エディンバラ編 序章

終わりの始まり


 2026年、十一月。

 ニュージーランド、ワンガヌイ。


 その、自然と調和した町中に、いつからか融け込んだ、一棟のログハウス。それはまるで最初からそこに建っていたようでもあるし、あるいはつい最近、新たに建てられたようでもあった。が、現実的な話をするならそれは、約五年前に建てられたものである。

 そこに住み始める、一組の『家族』の住まいとして。


「あなたがシャンバラに旅立ってから六年。いろいろなことがあったけれど、さしあたって大切な話は、三つね」


 少女は、長い銀髪がとにかく目を引く、美しく整った外見をしていた。白い肌はいつまでも潤いを保ち瑞々しい。そして、不健康さを感じさせないように唇は赤く、艶めかしかった。それを清潔な白いワンピースで覆うのは、彼女がまだ『少女』であろうとしている証左なのか。瞳はエメラルドのように煌めく緑眼で、それを守るように長く伸びる睫毛は、やはり純白の雪のよう。首元に静かに、それでいて確かな存在感とともに佇む翡翠の飾りは、どこまでも彼女の美しさや可愛らしさを引き立てている。唯一、黒ずんだ左手や、右手にもわずかながら火傷の痕が見られ、痛々しいが、それも含めてすべてが、いまでは彼女の魅力と言ってしまえるほどに調和していた。


 そんな少女が指を三つ立てて言う。その黒ずんだ左手はやはり痛々しいが、しかし彼女はその傷を隠そうともせず、むしろ誇りにするかのように見せびらかす。その薬指に光る、これまた緑の宝石が埋め込まれた、白銀の指輪とともに。


「三つ……聞こう」


 だから、それに気をとられて男は一瞬、口を噤んだ。が、それを気取られない程度の間だけを空けて、応える。


 男は東洋人の顔つきをしていた。黒のスーツにぼろぼろの茶色いコートを羽織って、漆黒の髪には癖があり、それを隠すようなボルサリーノをかぶっている。その姿は、食卓に着いても変わらなかった。


 そのままで差し出されたシチューを食べ終え、それから会話が始まった。いまはそういう場面である。


「本当はお姉ちゃんにも、ジンにも聞いてほしいことだったのだけれど――」


 と、少女は前置きしつつ、部屋の隅を見遣る。


 そこには一人の女が眠っていた。毛布から出す顔は幼いが、その下には大人びた肉体を見せびらかす服装。それを申し訳程度に赤いコートでラッピングしただけの姿があることはもはや周知だ。そして、頭に乗っかるのはなぜか男物の軍帽。しかも、常に外敵を威嚇するように、鋲やバッジなどで無造作に飾り立てている。

 少女はそんな姉を一瞥し、すぐに男へ視線を戻した。


        *


「まずは一つ目。いいお知らせよ。これにはあなたに『おめでとう』と言うべきかしらね」


 少女は少女のように無垢に笑い、表裏なく称賛した。


あなたの・・・・献身的な・・・・自己犠牲の・・・・・おかげで・・・・、776冊の『異本』は一冊の欠損もなく、いまだ世界にあるわ」


「……気付いていたのか」


 風船がしぼむように、男は大きく肩を下げ、背もたれにもたれた。安堵したような口調で。


「気付いたのは最近ね。もっと早く気付いていれば、こんなに急ぐことも・・・・・なかった・・・・のだけれど……まあ、それはいいわ」


 少しだけ少女はむくれて、しかし、すぐに顔つきを戻す。


「『火蠑螈ホォロンヤン监狱ジアンユ』。火難を招き、火難を防ぐ『異本』。あなたがあれを、どうして『箱庭図書館』にしまわず持ち歩いていたのかはずっと疑問だったのだけれど。まさか、それを使っていた・・・・・なんて、可愛いわたしにも思い付きもしなかった」


 今度は呆れたように、それでいて、口調は強く、責めるように。


「あなただからこその使い方だったわね。一度火難にあえばその後一年、火難にあわなくなる。その『火難』をどう解釈するか――。

 あなたは、世界中のあらゆる『異本』を焼失させない・・・・・・ように・・・自らを犠牲にした。あなたにとって『異本』が燃えることは『火難』と呼んで差支えない出来事だったでしょうからね。それがいまだ、自らの手にない一冊だったとしても」


「そこまで具体的には考えてなかったよ。だが、まあ。『異本』が失われるリスクを下げられるだろうとは思ったがな」


「そんな曖昧な判断で使っていたとは思わなかったわ。ああ、でも、まあ、ハクは馬鹿だから、その程度かしらね」


「馬鹿とは失礼だな。……まあ、この件については、あまり反論できねえが」


「その結果があの大怪我でしょう? 馬鹿よ、馬鹿」


 少女は腕を組んでそっぽを向く。怒りも、呆れも、意外なことにそこにはなかった。ただただ、諦めるように苦く笑う。


「……本っていうのは、意外と情報の承継には向いた記録方法よね。水没も埋没も、その機能を完全に失わせるには及ばない。だから、『焼失』をさえ免れれば、そうめったに失われたりしないもの。そう思うと、あの場であの『異本』があなたの手に収まったのは、不思議な因果よね」


