クオリアの双子

「じゃあ、僕たちは行くから」


 女神さまが言った。やけに軽い調子である。


「行くって、どこに――」


 少女は問うが、その言葉は、途中で途切れる。この行き止まりの部屋から、どう抜け出すのか。そう思ったのだけれど、なんのことはない。彼女は――彼女たちは、その姿をすでに消しかけている。それは、三次元よりも高位の、移動法だった。


「それが、『虚言』の性能ね?」


「君が理解できる程度のことを、いま、解説している暇はない。余計な邪魔が入ったせいで、時間がなくなったからね」


 体を薄れさせながらも、女神さまは少女に近寄り、その、視線をぶつける。どちらも美しい、宝石のような双眸を。少女の緑眼と、女神さまの碧眼と。


「君の記憶を消したのは、君自身だ」


「――――っ!!」


「まあ、驚くほどのことでもないね。こんな――人を超えた僕たちではなくとも、普通の人間でも起こり得る事態だ。だが、の君がそれを行ったとなれば、それは、君自身ですら、そう容易く想起できないほどの強度で実行されただろう。過去の心的外傷トラウマから心を守るために、君は、君自身で、君を封印した。だから――」


「ええ、わたしは自分で、わたしの記憶を、思い出取り戻せるわ」


「……いい子だ」


 それを目の当たりにすることは、彼女にとって酷かもしれない。しかし、向き合わないままに物語人生を終えることなど、それこそできない。であれば、せめて――。


「僕には出せなかった答えを、期待しているよ」


 女神さまは、言うと、少女の頭を一度、撫でた。まったくもって僕たちはだけれど、それでも、僕の方が少しだけ、先を行っているからね。そう、心でだけ、思って。


「おい、そろそろ」


 下僕が控えめに、言う。見ると、いいかげん、九尾も行動を起こしそうだ。というより、なぜこれまで動かなかったのか? それは、『ニーニス教典』の意識改竄がまだわずかに、動きを阻害していたからである。しかし、それももう、時間の問題だ。


「……ああ、そうだ」


 だから、最後に、女神さまは言う。きっと、忘れていたわけでもないだろうに、思い出したように、すっとぼけて。


ったんだ」


「……? なにかしら?」


 無邪気にいたずらに、女神さまは笑って、少女の耳元に、口を寄せる。そうして、内緒話のように、口遊んだ。


「ムウの言ったことは、もう忘れていい。君は僕に殺されなかったし、僕を殺すこともなかった」


 おめでとう。乗り越えたね。そう言って、口を離す。


 最後に、「じゃあね」、と、笑って、女神さまはこの世界線から、消えた。


        *


 狐に抓まれたように、もとよりそこには、なにもいなかったように、女神さまとその下僕は、いなくなった。


「……あ――」


 名残惜しそうに、少女は、手を伸ばす。その行動に関して、少女は、自らその意味を理解することはできなかったが、それこそが、きっと、失われた記憶の理由なのだろう、と、思い至る。


「おい、そろそろいいのか?」


 焦ったように、男が少女に、問う。忘れていたわけではない。しかし、それでも後ろ髪は引かれたままだ。

 ぶるる。と、それを振り払うように首を振って、両頬を、叩く。


「ごめんなさい。大丈夫。……行きましょう」


「ああ。……つーか、いまのが『女神さま』か? なんつーか、……すげえな」


 期せずして見てしまった女性の全裸に、男はそう、感想を漏らした。なんとも、具体的には表現しないままに。


「なに見てんのよ。変態」


 だが当然、その言葉の意味を少女は、完全に理解していた。蔑視を向けて、一歩、男から距離を取る。


「いや、嫌でも目につくわ!」


 男は抗議する。「あと、なんなんだあの、隣にいた野郎は」。なんか見てるだけで腹立つわ。と、男は誤魔化すように付け足した。それが、実に的を得ていることを、知らないままに。


 はあ。と、嘆息。して、少女は「というか、先に行ってて」、と、促した。それから自身は、部屋の隅へ。当然と、こちらも忘れてなどいない。


        *


「……立ちなさい」


 驚くほどの長時間、そこにそうしていた紳士に向かって、視線と、強い言葉を落とす。


「……ノラ。……わたしは――」


 どうやら、嘔吐は止まっている。しかし、滅入った感情はいまだ、紳士の足を動かすには至らないようだ。


「いま、あなたの感傷に付き合っている時間はないの。とっとと立ちなさい」


「わたしは、許されない過ちを犯した。……置いて行ってください。あなたに合わせる顔がない」


「そんなことは知らないわ」


 少女は無慈悲に言うと、紳士の、その顔を掴んで、自分の方へ向けた。それでも、紳士はせめて、視線だけは逸らす。どうしても逃げ切れない罪に――無駄だと知っていても――抗うように。


「ここに残るなら、死ぬわよ?」


「……ああ、それがいい。……わたしは、それくらいのことをした」


「そう」


 少女はやはり、無感情に言う。言って、そして、いまだ膝を抱えて座り込む紳士の隣に、同じように膝を抱えて、座り込んだ。


「ノラ……! あなたは、早く――」


「懐かしいわね」


 言って、少女は、彼の肩に頭を、預けた。

 いつか、ワンガヌイから日本へ帰る飛行機の中で、こうして眠ったことを――あのときの安らぎを、思い出して。


「ねえ、ヤフユ。わたしは、諦めていたのよ」


「…………」


 紳士は、言葉を紡げない。後悔と、自らへの怒り、そして、どうしても湧き上がってしまう喜びに、さらに自分を嫌悪する気持ちが、消えないから。


「家族を失って、ひとりになって……もう死んでしまった方がマシだって、生きる気力を失くしてたわたしを、ハクは、見付けてくれた。わたしの名前を、呼んでくれた。だけどそれは――少なくとも最初は、ただの打算だった。意図があった。だからわたしは、ひとりで生きていかなきゃって、そう、意気込んでた。家族なんてもう作れない。そういうふうに、諦めていたの」


