40th Memory Vol.30(地下世界/シャンバラ/??/????)


 ついさきほども感じた浮遊感――いや、たんなる落下。慣れたつもりになって、男は、余裕そうに着地するが、さきほどと違い、背中に強かな衝撃を感じ、呻いた。


「……ってぇ。……なんだってんだ?」


 ただ『異本』を取り出すために手を差し入れただけだ。それだけで『箱庭図書館』の中に引きずり込まれるなど、過去になかった。よもや取り出すだけのつもりが、中に入ろうと念じてしまったのだろうか? そういう類のミスだったとしても、その経験すら初のことである。


 普段であれば、『図書館』内に入るとき、正常に念じて侵入を行えば、そもそも空中から落下するなどということもなく、ただ扉を開けて入るかのように、地に足をついた状態で侵入できる。つまり、ミスだろうがなんだろうが、落下して侵入する、そのこと自体がすでに、異常なのだ。


 ゆえに、男は落下の痛みに慣れたころ、わずかに警戒し、寝転がったまま、周囲を見回した。


 すると、ひょこっと、ふいにその顔は、天空から男を覗き込む。


「おわあ!」


「うおう!」


 男が叫んで上体を上げると、覗き込む顔はそれに比例して、身を引きながら叫んだ。


 振り返り、目が合う。


 エキゾチックな黒い肌。美しく長い黒髪に、漆黒の瞳。良く言えば通気性がよく、悪く言えば露出の多い、熱帯特有の、薄布を纏い――


「……なんだ。誰かと思えば、馬鹿か、のう」


 その女流・・は、安堵と喜びを含めた、いたずらっ子のような笑顔で、言った。


        *


 腰を落としたまま、男は少し、距離を取る。状況は認識できた。だからこそ、その現実が疑わしく、悪く言えば怪しい。


「く……くく、クレオパトラ!?」


 その名を、呼ぶ。現実世界、あるいはこの地下世界において、時間がどういうふうに流れているかは知らないが、体感的には数時間前。地下世界へ降りる際の『試練』を執行した試験官。その者の名を。


「てめえ! なんでこんなところにいやがる! つうか、どうやってここに!?」


 言いつつも、男は考える。確か、あの『試練』が行われた世界は、自分が『試練』を突破した際に崩壊したはずだ。そして、その試験官である女流は、またもどこかへ、輪廻転生だか、異世界転移だかする可能性があった。


 百歩譲って、その現象については認めてもいい。だが、転生あるいは転移先が、この世界・・・・だとはどういうことだ?


『箱庭図書館』は、『先生』が作った世界だ。異空間として、かなり小さめではあるが、一つの世界であると言っても過言ではない。だが、あくまでここは、『先生』という個人が作った、まったくもって個人的な世界。そこに、他人が干渉する余地などないように思える。『図書館』を受け継いだ男や、少女を除けば、入ろうと思ったところで入れないのが本来なのだ。


「余の知ったことか。あの世界から離れ、徐々に余の意識は薄れていった。……で、気付いたらここにいた。この場所がなんなのかすら、まだ解っておらん。説明が欲しいのは余のほうぞ」


 同じように異常事態に立ち向かう者としては、やけに落ち着いた様子で、腕を組み嘆息し、女流は言った。これが数世紀もの間、二度目の人生を体験してきた者の余裕なのであろうか?


 その落ち着き払った態度に、男も冷静さを取り戻す。そうだ。女流がすでにここに顕現してしまっている以上、理屈なんぞ考えても仕方がない。『異本』が作り出した世界なのだ。荒唐無稽くらい、簡単に起こり得る。


        *


 男は、この世界――『箱庭図書館』について説明した。『異本』の中にある世界。『異本』を収める空間。そしてこの世界は現在、男が持つ『異本』の内側だ。ゆえに、男がここに来たことも、説明する。


