最弱の才覚、最良の才能
男は、その部屋に入室して、状況の整理に、わずかに時間を食った。
眼前にそびえるは、まさしく、『そびえる』と表現すべきサイズの、神々しい、黄金色の大狐。その足元には、あの、クソ教祖が臨戦態勢で構えていた。
そして、その奥。
「ノラっ! 無事か!?」
まずは、なにをも理解するまでもなく、突き進む。妖怪に――九尾に、邪魔される、攻撃される可能性もあったろう。それでも、目前の少女しか見えないように、突き、進んだ。
「ハク! 危ないから戻りなさい!」
そう、言われる。
だが、そう言われた男自身も当然、それを言った少女ですら、男が止まらないことを、もう知っていた。
「うるせえ! 帰るんならおまえも一緒だ!」
そう言って、男は少女の前に立ちはだかる。九尾と、妖怪に、向かって。
「ぴったし」
誰かが男の後ろで、そう言った。それは、少女のようで少女じゃない、女性の声だった。
「これで役者が揃ったね、下僕くん。さあ、最弱が最強に勝つ姿を、見せてやれ」
「こっちにもフラグ立てんの、やめてくれるか?」
言うと、その下僕は、唐突に、男を殴り飛ばした。
*
「なっ――!!」
その意外な挙動に、少女は思わず、立ち上がった。しかし、その下僕。なぜだか女神さまと同様に、その内心を推し量れないが、それでも、敵意がないことは、理解できてしまう。だから、首を傾げながらも、再度、腰を降ろした。
「――ってえな! なんなんだよ! いきなり!」
「借りるぞ」
「は?」
思うのも、つかの間。男は理解する。
『
「てめえ! かえ――」
「ちっ」
男の言葉など無視して、下僕は、舌打ちした。
そして、九尾に、立ち向かう。『箱庭図書館』、『箱庭百貨店』。二冊の『箱庭』を、重ねて、握り締めて――。
「『
瞬間、男は、目を疑った。本当に一瞬だった。まるで、とうに切れたはずの電池で、なんとか灯した懐中電灯のように、瞬間だけ、その二冊の『異本』は、
それはつまり――見間違いでなければ――適応者の証。しかも、『箱庭』シリーズに関して言えば、それは、正当なる継承者でもある、ということ。
「おまえ、いったい、何者だ?」
殴られ、そして、走り続けて失った体力をも相まって、動けない男はただ、問う。
「べつに、誰でもねえよ」
その下僕は答え、くしゃりと、自らの頭部に手をあて、軽く、髪を掴んだ。
*
「そろそろ、茶番はいいかねえ? ……『九尾』!」
妖怪の言葉に従うように、黄金色の妖狐は、鋭く尖らせた瞳を、少し見開き、長い鼻先を天へ掲げた。細く口を開けば、そこから漏れるは、甲高く響く、鳴き声。
それを聞いた者はみな、煉獄のごとき白い炎に包まれ、肉体のみではなく、精神ごと――。
「『ニーニス教典』。『
燃え尽きる前に、その
いや、それよりも。と、そう、少女は思う。この際、『箱庭』シリーズを扱えることは棚に上げておこう。しかし、いまのは、『箱庭百貨店』の性能だ。であるのに、扱ったのは、『百貨店』に入っていない――入れることすらできない、『啓筆』である。
それが扱えたのは、それ以前の『
「あれは、彼だからこそ身についた力だよ」
そう、女神さまが言う。見ると、彼女はもう、元通りになっていた。どこか達観して、いつも余裕そうに、人の心の奥底まで見透かすような、神のごとき、超絶美少女。
「僕と、彼だから、成し得た結果だ。この世界線の君たちには、できやしない。そして、できる必要もない、力だ」
「それは――」
と、疑問を紡ごうとしても、すぐ、遮られる。彼らの、戦いに。
「九尾! なにをもたついてんだい!」
その叱咤に反応するように、ぶるる、と、大狐は首を振るい、今度は物理的に、その大腕を振るって、叩き付けてきた。
「動けんのかよ。すげえな」
しかし、そんなものなど気にも留めていないふうに、下僕は呟く。
「『
その指向を表現するように、横向きに指を差す。すると、その方向へ、大狐の巨体はぐらりと揺れ、倒れ、いくらか転がった。当然と、振り降ろそうとした腕は、空振りである。
