爆弾を作り上げる性能を持つ。端的に、命と引き換えに、必ず敵を倒す、『異本』だ。
だが、紳士は決して、死ぬ気などなかった。確かに一度も試したことはないが、この『異本』を用いようとも、生き残れるのではないかという、空想的な抜け道を考慮していた。……もちろん、試したことがないゆえに、死ぬ可能性もあり、その覚悟もしてはいたが、それは、決して無為に命を投げ打ったわけではないことを、ここに記しておきたかったのである。
「『――』っ――!!」
「やめなさい馬鹿っ!!」
が、あまりに危険なことを口走る紳士に、つい、少女はその頭を地面に叩き付けていた。叩き付けて、無理矢理に言葉を噤ませていた。だから、もう、そこまで怪物たちが、迫る――。
*
少女は、あまりに遮二無二と紳士を叩き付けたので、実のところ、紳士が考えていた――というより、考えるまでもなく実行しかけていた手段が、うまくいくかどうかを理解していない。少女の慧眼であれば、それはあと、ほんの一瞬、考えておけば、その是非を判断することができ、それを待ってからでも、突っ込みをかますのは遅くなかったはずである。それゆえに、こうして、窮地に陥ってしまったのだ。
やるしか、ないわね。そう、少女は判断する。
こうなったらできるところまで、抗ってみるしか――。そう、決意する。その先に、全滅という未来しか、見えていなくとも。
「きなさいっ!」
「はいきました!」
なんか、きた。
その者、黒のローブを脱ぎ捨て、意外と鍛え抜かれている上半身をさらけ出し、不敵に笑う。白い歯を輝かせ、鍛え抜かれた体を輝かせ、そして、禿げ上がった頭を輝かせて――。
「は、は、は――」
その姿に、男は、腰を抜かし、言葉を戸惑わせた。が、歯を噛み締め、体に力を入れて、こみ上げる感情のままに、彼を、呼ぶ。
「ハゲ!!」
「はいはい。ハゲです。ハゲですよー。……ってなんでやねーん! 何度言えば解ってくれるんですか! これはハゲじゃない! スキンヘーッド!!」
渾身の力を込め、その頭部を、地面へ、叩き付ける。それは、その部屋全体までにひびを入れ、崩れた床は、瞬間、その場の動くものすべてを、阻害した。
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