第22話「七海さんの過去」
今まで見たことのない呆けた顔だ。それでも可愛さが崩れないのは凄いと思う。
今まで自分が気に病んでいた部分が、実は父親は覚えていないと言うことが明らかになったのだ。
そりゃ、こんな顔にもなる。その胸中はいかばかりか……。
「おとう……!!」
「あなた……?」
呆けていた七海さんが我に返り、激昂しようとした瞬間に……隣のお母さんが口を開いた。
酷く冷たい声色と、視線を……自身の夫へと向けている。
表情は先程までの柔らかい笑みのままなのに、酷く恐ろしい……。
「あなたぁ……そんな大事なことを忘れてたってどう言うことぉ? 私も初耳だし……そりゃあ……七海も言いにくくなるわよぉ?」
「ままままままままま待ってくれ母さん! 七海、私はいつそんなこと言ったんだ!? 本当に、本当に覚えてないんだ!!」
慌てる
「私が中学の時……
七海さんは涙も引っ込んでいた。対して厳一郎さんは頭を捻って捻って……当時を思い出そうとしている。
お母さんは冷たい視線で微笑みを浮かべ、七海さんは冷たい視線で真顔……厳一郎さんはそんな視線を受けて頭を抱えて……なんだろうこの状況。
僕はどうすれば?
「あ……」
そして、厳一郎さんは頭を上げた。目を見開き、頬には冷や汗をかいている……どうやら……思い出したようだ。
「確かに……確かに言ったかも……しれない……」
「ほらぁ!! やっぱり言ってるんじゃない!!」
「違うんだ七海! あれは
「音兄を励ます……?」
僕が置いてけぼりのままで話は進む。だけど、厳一郎さんは自分を倒さなきゃ……と考えているのが本気では無いと言うことに少し安心していた。
本気で格闘技の道場にでも通わなきゃいけないかなとか、思っていたけど……どうやらやらなくてすみそうだ。
「あの頃、彼は妹さんに言いよる男共に辟易して心配してたんだよ。だから、自分を倒すことを条件にしたらどうだいって意味で、私なら自分を倒した男しか認めないと言ったんだよ……」
「確かに……中学の時の初美はすっごいモテてたけど……そんなことが……」
「まぁ……まさか総一郎君のその言葉に感激した妹さんが、高校生になると義理のお兄さんである彼と、結婚を前提に付き合うことになるとは予想外過ぎたけど……」
貴方が二人の背中を押したんですかい……。
いや、それが悪いこととは思わないけれども、本当になんか漫画みたいな人だな
明かされた事実に顔を顰めながら、七海さんは頭痛を我慢するようにこめかみに指を当てていた。
「じゃあ、
「あぁ、私の鍛えたこの筋肉と、愛する母さんに誓おう。そもそも私は、誰かと戦うために鍛えてるわけじゃないからね」
自身の力瘤を見せつけ、隣のお母さんとの関係性も見せつけられた。お母さんは可愛らしく頬を染めて嬉しそうにしている。
先程の氷のような微笑みとは天と地ほどの差がある。
七海さんもホッとしたのか、胸を撫で下ろすのだが……僕には別の疑問が生まれた。
「あの……えーと……七海さんのお父さんは……」
「ここは定番の君にお義父さんと呼ばれる筋合いは無いとかいう場面かな? いや、堅苦しく呼ばず、名前で呼んでくれたまえ、
「……そうですか、えーと……じゃあ……厳一郎さんは、凄く鍛えていらっしゃいますけど、格闘家なんですか?」
「いいや、私はごく普通のサラリーマンだが?」
……その筋肉で普通のサラリーマンは無理がないですか? スーツもきっと筋肉でパンパンなんだろうな……。
「じゃあ、なんでそんなに鍛えたんですか? 僕も趣味で筋トレとかしますが、普通は趣味の範囲でそこまではいかないですよね……?」
「あー、確かに陽信の上半身の筋肉って、腹筋割れてるけどうっすらだもんね……お父さんはバッキバキって言うか……」
七海さんがそれを言った瞬間に、僕は部屋の温度が下がった気がした。
原因は言わずもがな……厳一郎さんから発せられる殺気だ。それも先ほどよりも強力な殺気だ。
「……簾舞君……君……うちの娘に上半身の裸を見せたのかい? それはどういう状況で……? まさか……まさか……もう、そういう行為をしているとかそういう話じゃないよね? 違うよね? 信じていいよね?」
「ちちちちちちちち違います!! 色々あって服が濡れて保健室で寝ているとき濡れた服を先生が脱がしてて、それでたまたま見られただけです!!」
「そうだよ!! 陽信は私を助けてくれたんだから!! 変な詮索しないでよね! 私達、キスもまだなんだからね!!」
まぁ……間接キスはしちゃいましたけどね……って、七海さん? なんで自分の言葉の後に自分の唇に手を当てて、赤面されてるんですか?