今度は序列十五位。引力の『異本』。『Stone “BULK”』の使用だった。そして――。
「九……尾……」
「なあ、まだやんのか?」
光の速度で動けば、音すらも――声すらも置き去りにする。それはさながら、因果の逆転のように。
「『
序列十六位。光の『異本』。『白茫』。
光の速度で妖怪の首元に
「これ以上やると、面倒なことになるぞ」
「九尾を止めたくらいで粋がるんじゃないよ。このじじいが本気を出せば、てめえらなんか――」
「あー、はいはい。もうフラグはいいってんだよ」
はあ。と、嘆息する。
「『カルガラの骨本』。一分」
序列十九位。原始の『異本』。『カルガラの骨本』。物事を
なにかを仕掛けようとしていた妖怪だったが、ふいに、瞬間で、その姿は、消えた。まるで、幽霊――妖怪のように。まるで生まれる前にまで、還されたかのように。
ばさり。と、乱雑に、その場には、二冊の、黒い『異本』だけが、取り残される。
「よかったな。これでもう、老害なんて呼ばれねえよ」
そう言って、下僕は下がった。女神さまのそばに控えるだけの、ただの黒子に、戻る。二冊の『箱庭』を、男の元へ返して。
*
女神さまのそばにまで戻った下僕は、その光景に、眉をしかめた。「あ……」、と、テストが終わった瞬間、すべての解答が、ひとつずつずれていたことに気付いたように、口を、あんぐりと開ける。
「……相変わらずだね、まったく」
すべてを見通す女神さまですら、それは予測の範囲外だったかのように、驚愕した。しかし、すぐにくつくつと笑い、それから――
「あっはっはっはっはっはっは!!」
と、思い切りに、笑った。高く高く声を上げ、呵々大笑である。
ぐるる……。と、その笑い声に揺り起されたように、九尾が、立ち上がる。消えた妖怪の、その枷が剥がれた、解き放たれた幻獣が。
「悪い。……女神さま」
「いや、いいさ。どうせもう、僕たちは用済みだ。……行こうか――」
そう言って、女神さまは手を、差し伸べる。隣に並び立つ、下僕へと。
「次の、世界線へ」
その言葉を受け、下僕は、その手を取る。
「ああ、どこまでも着いて行こう」
下僕は、彼女を引き上げ、そう、言った。
「ちょっと待ちなさいよ。これだけしっちゃかめっちゃかにして、どこに行くっての?」
だから当然と、少女は彼女を、引きとめる。
「それはあとで理解すればいい。君ならできるさ。それと――」
女神さまは下僕と繋いだ手を離し、そのままその手を、下僕へ向ける。だから下僕は嘆息して、そのスーツの内側から、なにかを取り出し、手渡した。
それを受け取った女神さまは、そのままの手で、それを、少女へ渡す。いくらかの紙の束だ。製本されていない、一冊の書籍のような、紙束。
「これは……?」
「『シェヘラザードの虚言』。シリーズ最後の一冊だ」
「なんで!?」
それは、いろいろなことを含んだ一言だった。なんでそれを持っていたのか? そして、なんでそれを、渡してきたのか? と。だってそれは、少女の慧眼ですら、その所在のまったく掴めなかった、数少ない一冊だったのだ。……いや、ともすれば、そうか。と、思い至る。この、少女でもまったく心を読めない――どころか存在すら認知できなかった女神さまが持っていたからこそ、所在が掴めなかったのだ。そう、理解する。
「理解できたようだね」
女神さまが、言う。にっこりと、笑って。
「いや、理解していないのだけれど」
少女は答えた。
ある意味、彼女が持っていたというなら、少女ですら所在が掴めなかった理由には、確かになり得る。しかし、もう一つの疑問。なぜそれをほいほいと譲ろうとしているのかが理解不能だったのだ。
「ならば理解するんだね。もう、時間がないぞ」
そう言って、女神さまは少女の後ろを、見た。
神々しくも、禍々しく、少女たちを見下ろす、九尾の妖狐が、まだ、超然と、そこに、いる。
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