新生児用シューズ(未使用) 500円

相沢泉見

新生児用シューズ(未使用) 500円




  世界で一番短い小説というものがある。


『For sale: baby shoes, never worn(赤ちゃんの靴売ります。未使用)』


 以上、たった六つの言葉で構成されている話だ。

 文豪・ヘミングウェイが書いたと言われているこの小説を、僕は先日、インターネットの記事で見かけた。

 今、そのフレーズが痛烈に脳内を駆け巡っている。

 仕事帰りにふらりと入ったリサイクルショップの片隅。目に留まったペラペラの値札に、不揃いな手描きの文字でこう書かれていたからだ。


『新生児用シューズ(未使用) 500円』


 いつもの僕なら、棚の前を素通りしていたと思う。だが、この日は立ち止まった。そうせずにはいられなかった。

 文豪の書いた『世界で一番短い小説』よりも無機質で、愛想の欠片もない値札。

 それがつけられていたのは、真新しい赤ん坊の靴だ。布でできていて、両足分を揃えても片手に乗ってしまうほど小さい。

 そこに、細いリボンとレースで飾りがつけてあった。飾りのパーツはどれも親指の爪ほどの大きさで、布製の靴に丁寧に縫い付けられている。どれだけ細かい作業になるのだろう。作る工程を考えただけで気が遠くなりそうだ。

 まるで、宝石のように華奢で儚いもの。それが今、僕の前に置かれている。

 誰かに一旦購入されたはずなのに、一度も履かれることなく、リサイクルショップの片隅で埃をかぶっている赤子の靴。

 なぜ、売りに出されたのだろう。未使用のまま。

 もしかして、もしかしたら――この靴を売りに出した人の子供は……。


「あ、この靴、まだ売れてなーい!」


 その時、背後から弾んだ声が聞こえた。

 振り返ると、二人の若い女性の姿が目に入ってくる。二人のうち一人は、ぷくぷくとよく太った赤ん坊を抱いていた。

「この靴、もう四か月もここに置いてあるんだよ。売れないのかな?」

 赤ん坊を抱いた女性が言う。

「四カ月も売れ残ってるなんてよく知ってるね。この店、よく来るの?」

 もう一人の女性が首を傾げると、赤ん坊を抱いた女性は大きな口を開けて「あはは」と笑った。

「よく来るっていうか何ていうか……実は、この靴をこの店に持ち込んだのは、私なんだよね!」

「えぇーっ、そうなの?」

「この靴はね、私の妊娠が分かってすぐにダンナが買ってきたんだ。でも、実際生まれたのはほら……この子でしょ?」

 女性は、抱いていた赤ん坊をゆらゆらと揺らして見せた。腕の中で、い服を着た赤ん坊がすやすや眠っている。

「うちのダンナったら舞い上がって、まだ私のお腹が膨らんでもいない時期に、目についたものをパッと買ってきちゃったのよ。この靴、どう見たって女の子用じゃない? でも、生まれたのはこの通り、男の子!」

 陳列されている靴は、淡いの布でできていた。リボンの飾りも同色だ。

 お姫様が履くならぴったりだが、抱かれている赤ん坊の青い服とは、ちょっと合わないだろう。

「この子が生まれてから、赤ちゃん用の靴を改めて買い直したの。だからこのピンクの靴は、もったいないけど一度も使わないままリサイクルショップに持ち込んだんだ。……まだ売れ残ってるみたいだけどね」

「そうだったんだー」

「うちのダンナってば、本当にあわてんぼうなのよねぇ」

 女性たちはけらけらと笑って、別の棚の方へ行ってしまった。


 僕は一人、その場に取り残された。

 大きな口を開けて笑った女性の幸せそうな顔と、彼女に抱かれていたまん丸い男の子の姿が、その場に甘い余韻となって漂っている。

 一度も履かれることなく売りに出された、赤ん坊の靴。

 その背後にあった物語を、僕はひそかに想像し――そして真実を知った。

 想像と真実、二つのストーリーは大きく異なっている。だが、全く見当違いの結末だったのに、僕の顔は自然と綻んでいた。


『新生児用シューズ(未使用) 500円』


 その値札が付いた小さな桃色の靴を、そっと手に取る。しばらく眺めたあと、いくらか積もっていた埃を払い、レジへ向かった。

 これを買って、早く家に帰ろう。

 家では僕の妻と、生まれたばかりの娘が待っている。妻は、娘は……このお土産を喜んでくれるだろうか。



    了

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新生児用シューズ(未使用) 500円 相沢泉見 @wright_sweet

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