ふたつの『死』
2027年、一月。イタリア、ローマ。
一月も末である。天気こそ快晴であったが、まだまだ寒風吹きすさぶこの日、男と少女、そしてメイドは、またこの街を訪れていた。数日前、男や少女たちがヤップを訪れていたちょうどそのころ、急逝してしまった老人を悼むため。
「世話になったな、じいさん」
死後、慎ましやかに行われた葬儀には間に合わなかった。ゆえにこの日は、他に誰もいない。男は、彼の屋敷の庭に建てられた墓前にしゃがみ、手を合わせた。
その両隣に、少女と、メイドも。
「ハク。席を外しましょう」
メイドの様子を見て、少女は言った。件のメイドは、ただただ、そんな少女の言葉すら聞こえていないほどに真剣に、手を合わせている。わずかに一筋、頬を濡らしながら。
「ああ……」
男はボルサリーノを押さえて、少女とともに、屋敷へ入った。
*
「メイちゃんにとっては、主人である以前に、親も同然でしょうからね。ここに来たころは知らなかったにしても、きっといまは知っていただろうし。自分の父親の友人が、自分を助け出すために苦心してくれたことを。……自分は、望まれてここにいるんだ、って、ことを」
少女は言った。そんな素振りは、EBNA以来のメイドと老人を見ていても、男には感じ取れなかったことであるが、確かに、言われてみればその通りである。少なくとも理屈としてはそうだし、本日のメイドを見ても、やはり、そう思った。
「そうだな」
男は答えた。そして、少しばかり嬉しくも思う。以前の、男が初めて会ったときのメイドであれば、こうしてちゃんと、その親同然の老人を心から悼めただろうか? と、考えてしまう。いやまあ、当時からメイドは完璧すぎて、その内心を推し量ることは、平凡な男なんぞには難しいことであったが、それでも、最近のメイドは、そんな男の目から見ても明らかに、人間らしいから。
「失礼致します」
そのように気を遣ったふたりの前に、老執事が現れた。そして、これまでにないほどに――これまでも十二分だったのにもかかわらず――うやうやしく腰を屈め、一礼する。
「ハク様、ノラ様。本日は故人のためにご足労いただき、まことに感謝致します」
強く敬服したような声質と態度で、老執事は少女を見、男へ視線を向けた。
「ぜひ、故人が遺した遺言の一部を、お聞かせしたく存じます」
言葉にはしなかったが、『お時間よろしいでしょうか?』と、その目は語っていた。そして、半身を引き、どこぞかへ誘う。
少女には解りきっていたことだが、男としては疑問を持ちつつ、その誘う先へ、進む。
*
てっきり応接室などにでも案内されるかと思えば、連れられたのは、故人の私室だった。以前、EBNAについての情報収集に寄らせていただいた際の、かの御仁の寝室とも言っていい。
当時よりよほど片付けられたその部屋は、主を失ったことが解っているかのように閑散としている。そこに生きたその者を、もはや感じられない、無機質さ。男の目から見て、その部屋に置かれた私物は大きく減っていないのに、なんというか、人間らしい意思が欠如しているように見える。
「どうぞ、おかけください」
老執事は言った。執事として当然なのだろうけれど、彼は自らが腰かける以前に、まず客人に席を勧める。
男と少女が座っても、老執事は少し逡巡したまま。誰かを待つように立ちすくむが、やがて気付いたように、自らも男たちの対面に腰を落ち着けた。
「お忙しい御身のことですから、単刀直入にお話し致しましょう。故人は、こちらの屋敷にあるすべての資産を、おふたりにお譲りするようにと、いまわの際に申しておりました。……こちらがその、目録でございます。『異本』はございませんが、活動資金や拠点として、今後もご活用いただければ幸いに存じます」
淡々と、事務的に老執事は告げる。かくして差し出された目録は、数百枚の資料に及ぶほどに膨大だった。
「……は? ちょっと――」
うまく言葉を理解しきれず、男はまず、確認しようとした。
「ありがたく頂戴するわ」
しかし、それを遮って少女が答える。
「で、そのすべてをあなたへ譲渡するわね。あとのことは適当に運用してちょうだい。あなたなら、きっとそれらを、正しく使えるでしょう」