 少女はそのもの、複雑な表情でそう言った。なにかを警戒するように。見えない誰かの手を、畏れているように。


「地下世界――シャンバラに赴く数か月前。ハクが『火蠑螈监狱』を使ったのはそのタイミングだった。……これでその効果は、だいたい証明されたわね。その火難の回避は、世界にとっての『一年』ではなく、使用者個人にとっての『一年』を基準に世界に影響する。あなたはシャンバラでの、たかだか40時間弱を過ごしただけで、地球上での六年以上を守ったことになる。なんならもっと長く還ってこなくてもよかったくらいだわ」


 見下すような流し目で、少女は男を見る。冗談を言うような顔つきではない。だから、それはきっと本心で――しかし、冗談でもない嘘だった。


「はっ。いくら『異本』が無事でも、それを集めなきゃ意味がねえ。俺が還ってこなきゃ、それは微塵も進まねえんだよ」


 悪態をつきつつ、男はしかし、複雑な心境だった。


 はたして自分は、まだ『異本』を集めたいのだろうか? そう、葛藤し始めている。あのシャンバラでの出来事――いや、それ以前、若者に真相・・を聞いてから。

 だがそれでも、惰性で、続けなくては、と思う。その目的を失えば、自分が自分でなくなってしまう気がしたから。


 しかし反面、やめなければ、とも思う。本には感情が込められる。多くの人の人生に、深く根付いているものもある。そこから無理矢理に奪い取ることが、はたして許されるだろうか? そしてなにより、目の前にいる少女や、他の『家族』を巻き込んでまで、それはやるべきことだと、もはや思えない。


「そんなことはなかったわ」


 男の葛藤を、少女は壊す。

 立ち上がり、部屋を見渡して。両手を広げて、踊るようにひと回転。ここにあるすべてを、男に捧げるように、めいっぱいに、少女は笑いかけた。


「715冊。この六年で揃えたわ。もう手の届くところに、結末はあるの」


 窓から注ぐ逆光が、少女の顔を薄く陰らせる。


        *


「715冊……」


 男は驚愕以前の困惑で、その言葉を繰り返す。


「正確には、お姉ちゃんの持つ170冊、ジンの持つ2冊を勘定に入れているから、それを譲り受ける必要はあるけれどね」


 少女は言い、部屋の隅、ひとつの本棚へ向かう。そこから、数冊を抓み、卓上へ並べた。


「『カルガラの骨本』。『ニーニス教典』。そして、『ムオネルナ異本』……!」


 そのタイトルをなぞり、徐々に現実味を帯びてくる、驚愕。


「『啓筆けいひつ』は、さすがにこれだけだけれど。序列十九位、十七位、そして、第六位」


「おまえ……いったい――!!」


 どうやって。という言葉は、無理矢理に噤まされた。少女の黒ずんだ人差し指で。そして、その指は男の禁句を見届けてから、周囲へ順に、向けられる。


「おまえ。じゃなくて、おまえら」


 いたずらっぽく、少女は言う。男の隣に座る幼女、対面に座る女児、童女などを指さしながら。そして最後に、少女の隣に座る、いつかの少年・・・・・・を指さし、止まる。


「余計なお世話かとも思いましたが、微力ながら。しかし、ほとんどはマ――彼女が集めたものですけれどね」


 苦笑いをして、その紳士は言った。少年が成長して、若者の影響か、どこか大仰な身振り手振りで。それでいて彼のように気障ったらしくない、丁寧な動作で、少女と目配せながら。


「そうか……」


 喜ぶべきだろうか? と、理性的に考える。しかし、実際にその胸から湧き上がる感情は、その名を付けるなら、『申し訳なさ』だった。そして、引き返せない崖を背にしたような恐怖。


 自身の関与しないところで、もはや『家族』が、引き返せない場所まで来てしまったことへの、後悔。


「世話をかけたな。パララ、カナタ、ルシア。そして、ノラと、ヤフユ」


 そんな感情をすべて払い除けて、男は努めて明るく、みなを見渡した。


 最後に留まった紳士の指に、輝く青い宝石の埋まった指輪に、目を落とす。


        *


「さて、これで一つ目の話は終わりよ。そして、二つ目は……これは、ジンに協力してほしいことだったから、後回しね」


 そう言うと、少女は間を空け、目を伏した。大人びたからか、話すことを決めていたからか、これまで流暢に紡がれていた言葉を、ここで躊躇わせる。


「三つ目。……これは、可愛いわたしにもどうしようもない。ハクが――ハクじゃないときっと、だめだから。……助けて――助けてあげてほしいの」


「助ける……?」


 男は言って、瞬間、なぜだか解らないけれど、一人の『家族』を想起してしまった。少女の言葉からは、彼女・・のことなどまったく、感じ取れないというのに。

 シンクロニシティのように、なぜだか。


「メイちゃんが、離反したわ」


 最後にまっすぐ、少女は男を見た。


 だから男は、目を伏せる。



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