40th Memory Vol.40(地下世界/シャンバラ/??/????)
広がる赤に、血の気が引いたのは、ギャルの方だった。
「うそでしょ……ハク……ハクぅっ!!」
ぼろぼろと、涙を流す。まるでその雫で血を薄めて、その事実をなかったことにしようとするように。全身の水分を瞳から溢れさせているかのように、大量の、涙を。
「起きてよぉ! 悪い冗談やめてよぉ! ハクが……ハクが死ぬわけ――」
その単語に、自ら息を飲む。死――死だ。
人間たるもの、彼ら彼女らは必ず死ぬ。そんなことなど解っていたはずなのに、いざ自分や、自分の大切な者たちに
そんなことをしていても、どうにもならないのに。
そんな理不尽を覆せる魔法など、どこにもないのに。
「ハク……ハクぅ……うっ、うっ……」
もう、このまま消え去ってしまいたい。そう思うと、意識までもが消えかけて、ギャルは、自身が置かれている状況すら忘れて、うずくまった。倒れた男の上に、泣きじゃくった顔を押し付けて。
もう、いいや。ハクのいない世界に未練などない。どちらにしたところで、自分はもう、ダメだったんだから。いつかと同じ。あの日と――あのときと同じ。
そう、ギャルは思った。薄れゆく意識の中で。
「惜しい人材だったけれど、まあいいわ。弱者は散るのみ。それが、世の常ですもの」
その声に、怒りがこみ上げる。もはやなにもなくなっていた心に、だからこそまっすぐに、その感情は広がった。
意識を取り戻し、顔を上げ、キッ、と、睨み上げる。その先で、また別の、血飛沫が上がった。
「なんだ、この、……
令嬢の、その、ゆうに
*
ガーネット家は、いわゆる英国貴族と呼ばれる一家である。
十八世紀初頭から中期にかけて、定期借地権を用いた土地利用により財を築いた。十分な資産を確保してからは慈善活動への注力や、政界へ進出するなど、権力を持ち始め、やがて、アイルランド子爵の称号を得るに至る。
爵位を得てからというもの、もともと注力していた慈善活動にさらなる熱が入り始め、一時、資産を激減させる。これがガーネット子爵の初代から三代目までに起きた出来事で、その後、その立て直しのために四代目ガーネット家当主が奮闘することになる。
せどり。現代で言うなら『転売』とも呼ばれる商行為。一般的には古本の転売に用いられる言葉だが、元来は『品物を取り次ぎ、その手数料を取ること』である。
古本に限らず、絵画や彫刻、陶器など、美術品や芸術品の蒐集が趣味だった四代目ガーネット子爵は、趣味に高じた目利きを利用して、高級芸術品のせどりで家財を回復させた。それからというもの、ガーネット家は芸術品の鑑定家としても有名な一族となる。
そして、七代目ガーネット子爵の時代。偶然参加した、世界的な古物オークションの会場で、子爵は、一冊の『異本』に出会う。
それは、理屈ではなかった。素材、劣化具合、文書構造、……現代では科学的な手法に至るあらゆる方法で、古物の価値は推し量れる。だが、そのときの七代目ガーネット子爵は、直観で、それを手にしたいと思った。特段に高額でもない。むしろ誰も見向きもしないほどのその『古本』を、それゆえに当然と、彼は入手し、そして、魅せられる。
魅せられ、学び、首元まで浸って、そして、狂う。『異本』という世界。それに付随した、数々の都市伝説。人知を超えた力の存在に、彼は傾倒し、没頭した。
そうして政界からも退き、慈善活動もなおざりな献金のみになるまで熱意を失い、『異本』以外の芸術品に見向きすることもなくなって。ほとんどすべての財と時間を
そのために外出することも、なくはなかったが、それでもほとんど、彼は自室に引き籠り、目に見える速度で不健康になっていった。彼と親しかった者たちや、使用人たちの言によると、『なにものかに憑りつかれたよう』だったという。そして、当然というか必然というか、彼は、それから数年という短さで、まだ四十代という若さで他界した。ある一冊の『異本』の蒐集。その志も半ばに。
そんな父のもとで育ったからだろうか。八代目ガーネット家当主、ミルフィリオ・リィン・ニンファ・ガーネットは、不健康に年齢と体重を重ね、成長した。「くだらないわね」。彼女は、他界した父の墓前に、そう呟く。「あたくしなら、あんな一冊のために人生を棒に振ったりはしないわ」。そう言って、供えられた、たった二冊の『異本』――彼が生涯で蒐集できた、そのたった二冊を掴み、微笑む。
「ナイト」
「はい、お嬢様」
呼びかければ、いつなんどきでも応えてくれる、一人の従者。彼以外は去ってしまった。七代目ガーネット子爵が亡くなってから――いや、亡くなる前、彼が、狂い始めてから、徐々に。
「あたくしたちの
世界を構成する『異本』。運がいいのか悪いのか、それは解らないが、運命的に、彼女は『異本』について、多少の知識と、父が残した膨大な資料を受け継いだ。その中で、もっとも興味を引かれた『異本』。それを、求める。
本人は結局、最期まで自覚できなかったが、それは。
それは、かつての父親と、同じように、狂っていた。
「かしこまりました。ミルフィリオお嬢様」
そして、その従者も、また――。
*
「お――――――――まああぁぁ!!」
言葉にもならず、執事は跳んだ。いや、むしろ飛んでいる。その残像に、炎を引きながら。
