3/ラーイウラ王城 -2 悪逆の街
──かすかに響く、笛の声。
聞き覚えのない旋律に、ふと、懐かしさを覚えた。
身じろぎをして、目蓋を開く。
「おはよう、カナト」
正面に座すユラが、俺に挨拶をした。
「……ああ、おはよう」
あくびを噛み殺しながら、前髪を掻き上げる。
「はい、これ」
ユラが差し出したのは、竹筒だった。
「これは?」
「濡らした手ぬぐいが入ってるの。顔くらいは拭きたいでしょ」
「ああ、助かるよ」
横から、ネルが言葉を挟む。
「沸騰術で蒸したから、気持ちいいよー。目が覚めると思う」
「便利だな……」
改めて、魔術の利便性を再認識する。
火、明かり、そして簡単な道具。
人が人として生きるための最低限のものが、すべて魔術で代用できる世界。
そんな世界で、魔術を奪うことが、どれほど残酷か。
そんなことを考えながら竹筒の蓋を開くと、中から蒸気が溢れた。
「おお」
指先で、蒸した手ぬぐいを引っ張り出し、軽く冷ましてから顔に当てる。
「……これは、気持ちいいな」
たしかに目が覚める。
「ね。あんまり見ない使い方」
「そうなんだ。ラーイウラでは、わりと一般的だよ。竹が採れるからかも」
「水を弾く素材じゃないと濡れた手ぬぐいを入れておけないし、金属だと熱したときに持てなくなるもんな。竹か陶器じゃないと難しそうだ」
「ラーイウラを出るとき、竹筒、何本か買っていこうか。便利だね」
「そうしよう」
和気藹々と雑談を交わしていると、ヘレジナとヤーエルヘルが目を覚ました。
二人にも竹筒を渡し、腕時計を確認する。
短針が、六を指していた。
座りながらとは言え、七時間も睡眠が取れれば十分だ。
好調とまでは行かずとも、体調もさして問題なさそうである。
「ところで、この笛の音は?」
「──…………」
ネルが、おもむろにカーテンを閉める。
朝日の射し込む客車内が、一瞬にして真っ暗になった。
「城下街から聞こえてるのね。あそこは、いつも賑やかだから」
「朝から……?」
「早朝からとは、さすがにうるさかろう。妙な街だ」
ヘレジナの言葉に、ネルが首を横に振る。
「違うわ」
「違う?」
「──うるさいから、演奏しているのよ」
「?」
ヤーエルヘルが、頭上にハテナを浮かべる。
ネルの言葉を理解するのに、そう時間はいらなかった。
喉を振り絞るような悲鳴。
嬌声。
そして、喧騒──人々の楽しそうな笑い声。
「ひ──」
「……ヤーエルヘル」
俺は、隣に座っていたヤーエルヘルを正面から抱きすくめ、帽子の上から獣耳を塞いだ。
亜人は耳がいい。
俺たちに聞こえないものまで、聞こえてしまう。
「下の耳も塞いで」
「は、い……」
ヤーエルヘルが、両手で、人の耳を塞ぐ。
これで、幾分かはましだろう。
「う──」
青い顔をしたユラが、同様に、自分の耳を塞ぐ。
俺に、もっと手があれば。
そう願わずにはいられなかった。
でも、ヤーエルヘルは、一人ではすべての耳を塞げないから。
「……なんだ、これは」
ヘレジナが、身を震わせる。
怒りと、恐怖とで。
「なんだ、この街はッ!」
「これが、ラーイウラ城下街。悪逆の街。──この世の地獄」
ヘレジナが、客車の壁を叩く。
「狂っている……」
「外は見ないで。たぶん、あなたたちが考える最低最悪より、もっとひどい光景が広がっているから。胸糞が悪くなるだけ」
ネルが、感情を殺した目で呟く。
「あたしたちでは、何も変えられない。助けたとしても、それは一時的なこと。死を、苦しみを、辱めを、先延ばしにするだけ」
「──…………」
ふと、どうでもよくなった。
馬車を降りて、目に映る人非人どもを、残らず斬り伏せてしまいたくなった。
俺には、それができる。
その力が、ある。
──嗚呼。
俺は、変わりつつある。
だって、今の俺は、あの街道の夜と同じだ。
人を容易に殺せる俺だ。
悪鬼羅刹のたぐい、人ならぬ畜生だ。
俺は──
「カナト!」
気付けば、ユラが、俺の頬に触れていた。
「ユラ……?」
「自分を、見失わないで」
「──…………」
必死に、笑みを作る。
「……ああ。大丈夫、だよ。大丈夫。大丈夫だ。ユラが、好きになってくれた、俺だよ」
自分に言い聞かせるように、大丈夫と繰り返す。
変わりたくない。
嫌われたくない。
俺は、俺でありたい。
ありたいのに──
笑い声が、俺を狂わせていく。
何故、笑う。
何故、笑える。
人は、これほどまでに残酷になれるのか。
「……ごめん、ヘレジナ。ヤーエルヘルを頼めるかな」
「あ、ああ……」
ヤーエルヘルを、ヘレジナに託す。
悲鳴のひとつも聞こえないよう、細心の注意を払いながら。
そして、
「──カナト、おいで」
「うん……」
俺は、ユラの胸元に顔を埋めた。
ユラが、俺の耳を、優しく閉ざしてくれる。
甘い香り。
大好きな、ユラの匂い。
「……俺は、俺が怖い。自分が怖い。今、外を見たら、目に映る人でなしどもを残らず殺してしまう。強くなったことが、怖い。力を持ったことが、怖い。自分を律せなくなるのが、いちばん怖い」
言葉が、溢れ出す。
「あの十七人を殺したこと、ずっと後悔してる。殺す以外のやり方があったんじゃないかって、ずっと、ずっと。でも、同じことがあったら、俺はまた、きっと殺すんだ。殺してしまう。俺は。俺は──」
「大丈夫だよ」
ユラの手を流れる血潮の音と共に、声が聞こえる。
「カナトが、わたしたちのことを好きでいてくれるの、守ろうとしてくれているの、ちゃんとわかってる。わたしは、あなたを許します。どんなあなたでも。たとえ、人ではなくなっても」
額に、そっと唇が触れる。
「ハルユラ=エル=ハラドナは、相葉奏刀のことを、愛しています」
「──…………」
その言葉を聞いて、俺は、ようやく人心地ついた気分になった。
罪は罪であり、人の命を贖うことはできない。
でも、ユラが許してくれるなら。
ヘレジナが、ヤーエルヘルが、許してくれるのなら。
それだけで、俺は救われる。
俺は、そのまま、目と口を閉ざした。
ユラの香りに包まれながら、ラーイウラ王城へと辿り着くまで。
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