それでは厳一郎さんには逆効果では……?
ただ、厳一郎さんはその言葉で納得してくれたのか殺気を引っ込めてくれる。その代わり……七海さんに対して目を細めて苦言を呈する。
「七海……今回はその言葉を信じるよ。でもね、七海が細かい嘘を重ねてしまうとその言葉も徐々に信頼を失っていく。私は父親として七海を信じたいから……全部を詳らかにする必要はないけど、陽信君とデートだって次からは堂々と言ってほしい。彼なら安心できる」
「そうねぇ、私も陽信君が七海の彼氏なら安心だわ。なんだか可愛いし。細いけど筋肉もそれなりにあるようだし……。七海、鍛えてるお父さんが大好きだから……その辺、私に似たのかしらね?」
七海さんはお母さんの言葉に赤面をして、否定も肯定もしないままうつむいた……。うん、家族仲が良いのは良いことだ。僕がちょっとニヤニヤしてみると、七海さんからは少しだけ睨まれてしまった。
「実はね……七海が男の子が苦手な理由と、私が身体を鍛え始めたのには理由があるんだ……」
厳一郎さんは唐突に先ほどの僕の疑問に答え始めた。確かに話は逸れたけど、僕が聞きたかった話はそもそもそれだったんだ。
手をまるでアニメの司令官のように顔の前で組んだ厳一郎さんは、静かに話し始める。
「七海……七海が男の子を苦手になったのはいつごろからか覚えているかい?」
「えっと……確か中学に上がる前……小学校の六年生くらいの時だったと思うけど……なんか急に男の子が苦手になって……」
「うん、そうだね……そして……私が身体を鍛えだしたのもその頃だ」
「お母さんは思春期特有じゃないかって言ってたからあんまり深く考えてなかったけど……それとお父さんが身体を鍛えることと……なんの関係があるの?」
お母さんの方にチラリと視線を送ると、困ったような笑顔を浮かべている。確かに女子の高学年は同学年の男子が子供っぽく見えるとは聞いたことがあるけど……それのようなものなのだろうか?
それから、お父さんは何かを思いついたように無言で立ち上がると、一冊のアルバムを持ってきた。
アルバムを開くとそこには……子供のころの七海さんの写真が数多く収納されていた。
小さい頃の七海さんも可愛いなぁとほのぼのとした気分になる一方、当時の厳一郎さんの姿もそこにはあった。
……当時の厳一郎さんは本当に……ごく普通の体型だ。むしろ今の僕よりも細いくらいだ……。えっと……鍛えてここまでなれるのだから、人体の神秘ってすごいなぁ。
「この写真を見てもらえればわかる通り……七海は小学校の頃から凄く可愛いんだ。それこそ、そこらのアイドルなんて目じゃないくらいに可愛い。そう思わないかい簾舞君?」
「思います」
「ちょっと?!」
いや、さすがにここで「思いません」とは言えないでしょうし、これは僕の本心だ。偽るわけにはいかない。子供のころから七海さんは可愛い。
ただ、僕の隣で赤面する七海さんとは対照的に……厳一郎さんは苦虫を噛みつぶしたような表情をしている。
「そう……その可愛さが仇になったんだ……可愛い七海は小学校の時に……同じ年頃の男子達にいじめのようなものを受けて追い掛け回されて……危うく事故が起きかけた」
「え……?」
僕と七海さんの言葉が重なる。いきなりの重たい話に僕は彼女の顔に視線を送ると……彼女は困惑していた。僕はとりあえず、七海さんを安心させる意味でもその手を握る。
「陽信……」
普通はご両親の前ではこんなことはしない。だけど、今の七海さんには必要な気がした僕は彼女の手を取ることを選択した。……まぁ、さっき抱きしめちゃったし今更だろう。
……どうやらその選択は正解だったようで、厳一郎さんも七海さんのお母さんも、納得したように首肯してくれた。
「それは好きな子の気を引きたい男子特有のものだったんだろうね……。でも事故が起きた……幸い先生がすぐに助けてくれて事なきを得たが……事故へのショックからか……七海はそのことを覚えていなかったんだ……」
厳一郎さんは事故の詳細は話さない。それはきっと七海さんが万が一にも思い出さないようにとの配慮だろう。七海さんは今も思い出せないようで、困惑した表情をしている。
「だけどそれは幸いだったよ、怖くて辛い記憶を無理に思い出させる必要もないからね……。でも、その頃から七海には男子に対する苦手意識が芽生え始めたんだ」
……そんなことがあったのか……ショックから記憶が飛んでも、彼女の中には男子に対してトラウマが残ってしまった。だから男子が苦手となった……。彼女はそれを今の今まで覚えていなかったのか……。
強い拒否反応として残らなかっただけ、不幸中の幸い……と言っていいのだろうか?
