40th Memory Vol.36(地下世界/シャンバラ/??/????)
その急斜面を、若き執事は令嬢を抱え上げ、慎重に登っていた。一般人と比べ十二分に体力も筋力もある。しかし、泡で作られた地面は歩きにくく、また、抱えているのは、自身のものとは比較にもならない高貴な身命だ、慎重になりすぎるに越したことはない。
「うふふ……うっすらと汗ばんできたわね。わずかに息も上がってきた。……どうする? 降りましょうか?」
令嬢が言った。言葉こそ執事を気遣っているふうではあるが、顔つきはいたずらに笑い、優雅に差したままの日傘すら畳んでいない。それとは逆の指先では、執事の頬を伝った汗の一筋を拭うように、滑らせる。
「いいえ。この体はお嬢様を抱き上げる喜びに打ち震え、逸る心臓が体温を上げているだけにございますれば。むしろ心身ともに力が
とはいえ、理由はどうあれ、心身ともに異常ではあるようで、執事はやや震えた声で言った。汗ばんで引き攣った表情を柔らかく微笑ませてみても、やはりどこか無理のありそうな完成度である。
「まだ道は半ばだけれど、登りきったら降ろしてちょうだい。火口への降りは自分で行くわ」
「はっ……仰せのままに」
「ちなみに、重ければいつでも降ろしていいのよ? 『重い』と一言言ってくれれば」
「滅相もございません。お嬢様はまさしく、
「そんなわけないでしょう?」
それまで機嫌がよさそうだった令嬢は、そこでぴしゃりと、声質を変えた。このへんは温室育ちらしい。山の天気のようにころころと機嫌が変わるのである。
「あなたはまだあたくしのことを理解していないようね。そんな、適当なおべっかで、あたくしが喜ぶとでも?」
「いいえ、お嬢様。決しておべっかなどではございません。……お嬢様の崇高なるお考えに
足を止め、執事は誠心誠意、弁明した。令嬢の瞳をまっすぐ見据え、嘘偽りがないことを示しながら。
そんな彼の言葉を、令嬢は苛立つ感情とともに飲み込んだ。言われたこと自体は、素直に嬉しい。その言葉が本当だとも感じる。しかし、その言い方は、使用人としても
できることなら、もっと近付きたいのに。主人と使用人としてではなく、もっと、べつの。そうなれるように、許容してきた。自分にも、相手にも。それでも、まだ、こんなふうなのだ。
信頼関係は、いびつながらも築けている。そしてそれを、互いに『それだけでいい』と思ってしまっている。
「まあいいわ。
言って、令嬢は日傘を投げ捨て、執事の首元に抱き付いた。その勢いが強かったから、執事は一瞬、よろめく。それでも、優しい笑みで許容して、彼女のすべてを受け入れた。
さて、そろそろ登頂も近い。
*
やがて、令嬢と執事は登頂した。その火口の縁まで。
「なかなかいい眺めね。ウタカタがうじゃうじゃと蠢いて、まさに『火口』といった様相だわ」
令嬢は、自らはまったく体を使っていないのに、さも自分で登ってきたかのように清々しい表情で、髪をかきあげ、一度、深呼吸した。
「この先は、斜面こそ緩やかですが、仰る通りウタカタが多くおります。もちろん、お嬢様の進む道は、全力で切り開きますが、念のため『異本』を準備していただく方が無難かと」
執事は普段通り、片膝をつき、首を垂れ、丁重に進言した。
「言われるまでもないわ。あなたのことは信頼しているけれど、あたくしも少しは、遊びたいもの」
言いつつ、令嬢が取り出したのは、水色と土色、二冊の『異本』。それはどちらもほぼぴったり同じ大きさだ。ゆえに、同じシリーズであることがうかがえる。
同じシリーズとして分類される『異本』は、そのうちの一冊が扱えれば、同シリーズの別のものも扱える可能性が、割と高い。彼女もその例に漏れず、どうやら少なくとも二冊の『異本』を扱える、ということなのだろう。
「あなたも、気を抜いていると足元をすくわれるわよ? ウタカタは、まともにやり合ったらけっこう強い……らしいから」
情報は多く入ってくる。しかし、いまだその実態は推し量れていない。
ウタカタ。地下世界シャンバラの原住民。