そのまま譲渡した。男の意思など確認せず。確認など、するまでもないと言わんばかりに。勝手に。
その言葉に、老執事はにわかに目を閉じ、そのままゆっくり十秒ほど、黙考した。安堵したような、逡巡するような、深刻な間だった。
「……では、おふたりのために
老執事は、執事として立ち上がり、うやうやしく一礼し、そう告げた。なにかまだ、含むところのありそうな、曖昧な感情で。
「故人は、あなたに言わなかったようね。理由についてはわたしに聞くように、とは」
「……確かに、故人は文字通り、ノラ様に見透かされたことを墓場まで持って行きました。しかし、言わずとも解ります。あの御方が、おふたりに引け目を感じていた、というところまでは」
「…………」
少女は、複雑に皺を深くする老執事を見た。それは、少女の慧眼をもってしても、どのルートで最適に会話を展開させようと、最上の結果には辿り着けないという確信を与えた。
が、まあ、それはどうでもいいことだ。もとより少女は、真実を包み隠さず語る気でいたのだから。
*
この屋敷の元主人、かの故人は、WBOへの出資者のひとり。あるいは、外部監査役としてその組織に関わっていた。その目的は、『知識の探求』。彼は物心ついたときから死ぬまで、常に知識を追い求めてきた。言うまでもなく、書物にはあらゆる知識が内蔵されている。それら
だが当然、
だから、それを男から
それどころか、もっと昔、男の父親とも言うべき
あるいは、WBOに出資していたことも、彼らと関わっていたことも、すべて、その目的のためのものだったのだ。
*
「――害意はあったでしょう。敵意はあったでしょう。でもね、はっきり言って、あなたの元主人は、
少し怒りをも内包したように、少女は諸手を広げ、熱弁した。本当に『うっとうしい』とまで言いたげに、力強く。
「おいノラ、俺には事情がよく解らねえが、言い方を考えろ。少なくともいまは、じいさんが亡くなって気が落ちてる時期だろ」
男が少女を嗜める。故人の、何度会っても拭いきれない、どこか不穏な気配には、男も気を張っていたが、その真実を聞いても、いまいち悪い感情は湧き出てこなかった。本当に少女の言う通り、『結果として』なにもされていない。そう思えば、男たちにとっても表面上、彼は、いい老人でしかなかったのだから。
「よいのです、ハク様」
少女が男へ答える前に、老執事が手のひらを向けて、男を抑えた。
「ノラ様のおっしゃることはごもっとも。もちろん我々も、無理にこちらにあるものを押し付けようなどとは思っておりません。ただ、故人の言葉を――遺志をお伝えしたかった。……また、故人の――彼の罪をお話しくださり、感謝致します」
まるで自身が自身の意思で贖罪するように、老執事はうなだれるように頭を下げた。
「改めて、本日は故人のためにご足労いただき、感謝致します」
姿勢を正して、もう一度、正しく腰を折り、老執事は言った。
*
その、元屋敷の主人の部屋から出ると、なんかいた。
なんかっていうか、メイドがいた。土下座していた。
「うおあ!」
男はとっさに、扉を閉めてしまった。なにごとかと警戒したのだ。
それを押し退け、少女が改めて扉を開ける。そこにうずくまるメイドのそばに立って、彼女を見下ろした。仁王立ちして、遥かなる高みから。
「報告を聞くわ、メイちゃん」
しかし、その声は震えている。聞かねばならない。しかし、聞くのが怖い。そんな様子で。
男もおそるおそる、少女のかたわらに立った。うん、メイだ、間違いねえ。男は自分自身の『家族』とも呼べる、ひとりのメイドを見て、嘆息する。なんかまたふざけてんのか、こいつは。程度の感情だった。
「申し訳ございません、ノラ様。お言いつけを完遂できませんでした。そして、申し訳ございません、ハク様――――」
その声音に、男も気を持ち直す。これは、ふざけてなんかいない。
当然と、ふざけてなんかいないメイドは、震える手で、
藍色の装丁、『異本』、『災害シリーズ』の一冊、『
「
男と、少女の、……全身から、血の気が、引いた。
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