2/リィンヤン -5 泉
ティビコン川の源流は、八合目から森へ分け入った奥にあった。
道案内は不要とジグが言っていた通り、源流が形作った泉は開けており、正午過ぎの陽射しを受けてきらきらと輝いている。
「──ッ、はぁ……!」
ヘレジナが、膝に手をついて息を整えている。
他人事ではない。
「はあッ、はっ、はー……」
これほどまでに人並みの体力を恨んだのは初めてだった。
高校時代、運動部にでも入っていおけば、ここまで苦しむこともなかったのかもしれない。
「み、水……、水が飲みたい……」
ヘレジナが、ふらふらと泉へ吸い寄せられていく。
慌ててその手を取り、引いた。
「だ、駄目だって! 源流でも煮沸しないと腹壊すって言われただろ!」
「ううう……」
「ほら。俺のぶんの水、まだ残ってるから。これ飲んで」
ヘレジナに革袋を差し出す。
この水は、遺物三都で樽ごと仕入れたものだ。
実を言えば、ラーイウラの井戸水も、煮沸後数日間汲み置けば、不純物が底に溜まって安全に飲めるようになる。
だが、汲み置いて作った浄水の使い道は、炊事、洗濯等多岐に渡り、飲用にはあまり残らないのが常らしかった。
「……すまん。私は、カナトより年上なのに」
「喉の渇きに年上も年下もないだろ」
「ありがとう……」
ヘレジナが、舐めるように水を飲む。
遠慮しているらしい。
間接キスだなんだと言ったら、また顔を赤くするだろうか。
なんとなく微笑ましい気持ちになりながら、俺は、靴と靴下を脱ぎ去った。
岩に腰掛け、足を浸す。
「はー……」
熱を持っていた足先に、泉の冷たさが染み渡る。
「ヘレジナ、足冷やすと気持ちいいぞ」
「ほう、どれどれ」
ニーソックスを脱ぎ捨てたヘレジナが、水面に爪先を触れる。
「ひや」
水の冷たさに躊躇するも、意を決したのか、徐々に足を沈めていく。
「ふー……」
気持ちよさそうに息を吐き、
「これは生き返るな!」
と、満面の笑みを浮かべた。
「だろ?」
ちゃぷ、ちゃぷ。
隣に腰掛けたヘレジナが足を動かすたび、跳ねた飛沫が波紋を作る。
「──思えば、こうしてふたりで過ごすのは、ロウ・カーナンの遺跡以来のことだな」
「随分前のような気がしてるけど、考えてみれば、ほんの一週間前か。いろいろあり過ぎて時間感覚がおかしくなってるみたいだ」
「わからんではない。カナトと出会ってからの日々は、私が生きた二十二年の中でも、飛び抜けて濃厚だ」
「本当に、いろいろあったもんな」
良いことも、そうでないことも。
「──…………」
ヘレジナが、目を伏せたまま、小さく口を開く。
「あのときの言葉、……覚えて、いるか?」
あのとき。
幾つかの候補が脳裏に閃いては消えていく。
そうして残ったものは、
「もしかして、閉じ込められたときのこと?」
「──!?」
俺の言葉に、ヘレジナが目をまるくする。
「覚えていたのか……」
「だって、嬉しかったからな」
ぼっ、と。
ヘレジナの耳と頬が、目に見えて赤くなる。
「……嬉し、かった……、のか?」
「当たり前だろ」
頷き、微笑みかける。
「俺のことを"銀琴"より価値ある存在だって言ってくれたんだから」
「──…………」
ヘレジナが、寂しいような、ほっとしたような、いわく言いがたい表情を浮かべる。
「そっちか……」
「そっち?」
「なんでもない!」
ばしゃばしゃ。
ヘレジナの両足が激しく動き、水飛沫が舞う。
「冷たッ!」
「乙女心を乱した罰である」
「自分にもかかってるじゃん……」
「……自分への罰でもある」
ヘレジナが肩を落とす。
「年長者として立派に振る舞わねばならんのに、最近の私は空回りばかりだ。挙げ句、奴隷にまで身を落とした。自分だけならいい。守るべき相手を守れなかったのが、悔しくてならん……」
「──…………」
ぽん、と。
ヘレジナの頭に手を置き、優しく撫でる。
「!」
「頑張り過ぎだよ、ヘレジナ。ユラも、ヤーエルヘルも、俺も、守られるばかりじゃない。皆が皆、皆の力になりたいんだ。その役目をひとりで持って行こうだなんて、ずるいぞ」
「ふふ……」
そう言って、ヘレジナが微笑んだ。
「まったく、年長者の頭を撫でるなど、失礼極まりないやつだ」
「あ、ごめん」
ヘレジナの頭から手をどかそうとする。
だが、追いすがるように、彼女の両手がそれを押し止めた。
「いいのだ。カナトだから、特別に許す。だから──」
ヘレジナが、俺の肩にもたれかかる。
「……また、こうして、撫でるように」
心臓が、どきりと弾む。
俺だって男だ。
意識するなと言うほうが無理な話だ。
「──…………」
これ、大丈夫なのか。
エロバカナト案件ではないのか。
そんなことを考えながらも、しばし無言でヘレジナを撫でる。
気持ちよさそうに俺の手を受け入れる姿が、どこかヤーエルヘルと重なって見えた。
「──そろそろ、水汲んで帰ろうか」
「ああ」
どことなく満足げなヘレジナを連れ、清水の湧く小さな滝の下へと向かう。
滝の下に水瓶を置くと、心地よい音と共に水が溜まっていった。
「──…………」
これを、背負うのか。
縦に長い水瓶の容量は、目算で五十リットル。
ヘレジナを入れて背負ったほうが幾分かましというものだ。
「……大丈夫か?」
「やってみる」
背負い縄に腕を通すと、水瓶から溢れた清水が背中を濡らした。
だが、その重量に比べたら、気にもならない。
「お……ッ、も!」
背負い縄がギリギリと肩に食い込み、傾くたびに水がこぼれる。
だが、背負って歩くこと自体は不可能ではない。
あからさまに無理な重さであれば諦められるのに、このさじ加減がいやらしい。
「下り坂、マジで気を付けないとな……」
即死してしまえば、師範級の治癒術士と言えど無力だ。
「次は私か……」
ヘレジナが、満杯になった水瓶を背負うため、泉に足を浸す。
「ぐ……」
そのまま前傾姿勢を取ろうとするのだが、
「……あ、上がらん!」
水瓶は、びくともしなかった。
「ここまで非力になってしまったのか……」
嘆くヘレジナを横目に、水瓶に手を添える。
「たぶんだけど、水瓶の重さがヘレジナの体重を超えてるんじゃないか?」
シーソーでは、軽いほうがいくら頑張っても、そちらへは傾かない。
同じ重さの人間であれば、背負って歩くのも難しくないかもしれないが、相手は水瓶だ。
自ら体重を預けてくれるわけではない。
「そうかもしれん。すこし水を捨てるとしよう。そうしなければ、そもそも歩けない……」
ヘレジナが、ばつの悪そうな顔で言う。
「……これは、ずるではないからな?」
「わかってるって」
思わず苦笑してしまう。
そうして、俺たちは、重さを増した水瓶を背負い、ヒドゥンハン山を下っていくのだった。
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