「それからだよ、私がどんなものからも七海を守ることができるように……身体を鍛えだしたのは……。それと男は怖いばかりじゃないと七海に示すために……格闘技の門を叩いたんだ……総一郎君とはそこで友人となったんだよ」
「……そういえば、初美と初めて会ったのもお父さんについていった道場でだっけ」
「そうだね、それから七海は友人にも恵まれて、男性への苦手意識は年月を経るにつれ徐々に薄れていき……今日やっと……家に彼氏を連れてきてくれた……」
懐かしそうに目を細める七海さんと、嬉しそうに目を細める厳一郎さんだったが……そんなことがあったのか……。厳一郎さんもお母さんも、目に涙を浮かべている。
彼女は前に「男子が苦手なことに大した理由は無い」と言っていたが……そんな理由があったなんて……。
僕の手を握る彼女の手に力が籠っている。自身にそんなことが起きてたなんてことを知って、改めて不安になったのだろう……。だから僕は……。
「大丈夫です……厳一郎さん」
僕は七海さんとの手の繋ぎ方をあえて変える。
お互いの指を絡めさせる……いわゆる恋人繋ぎだ。初めてのそれに僕の心臓の鼓動が早くなるが、そんなことには構っていられない。
少しでも彼女の不安が払拭できるようにしたその行動に、七海さんは驚きの表情はしたものの……嬉しそうに笑顔を浮かべて、僕の手を改めて強く握ってくる。
「僕が……僕がこれから先ずっと七海さんを守ります。絶対に彼女の手を離しませんし、悲しませないです。約束します。だから……改めてお願いします……七海さんとの交際を認めてください」
僕の言葉に隣の七海さんだけじゃなく、厳一郎さんと隣のお母さんが目を見開いて驚いている。
……僕、変なこと言ったかな? 厳一郎さんも不安だろうから、これからは僕が彼の目の届かないところでは七海さんを守るつもりだったんだけど……。
隣の七海さんは真っ赤で、口をパクパクとさせている。
「あらあら……私は交際自体は認めているけど、改めて言われると……こっちが照れちゃうわねぇ……うふふ……なんて情熱的なプロポーズかしらね?」
「……そうか……私にもとうとう
あれ? 思ってた反応と違う? って……プロポーズって……?
……僕は自分自身の言葉を思い返す。
……うん……これって確かに聞きようによってはプロポーズだよね……罰ゲームで付き合ってるってことも忘れて……とにかく七海さんを安心させなきゃって思って口走っちゃったけど……。
隣の七海さんは、感激したように目を輝かせている。
厳一郎さんは安心したように目元の涙を拭っている。
お母さんは嬉しそうにその顔に微笑みを浮かべている。
……まぁいいか。これから僕が頑張ればいいだけだ。そういう意味では、やることは何も変わらない。
僕は決意を新たに、厳一郎さんと固い握手を交わした。今度の握手も……左手だった。
「あぁ、誤解させてたらすまない。私は左利きでね、握手の時もついこっちを出しちゃうんだ。だから、変な意味はないよ」
なんだ……実は認められてないのかと焦ったけれども……それは誤解だったようだ。
こうして、僕と七海さんの交際は……七海さんの両親公認のものとなったのだった。
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