その粘着性の表皮は、それで互いを繋ぎ合わせ、巨大な一個体となる。そして巨大な腕を振り上げるように蠢き、敵を攻撃するのだ。それは、その柔らかい体表を瞬間的に硬質化させ、打撃を与えたり、粘着性のある表皮で敵を拘束したりと、その程度だが、問題は、彼らの防御力だと言えるだろう。
ウタカタの肉体は、まさしく見た目通り、ゼリー状に柔い。ゆえに、打撃ではほとんどダメージを与えられなく、斬撃であろうともただただ切り刻むだけで、すぐに再結合してしまう。ただし、最小単位があるらしく、だいたい直径1メートル以下のサイズにまで刻めば、それらは動かなくなる、らしい。とはいっても死んだわけではなく、刻まれたウタカタも、他の動けるウタカタが近付き結合し、最小単位を越えれば復活する。
まるですべてを合わせて一個の生命体のように、誰かがそれをどこかから操っているかのように、彼らの、その動きを止めることはできるが、殺すことはできないのだ。
「――と、言われているけれど、実際はどうなのかしらね」
令嬢は言った。彼女はいつの間にか、玉座についている。いったいいつ、どこから取り出したのか。いや、見たところ、自然の岩を切り崩して作り上げた即興のようだ。見た目は、彼女の住まう古城のそれと違い、かなりいびつである。だが問題は、その材料を、この世界のどこから調達したか、だろう。
「私が試してみましょうか? お嬢様」
かたわらに立つ執事が言う。その手には、これもいつの間にか、一本の長槍が構えられていた。
「いえ。……せっかくだから、もう少しこの景色を眺めていたいわ。……だから、ナイト?」
「はっ。なんでございましょう?」
名を呼ばれ、瞬間で、執事は片膝をつき、首を垂れる。
「日傘を取ってきなさい。五分あげるから」
登ってきた急斜面を指さし、令嬢は楽しそうに命令した。
――――――――
その対面だ。その二人が来る前から、彼はそこにいた。優雅に腰を降ろし、やや後ろに体を傾けながら。
とはいえ、令嬢の即興に作った玉座には、その優雅さは遠く及ばなかったが。
「予想よりだいぶ早い。……だが、圧倒的強者の余裕だろうか、早くとも緩慢だ」
若者は呟く。肉眼でしかと捉えている。だから、向こうからもこちらは窺い知れるはずだ。それでも、身を隠しもせず、彼の方こそ余裕そうに。
まあ、正確にはその姿勢で、すでに彼は十全に、身を隠していると言えるのだけれど。
目を瞑る。世界に散らした、
女は、順調に進んできている。
男は、やや蛇行しているが、どうやら近付いてはいる。あの学者然とした者が案内しているのか? いや、案内というより模索だ。しかし、この場所を見つける手がかりくらいは持っているようである。時間はかかるかもしれないが、到達はできるだろう。
そして、他二つの影がある。彼らは一時敵対していたが、いまでは完全に離れ、各個行動しているようだ。だが、こちらへ向かっている、という感じはしない。
「まあ、最後の二つの影は、邪魔になりそうだからね。到達しない方が、
まるで自分にとってはどちらでもいい、と言わんばかりに、他人事に、若者は呟いた。
「いや、しかし――」
自分の言葉に反語を向ける。視線を、前方へ向けて。
「ホムラにハク。それに同行する彼らがすべて、協力して。……この際、ぼくも加勢するとしよう。……それで――」
思い付く限りの最大戦力だ。それを、思い描く。
しかし――
「それで、
別に、令嬢のことをなにか知っているわけではない。しかし、その手に握られた、『異本』のことは知っていた。
それをいかほど扱えるのか。十全に扱えたとして、どれだけ応用できるのか。そんなことは、もちろん解らないけれど。
「もし、ぼくの思い付く限り、最大限に扱えるのだとしたら……」
手も足も出ないだろうね。その言葉は、飲み込んだ。
最悪の場合は、最悪の結果が待っているだけで、それはどうせ、訪れたなら抗いようもないのだから。
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