 少女は語る。悠長に。まだそこにいる巨大な脅威など、取るに足らないとでも言うように。ゆったりとその時間を、噛み締めるように。


「幸い、『シェヘラザードの遺言』の力で、この――わたしのすべては、人類の限界にまで達した。そつなく生きていくのは、容易だったでしょう。でも、ひとりでなんでもできてしまうからこそ、理由はなくなった。誰かを頼って――そばに居続けるだけの、理由が」


「それは――」


 違う。と、紳士は思った。誰かのそばに居ることに――居たいと思うことに、理由などいらない。それこそが人間なのだから。と、そう言いたかった。だが少女は、それを待たずして――遮るように、続ける。


「解ってるの。理由なんかいらないって。だけど、そうもいかないのよ。年齢以上に大人びてしまったわたしには、大人としての理由が必要だったの。変に世界を俯瞰できたから、わがままが言えなくなってしまったのね。それがいかに子どもらしい、幼稚な言い分だって、理解してしまう頭があったから」


 少女は、無理矢理に笑うでもなく、あからさまに悲しむでもなく、心中を表情に出さないように、言った。感情の話をしているのに、論理的に理屈付けて理解してほしい、と、そう、思ったから。


「あの――新潟の屋敷での生活は、楽しかったわね。わたしがちょうど『遺言』の力を失っていたときとはいえ、まるでわたしを、十四歳の、年相応の、ただの可愛い少女のように、扱ってくれた。ジンは言うまでもないけれど、ハルカも、カナタも、シュウも――そして、あなたも。わたしを、特別扱いしないでくれた。それがね、嬉しかったの」


 ワンガヌイの街で、少女から、ふとこぼれてしまった感情。『ここに住みたくなった』。それを少女は後日、回想して、嬉しいやら悲しいやら、複雑な心境になったものだ。


 もう家族なんか作れない。男とともに、果てるまで旅をし続ける。そう思っていたのに、ふと、定住することをイメージしてしまった。それは未来への希望ではあったが、当時の少女にしてみれば、男へ対する裏切りのような感情だとも思えるものだった。助けてもらっておいて、それはないだろう、と。


 しかし、一度抱いてしまった希望は、目を逸らせはしても、そこから消えることなど、なかったのだ。


「違う、わたしは――」


 ただ、下心があっただけだ。少女のことを愛してしまった。だったら、無理でもなんでも、対等でいなければいけない。そう、紳士は思ったのだ。

 だから、少女も、同じ気持ちで、彼の腕に、擦り寄う。


、下心があるから、こうしているの。あなたに纏わりついて、あなたとともに過ごして、あなたと結婚して。……あなたを失うのが怖い。家族を失うのが怖い。……もうひとりにはなりたくないって――だから、これは、わたしのわがまま。……だから、あなたとともに死ねるなら、わたしは本望なの」


「ノラ……」


「人生は長いのよ? いろんなことが起きるわ。それなのに、片時も離れずに、一時も気持ちが離れずに、思い合うことなんてできない。今回のことも、べつに浮気だなんて、言ったりはしないわ」


 そもそも、あの人は――。言おうかとも考えたが、まあそれは、もう少しくらい、黙っていてもいいだろう。そう、思う。


 消えて――残り香になってしまったからこそ、逆に、彼女の存在が少しだけ、少女にも解ってきた。『女神さま』。その、存在を。

 そりゃあ、嫌悪感も抱くわけだ。親近感も。彼女とわたしは、。そのように、少女は納得する。


 たとえば、同じ『赤色』であっても、人によって、見え方が違うように。その主観の違いを、究極的には、他人同士では分かち合えないように。ただ、見る人にとって違う、というほどの、違いでしかない。

 それは、各人が抱く、恋心の違いにも似ていた。人を思う気持ちは千差万別だが、その感情は――『感じ』は、同じ『恋』であり、『愛』なのである。


 少女は、そんなことを思って、いたずらに、笑った。少し、しがみついている腕を、つねったりなんかして。言語化できない気持ちを――『感じ』を、示すように。


「ノラ……痛い……痛いっ!」


「あんですって?」


「なんでもない……です」


「そ?」


 じゃあ、帰りましょうか。言って、少女は、紳士から離れて、立ち上がる。だから仕方なく、紳士も――ようやっと、立ち上がった。


「今度こそ、いいんだよな?」


 男が、もう、冷や汗だらだらで、そこに、まだ、いた。


「わたしは、先に行っててって、ちゃんと言ったからね。逃げ遅れても知らないわよ?」


「まあ、なんとかなんだろ。ゼノは先に行かせたし。あいつ、隙を狙ってました、とか言って、ずっと隠れてやがったんだ。ちゃっかりしてるぜ」


 そうは言うが、始めた準備体操は、まさにぎこちない。格好をつけるにも、娘を思うのも結構だが、大概がんばりすぎである。


「ハクさん、あの――」


「いや、マジで時間ねえから、おまえの贖罪を聞いてる場合じゃねえよ」


 早口でそう、男はまくしたてた。


「だから、帰ったら一発、殴らせろ」


 死ぬなよ。そう言って、ようやっと、動き出す。


 男と少女と紳士と、そして、大狐が。



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