その行動に、優男も炎を止めた。というより、彼自身、いまの状況を把握しきれていない。それを確認するために――あるいは受け入れるために、止めたのだろう。
肉体の中心に、風穴を空けられたものが二人。
一人は男。彼はおそらく、あの執事にやられた。その執事にもっとも近い位置にいた優男ですら、そういう認識だ。彼はずっと炎を照射していた。それゆえに、視界が不鮮明だった。そういう要因もあるだろう。だが、間近で見ていても理解できないなんらかの方法によって、
そしてもう一人が、令嬢。圧倒的に有利だった。いま、この場を支配していたのは、間違いなく彼女だった。それが、突然現れた一人の青年の不意打ちにより、一気に突き崩れる。まさしく、文字通りに。
「連れがいたんですか、面倒な――!?」
青年は余裕そうに執事を見て、そして、見えなくなる。それは、執事自体の姿が速すぎたこともあるが、そもそも、青年自身が千々に千切れ、ましてや尾を引く炎に焼かれ、消滅したからだ。まあ、例によって例のごとく、ただの
「お嬢様……」
問題はそれより、そんな青年を完全に見もせずに、いとも簡単に消滅せしめた執事の、速さと炎だ。
青年は、確かに気を抜いていた。だが、死に至らしめる攻撃を仕掛けておいて、その反撃や、周囲の者たちからの迎撃に構えないほど愚かではない。仮にその姿が、式神の一つであったとしても。その式神が体感する経験は、彼自身の『宝』なのだから。その時間を無為にするような人間ではないはずなのだ。
それが、わずかの抵抗もできないままやられた。となれば、それを為した執事の速度は常軌を逸している、と言っても過言ではない。言い換えるなら、人間を超えている、とまで表現してもよいくらいに。
そしてもう一点。炎。それは、直前まで受けていた優男の攻撃による引火――ではない。最初はそのように見えた。だが、あまりにも燃えすぎている。そもそも、執事は一時、優男の炎を受け止めていたのだ。もとより引火など起こしていなかったか、起きていたとしてもたいしたものではなかったのだろう。だからそれは、引火というより、発火だった。
EBNA。執事とメイドの養成学校――と、表向きにはそうなっている――。彼は、そこの出身者だった。EBNA第七世代の、俗に言うなら『改造人間』。といっても、ロボトミー手術に身を捧げ、全身機械仕掛けになっているわけではない。むしろ、その逆。
EBNAは、その内実、
神の細胞。そのようにも呼ばれる。それは文字通り、神や、悪魔。その他、神話上の、空想上の異形を宿した、突然変異の最小生物。それをEBNAでは『
*
ゆえに優男の炎も難なく受け止めた。それは偶然だったが、しかし優男の放つ攻撃が炎でなかったとしても、執事は、自身が生み出す高温の炎により焼き尽くし、無効化できると考えた。まあ前述の通り、結論としては炎を受け止める形となったのであるから、必要以上に容易な防御行動となったわけだけれど。
「お嬢様……お嬢様!」
執事は駆け寄り、主人を抱き上げた。その、巨体の首を。それでも、愛おしそうに。
「……かっ…………ごぶっ……」
令嬢は、もはや言葉すら紡げない。それほどに血液は流れていた。動悸が激しくなり、風穴の空いた内臓に溜まった血液を逆流させる。上へ、上へ。不純物を押し出すように。
それでも、執事は耳をそばだてる。ときおり彼女の名を呼ぶが、ただそれだけで。
「……かしこまりました。ミルフィリオお嬢様」
やがてそう言うと、執事は立ち上がり、その手に、どこから取り出したのか解らない速さで槍を握り、そのまま――令嬢の首を、斬り落とした。
切断と、血液の噴射の勢いで、首は転がる。ただの、石ころのように。
「……いまとなっては、あなたの言う通り」
執事は言う。なにも変わっていないような、しかし、これまでの彼とはまったく違うような、口調で。
「もはや
振り返る。全身を真っ黒に焦がして。
感情など感じない。怒りなど、悲しみなど、まったく感じさせない、どこか達観した無表情で。
斬り落とした生首を、石ころのように蹴飛ばして、そう言った。
*
さて、こうして、この場でもっとも戦闘力において優れた一人が、その首輪から解き放たれたわけである。が、そんなことなど眼中にない、その者たちも、ここでようやく、合流した。
「おい、そこなガキ。邪魔じゃ、どけ」
子どものような、飾り気のない顔だった。だから、
倒れた男を挟んで向かいに、見知らぬ二人が座り込んでも、ずっと。
「どうじゃ、ミジャリン」
「……どうもこうも、正直、手の施しようがない」
「そうか。……そりゃ、災難じゃったのう、末弟」
時代が古いとはいえ、十二分に名医と呼んで差支えない者の、言ってしまえば死亡宣告に、しかし、その女は、楽しそうに犬歯をむき出し、笑った。
「まったく、相変わらず、無茶ばかりしよる。……まあ、だからこそ、痛みにも慣れておると願おう」
女は言うと、自身のコートから赤い装丁の本と、大量の札束を取り出し、男の体の上に置いた。本を開いて置き、その内へ、その札束を押し込むように。
「聞こえておらんじゃろうけど、
楽しそうに言う。くっくっく。と、いつか自分が感じた苦しみを共有させるように、いたずらに笑んだ。
「『ミジャリン医師の手記』。
小さく輝く光に照らされ、女の顔は、どこか凄絶に、美しく見えた。
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