「いやまあ、本当は中に入る気はなかったんだが、なぜか入ってきちまったんだよな。……てめえがここに来て、世界になにか異常が起きてんのか?」


 質問……というよりは、疑問だ。自問自答。もし、その異常のせいで、毎度毎度中に入らなきゃ『異本』の出し入れができなくなったのだとしたら面倒だ。そう、男は思った。


「ああ、それなら。急に天から腕が現れたので、余が引っ張っただけぞ」


「ああ、なるほど。だからか。……って、なにやってんだ、てめえ!」


 女流があっけらかんと話すので、男も納得しかけてしまった。ゆえに、ノリツッコミである。


「なんで引っ張るんだ、てめえ。おかげでまた落ちたじゃねえか。なんだ? 今年の俺は、落下の相でも出てんのか?」


 声を荒げるのをやめ、じわじわと追い詰めるように、問い詰める。神聖なるエジプト女王の両頬を、不敬にも右手で掴みながら。


「うにゅにゅういゆゆ……うゆー!」


 じたばたと身振り大きく抗議する女流。しかしながらなにを言っているかは解らない。男は呆れ、手を離す。


「知らん世界で、急に手とか現れたら、そりゃ掴むわ! 余だって心細いのだぞ! のう!」


 涙目で男を睨み上げ、頬をさすりながら女流は抗議する。そう言われると一言もない。


 男はため息をついて、諦める。そうだ。どうあがいたって、こうなってしまったものは仕方がない。


「悪かったよ……」


 地に付した女流に合わせ、腰を落とす。片手を差し出し、その手を取った。


「まあ、なんだ。……ともあれ。……これから、よろしく、のう」


 軽く頬を紅潮させ、女流は言った。


        *


 女流のことはひと段落だ。だからこそ男は、ここにきてようやく、ここに来た理由を思い出す。……いや、正確には来るつもりはなかったが、ともかく。


「そうだ。俺は『彩枝垂あやしだれ』を取りに来たんだ」


 言葉にして示す。もう、どれだけ経った? この世界は、外の世界と・・・・・時間の流れが・・・・・・違う・・とはいえ、小一時間ほど経っただろう。それに外との時間差もさほど大きくはない。ならば、若者をだいぶ待たせているはずだ。


「『彩枝垂れ』?」


「『異本』だよ。俺がここに収めておいたうちの一冊。書架222番」


 言いながら、その場所を探す。『彩枝垂れ』を含め、ここにあるほぼすべての『異本』を、男は扱えない。扱えるのは数冊の、汎用性Aの『異本』のみ。ゆえに、一度収めてからは、その書架の位置を把握する機会などなかった。少なくとも番号を覚えていれば、手を差し入れるだけで取り出せるのだから。


「222番はこっちぞ」


 逆方向を向く男の手を取り、女流は引っ張った。


「……おまえ、知ってるのか?」


「暇だったからのう。番号と、読めるだけのタイトルは覚えた。……そうか。222番は『彩枝垂れ』と読むのか」


 なんでもないふうに女流は言う。広大とは言えないが、それなりの量だ。そのうえ、書架ナンバーはなぜだか順不同だ。男の予想では、『異本』によってサイズが違うから、それらをバランスよく収めるにはナンバーに気を遣っていられなかった、という理由が思い付いた。だがしかし、そもそもその書架ナンバーというものがどういう基準でつけられているかも解らないのだが。


「つかぬことを聞くが、ここに来て、どれくらい経った?」


「さて? この場所も、時間の感覚が掴めぬからのう。……体感的には、まだ半日くらいか」


 女流はやはり、あっけらかんと言う。その言が正しいなら、時間いっぱい探索していたとしても、数周くらいしか回っていないはず。それでこの世界を把握したというなら、なるほど、やはり女流は人間としても十分に優秀らしい。


「ほれ。ここぞ。……間違いないかのう?」


 言って、女流は指をさす。その先には、確かに『彩枝垂れ』が収まっていた。


「ああ、確かに」


『異本』を手に取り、男は言う。白い装丁に、カラフルな色彩で綴られたタイトル。『彩枝垂れ』。


「軽く読んでみたが、日本語は難しいのう。挿絵が多いから、絵本なのだろうが」


「いや、絵本じゃねえ。……これは詩集であり、かつ、画集だ。詩になると、単語は拾えても、文法的に出鱈目なこともあるからな。外人にゃ難しいだろうよ」


 男は言う。『彩枝垂れ』は男にとって、特別な一冊だ。『先生』から受け継いだもの。だからこそ、何度も何度も読み耽った。もしかしたらいつか、扱えるようになりはしないかと、淡い期待を抱きながら。


「ともかく、助かった。ありがとよ」


 男が言うと、女流は困ったような顔で笑い、やや、俯く。しかしそれは一瞬で、いつも通りに顔を上げ、微笑んだ。


「……うむ! また頼るがよいぞ!」


 普段以上の快活さで、女流は言う。だから、男はその心を汲み取り、頭を掻いた。


「あのゲームを、改良しとけよ」


 男は言う。突然の言葉に、女流は少し、首を捻った。


「盤と駒は、今度それっぽいのを持って来てやる。だから、ルールの改良だけ考えてろ。……次はノラも連れてくるから」


 その言葉に、心の底からの微笑みを返し、女流は、また少し、瞳を濡らす。


「……ああ、約束ぞ。のう」


 そして、男の背を押す。とっとと行け。こっちを向くな。そんな言葉が聞こえるような強引さで。


「あれ、もしかして」


 出る。という段になって、思い至る。


「なあ、クレオパトラ。……もしかしたら、俺と一緒なら、外の世界に出られるんじゃねえか?」


 そうだ。少なくとも、試してみる価値はある。しかし――


「どうせまだ地下世界であろう? そんな未開の地に放り出されても困るわ」


 言ってみて、男もすぐに、それに思い至る。どんな危険があるかも、まだ解らないのだ。それに、若者に説明するのも面倒だ。


「元の世界に戻ったら、試してもらおう。それまでここの管理は任せておけ。あまり数はないようだが、あるだけの『異本』とやらは読んでおく。書架の場所も、『異本』の内容も、しかと把握しておいてやるから安心せい」


 女流は笑って、再度、男を押す。


「……じゃあ、任せたぞ、クレオパトラ」


 外の世界まで、押し出される。そのわずかな光の中で、男は言った。


「うん。……いってらっしゃい。のう」


 笑顔と、少しの涙。振られる手と、その言葉で。


 女流は、男を送り出した。改めて、地下世界へと。



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